俺はお前を否定しないし、
お前は俺を否定できない。



非ユークリッド幾何学


「久しぶりだな」

開会式直前、突然ドイツチームの控え室を
訪れた人間がいた。
バイザーがトレードマークの、くすんだ金の髪の少年だ。
アトランティックカップで顔をあわせていた
エーリッヒは、ドアを開けた瞬間こそ
目を丸くしたが、すぐに笑顔を取り繕って
ええ、と言った。

「リーダーは? いないのか?」

ぐるりと控え室を見回し、見知った顔が
エーリッヒのみであることに疑問を持つ。
アメリカチームのリーダーに、
エーリッヒは挑戦的な笑みを浮かべた。

「我がチームのオーダーをご覧になっていないのですか?
このチームのリーダーは、僕ですが」
「…へえ? いつシュミットを負かしたんだ?」

ぴくり、とエーリッヒのこめかみが引き攣った。
ブレットはそれに気づいた様子もなく言葉を続ける。

「実力主義のアイゼンヴォルフのことだから、
お前がリーダーということは当然
シュミットよりもお前の方が早くなったんだろ?」

バイザーのせいでその表情は確かには
読み取ることができなかったが、エーリッヒにはブレットが、
自分を嘲笑しているように感じた。
エーリッヒが、シュミットに勝てるはずがない。
そう、言っているように。
事実がそうであるだけに、エーリッヒは悔しかった。
ぐっ、と拳を固め、エーリッヒはブレットを睨みすえた。

「ご覧の通り、我々はベストメンバーではありません。
貴方がレースをお望みの彼らは、
今はまだヨーロッパの空の元にいます」
「たいした余裕だな」

喉元で笑みを噛み殺したように唇の片端を吊り上げ、
ブレットはエーリッヒの顎を手袋をした指先で掬った。

「お前たちで俺たちに勝てると思ってるのか?」

ぱし、とブレットの手を払いのける。
シュミットと対等に話のできる男だ、
高圧的なのも嫌味なのも頷ける。
だが、それに屈する訳にはいかなかった。
この男は、シュミットと、対等なのだ。

「勝負はやってみないとわかりませんよ」

ブレットは肩を竦めた。
エーリッヒだけでなく、ドイツチームのメンバー全員が、
厳しい視線をドアに立つブレットに送っている。
たった今このチームを侮辱するような言葉を吐いたのだから、
それも当然だが。

「開会式の後、第一レースだろ?
相手は……TRFビクトリーズ」

ムチャクチャな走りで混乱させられる日本のチーム。
短時間で驚くほどに実力を上げて、
作戦も何もないように、ただ無鉄砲に突っ込んでくる。
”カミカゼ”の吹く国の鮮やかなレーサーたち。
そんな走りに、今のアイゼンヴォルフで勝てるだろうか?
彼らの実力を、じっくりと見せてもらおうじゃないか。
二軍に先行させても勝てると、たかをくくっているのなら
いい度胸だ。
むしろ、侮辱しているのはお前らだ、シュミット。
くるりと背を向けて、ブレットは片手を挙げた。

「アイゼンヴォルフの名に恥じない走りをしてくれよ」

Viel Glueck!(グッドラック)とドイツ語で言い残し、
廊下の曲がり角に姿を消したブレットの背を、
エーリッヒはいつまでも睨みつけていた。

貴方なんかに言われずとも、そのつもりです。

あの男に、弱みなど見せられない。
このチームの弱みは、今はいない親友の
弱みにもなってしまう。
負けられない。
あの男にだけは。





試合終了後、すぐに宿泊先のホテルに戻る監督とは
別れて、エーリッヒと他のメンバーは着換えのために
控え室へと廊下を戻っていた。
その行く手に、壁に背を預けてこちらを向いている
アストロレンジャーズのリーダーを認め、
エーリッヒは足を止めた。
訓練された兵士のように、それに従って
他の4人も止まる。

「残念だったな」

ファンにでも貰ったのか、大きな花束を肩にかけている。
ブレットの目的が自分たちを嘲弄するためであろうことは
すぐに察しがついた。
足を止めたことを後悔するように、
エーリッヒはすぐにまた歩き出した。
ブレットの存在を無視して、その前を通り過ぎようとする。
その腕を、ブレットは掴んだ。
思っていたよりも、細い。

「だが、お前が最初から本気を出していれば
結果は違っていた。…あれは、監督の命令か?」
「だったらどうだというんです?」

ブレットから腕を取り戻そうと、エーリッヒは
力を入れて引く。
先に行け、と二軍のメンバーに目で合図をすると、
多少の躊躇はあったものの、メンバーたちはそれに従った。
静寂に陥った廊下に、ブレットの声が響く。

「今日の試合結果に、お前は満足してるのか?」
「満足しているのは貴方たちだけでしょう」

皮肉を返して、エーリッヒは真っ直ぐにブレットの
バイザーの奥を睨み据えた。

「満足するわけがないだろ、俺たちは
万全のアイゼンヴォルフと戦えると思って
WGPまで出てきたんだ。あんな走りを見せられて、
どうやって満足しろって言うんだ?」
「貴方たちがどう思おうと、関係ない。
僕らは僕らの走りを全うするだけです」
「お前の走り? あれがお前の走りだって言うのか?」

一年前、同じアトランティックカップのコースを走った
エーリッヒの走りはあんなものではなかった。
もっと鋭くて、力強かった。
あのとき僅差でドイツチームに敗れている
ブレットにとって、WGPという晴れ舞台はうってつけの
雪辱戦の機会だ。
実力が伴うならまだしも、あんな下らない
レースをするようなチームと戦いに来たのではない。

「言いたいことがあるなら、はっきり言われてはいかがですか」

胸中に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
こんなことをしている場合ではないのだ。
今日の結果報告も、次のレースへの検討も、
マシンメンテナンスも、スクールの宿題も、
やることばかりが山積しているというのに。
バイザーの下にある、知らない色の瞳が求めているのが
自分ではなく、揺るぎない自信を身に纏う幼馴染であると
いうことを判っているだけ、エーリッヒはよけいに腹が立った。

「はっきり言わせて貰おうか?
お前ら何を考えている?
あんな走りをするようなチームで勝てると
本気で思ってるのか? うぬぼれるのもいい加減にしろ。
お前もお前だ、なぜあんな監督の言いなりになる?」

鬱積したものを吐き出すように、
ブレットは矢継ぎ早に喋った。
エーリッヒは冷たく笑った。

「…ええ、そうでしょうね。彼も残念がっていました。
僕では貴方には勝てないだろうと言って。
彼も貴方に会いたいみたいでしたよ?」
「エーリッヒ?」
「なぜ監督の言いなりになるのか?
貴方にその理由が理解できるとは思えませんね。
僕らには僕らの事情がある。
貴方などには立ち入る隙のない問題です」

完全に心を閉ざしてしまったエーリッヒに、
ブレットは嘆息した。

「ったく…」

シュミットよりもずっと扱い難い。
それは、この男がシュミットよりも下であるという
劣等感を持っているから。
だが、それを刺激しないように話を持っていくような
器用なやり方など、できないとは言わないけれど
まだるっこしいだけだ。

「……いい加減に、離していただけませんか?」
「離したらお前は逃げるだろ?」
「…何が目的なんですか」
「エーリッヒとお近づきになること」
「ぶちますよ」

本気で、つかまっていない方の腕を振り上げた
エーリッヒに、ブレットは腕を離して花束を押し付けた。
エーリッヒが口を開くより早く、ブレットは理由を口にした。

「お前たちのファンからだ。渡す機会がなかったと
嘆いていた女の子から受け取ってきた。
ファンをないがしろにするなよ」

それは、情けないレースをするなということ。
ブレットが言うよりも、ファンの力を借りた方が、
きっとエーリッヒには伝わりやすい。
本当はもっと、穏やかな雰囲気の中で
渡したかったのだけれど。

「………」

ブレットの思惑通り、花束を受け取ったエーリッヒは
口をつぐんで視線を落とした。
彼にしても、不本意に違いないのだ。
自分達の事情とやらに必死で不満を押さえつけながら、
実力を出し切ることすら封じられて、
それでもこの辛抱強い少年は。

「…それでお前は満足なのか…?」

最初の質問が、また口をついて出た。
エーリッヒは諦観に縁取られた視線を上げた。

「…言っているでしょう? 僕らには僕らの事情がある。
シュミットたちがこの国の大地を踏むまで、
僕には勤めなければならない義務があります」
「今のお前の走りを見たら、シュミットは
哀しみそうだがな?」
「…僕らの意見は平行線のままですね。
どこまで行っても、交わることを知らない」

しつこいブレットを睨みつけながら、
エーリッヒは冷淡な調子で言った。
どうせ理解しあうことのできない人種だと
牽制と拒絶を溢れんばかりに滲ませた言葉に、
ブレットはにやりと笑みを浮かべた。

「残念だったな。
俺たちが住んでいる世界は、平行線の交わる世界だ」

両腕で花束を抱えているエーリッヒの唇に、
掠めるようにキスをする。
淡いピンクのささゆりの、強い芳香を鼻の奥に残し、
エーリッヒが目を丸くしている間に、
ブレットは攻撃の届かない距離に身を離した。

「シュミットに伝えておけよ。早く日本(こっち)に来ないと、
優勝だけじゃなくて大切なものまで手に入らなくなるってな」

挨拶だと言わんばかりのブレットに、エーリッヒは
言葉を失くして立ち尽くす。
我を取り戻したらまた厳しいことを言ってくるのだろうと、
ブレットは早々に退去を決めた。

アイゼンヴォルフが二軍を投入してくるとは
軽く肩透かしを喰った気分だが、
それならそれで楽しませてもらおう。
あのかたくなな心を解かすことができるかどうかは、
レースとは別問題で十分に面白そうだ。



クールでパーフェクトな微笑の仮面に隠れた素顔。
レースのときの強気な顔と、
俺に向けた静かな怒りの表情と、
シュミットの傍で見せていた穏やかな笑顔と、
そして次は、どんな表情を俺に見せてくれる?


<ENDE>


ささゆり
花言葉:清浄、上品、稀少、珍しい

うん、ゴメン。(全面降伏)
この段階では、まだエーリッヒはブレットの
興味の対象程度でしかなかったことに気づく(遅)。
つかピンクを使った自分に吃驚だよ。



モドル