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慕われるのを厭だと思ったことはない。 ただ、時には少しだけ淋しくなるんだ。 ロシアン・ティー・タイム 「少し、寄っていかないかい?」 分かれる手前で呼び止められて、エーリッヒは数度瞬きをした。 ユーリは笑いながら、少し話し相手をしてくれると嬉しい、と言った。 リーダー会議の帰り道。 アイゼンヴォルフはいつも見事に消えるミハエルの代理に、 エーリッヒとシュミットが交代で出席していた。 今日は、エーリッヒの番。 エーリッヒが当番の日には、部屋の近いユーリと、 シルバーフォックスの部屋の前まで一緒に、ということが多い。 人を思いやることに長けているユーリと一緒にいることは エーリッヒにも気が休まることなので、否はない。 おじゃまでなければ、と答えたエーリッヒに、ユーリはドアを開いた。 「С приездом,руководитель!」 (おかえりなさい、リーダー!) 部屋の中にいたセルゲイが、ぱっと明るい笑顔でリーダーを 迎える。 「С приездом!」(おかえりなさい!) 「С приездом、руководитель」 (おかえりなさい、リーダー) 「С приездом」(おかえりなさい) 「Привет」(ただいま) すぐに、アレクセイ、ウラジミール、アントンも唱和した。 その様子に、エーリッヒはどれだけ彼が慕われているか、 その片鱗を見た。 ロシア語は解らないが、「おかえりなさい」という意味の 言葉だろうことは、雰囲気で解る。 レースや日常でよく知ってはいるが、このチームのメンバーは 本当に一人一人が”リーダー”を好きなのだ。 しかし、アイゼンヴォルフも負けてはいないだろう。 皆が皆、あの年下のリーダーを甘やかす傾向にあるのだから。 敬愛…とは、少し形が違うかもしれないけれど。 今自分がここにいる理由だって、元をただせば あのリーダーのわがままを通してしまった結果だ。 「お客様ですか?」 エーリッヒの存在に気がついたウラジミールが、 日本語に切り替えて尋ねた。 客の前で、客にわからない言葉を話すことが失礼だと 思ったのだろう。 「ああ。すまないが、少し部屋にいるから」 「わかりました。お茶をお持ちしましょうか?」 「ああ、頼む」 ユーリの後に続き、エーリッヒはフォックスたちに軽く会釈を しながらそのリーダーの部屋へと入った。 きちんと整頓された部屋の中は、彼の性格を現すようだ。 エーリッヒを招き入れてドアを閉めると、ユーリはふぅ、と 溜め息を吐いた。 「すまない、騒がしくて」 「いいえ、そんなことはありませんよ。 貴方たちで騒がしいのなら…」 ふと、エーリッヒは思わぬ失言をしようとしている自分に気づいた。 語尾を消し、苦笑に言葉の先を紛らすと、ユーリも理解したのか、 それ以上を聞こうとはしなかった。 ユーリは適当に座って欲しいと身振りで示した。 エーリッヒは遠慮の態を見せながら、そっとベッドに腰を下ろす。 「レースで知ってはいましたけれど、 貴方は本当に、慕われているんですね」 「そうだね」 机の椅子を引いて、ユーリはそこに腰掛けた。 「でも、君も同じだろう? 皆に必要とされている」 「いえ。僕など…」 「君の持っている、そのプリントが何よりの証拠だよ」 エーリッヒはプリントに視線を落とした。 次のレースの相手や様式が報告された、代表者会議の資料。 「君も、チームメンバーの信頼を背負っている」 「…そうですね」 エーリッヒはふと、口元を緩めた。 信頼。 寄せられているのは知っている。 だから、日本に先行させられたのだし、祖国へ送り返される こともなかった。ドリームチャンスレースという、 汚名返上のチャンスをもらえたことだって。 “お前ならやれる”という無言の信頼の表れ。 だがそれは同時に、ひどく重苦しいものを 持って身に迫ってくる。 「…君と僕とは、よく似ていると思う」 「…え?」 予想外の言葉に、エーリッヒは顔を上げた。 ユーリはエーリッヒの方に視線を向けて、穏やかに笑っていた。 「…そんな。僕はユーリさんほど立派でも、 思いやり深くもありません。似ているところなど」 「君も、チームの為に自分を犠牲に出来る」 エーリッヒの顔に、陰りが差した。 確かに、共通点といえば共通点といえるかもしれない。 チームの実力不足をカバーするためにフォローに徹する ユーリのスタンスと、 なかなか公式試合に出られない二軍を走らせてやりたいがために、 自分の信念をも曲げようとしたエーリッヒと。 しかし、やはり違う。 エーリッヒには、自分を殺しきることが出来なかった。 「…すまない、押しつけるようなことを言ってしまって」 エーリッヒは首を振った。 コンコン、とドアをノックする音が、部屋に響いた。 ユーリは軽く立ち上がってドアを開け、 ウラジミールから、紅茶のセット一式の載ったトレイを受け取った。 「ありがとう」 「いいえ。ごゆっくり」 エーリッヒに向かってそう言うと、ウラジミールはユーリに一礼して ドアを閉めた。 机の上にトレイを置いて、ユーリは白いカップに紅茶を注いだ。 トレイに一緒に載っているお茶請けは、 ビスケットと苺のジャムだった。 「そうだ、いいものを出そう」 紅茶のカップをエーリッヒに渡してから、 ユーリは机の一番下の引き出しから一本の瓶を取り出した。 淡いピンク色をしたものが、瓶には詰まっていた。 「祖国では苺ジャムが普通なんだが。 日本には面白いジャムがいろいろあるから、つい買ってしまう」 小皿の上にピンクのジャムを取り分けると、 ビスケットとスプーンを添えて、ユーリはエーリッヒに差し出した。 水色の濃い紅茶と渡されたものを見比べて、 エーリッヒは困ったような顔をした。 「濃いからね。ジャムをつけたビスケットを齧りながら 飲むか、ジャムをそのまま舐めながら飲んで欲しい」 言われたとおり、エーリッヒは遠慮気味に手を伸ばして ビスケットにジャムをつけ、口に運んだ。 濃い紅茶の味とジャムの甘み、そして穏やかな香りが 口の中に広がって、 優しく心を溶かしてくれるのが判った。 「…おいしいですね」 「よかった」 「ところで、これは何のジャムなのですか?」 香りから、何かの花のジャムなのだろうと 言うことは推測がついたが、その正体がわからない。 少なくともその風味から、バラのジャムでないことは 確かなのだが。 「レンゲだよ。珍しいだろう?」 ネットで見つけて注文したんだ、とユーリは言った。 「レンゲ、ですか」 小さなスプーンでジャムを掬い上げると、ユーリは それをそのまま口へと運んだ。 それを見て、エーリッヒは、この国の紅茶の飲み方は、 きっとシュミットのお気には召さないだろうと思った。 彼は甘いものが苦手だから。 「…君とシュミットの関係を、 僕はとても羨ましく思う」 「えっ?」 ぎくりとして顔を上げたエーリッヒに、ユーリは苦笑した。 「いや、シュミットに限らない。君たちのチームの関係を、 僕は羨ましく思う」 心中で胸を撫で下ろしながら、エーリッヒはどうして、と言った。 「羨ましいのは僕ですよ。貴方たちのチームは、」 「きっと僕は彼らと、友達になることは出来ない」 エーリッヒの言葉を遮り、ユーリは淋しげに視線を伏せた。 それは彼にしては、珍しいことだった。 「彼らは一生、僕を対等とは見てくれない。 たとえミニ四駆を止めても、僕がそう望んでも。 きっと彼らは僕のことをユーラとは呼ばない」 「ユーリさん…」 ユーリはシルバーフォックスのメンバーにとって、 リーダーであると同時に監督だ。 大人の代わりになれる、絶対の敬愛の対象を、 彼らが愛称で呼ぶことはありえない。 名誉なことなのだけれど、それは同時に。 「…僕がリーダーでなかったら、 彼らともっとよい関係を結べていたんじゃないかと、思うよ」 ユーリは言い終わると、静かに紅茶を啜った。 エーリッヒの視線に気がついて、ユーリはにこりと笑った。 「すまない、変な話をしてしまって」 「いいえ。…でも、どうして僕に?」 「そうだね。判らない。…なんとなく、かな。 君なら他言しないだろうし、それに、…似ていると思ったから」 信頼されている人間が背負う重み。 それは生真面目な人間であればあるだけ、 重く苦しくなっていくものだ。 責務から、そのレッテルから、逃げ出したいと思ったことが、 あるだろうと思ったのだ。 エーリッヒは頷いた。 先刻ユーリが言った、「似ている」の意味を、ようやく掴めたからだった。 「…もしも僕でもあなたの力になることができるのなら、仰ってください。 できるかぎりのことは、させていただきますから」 「ありがとう。でも、いいのかい? 仮にも僕らはライバルチームなんだが」 「いいんです。これが僕の信条ですから」 「…ありがとう」 微笑を消すことなく、ユーリはカップの底に残った紅茶を見つめた。 深い色の液体の中に、「リーダー」の顔ではない人間が映っていた。 「…そろそろ、戻るかい?」 ちらりと時計に視線を滑らせ、ユーリは尋ねた。 エーリッヒがこの部屋に来てから、もう30分以上が経過していた。 おそらくエーリッヒは、この状態では自分から退出するとは 言い出さないだろうと、ユーリは先手を打ったのだった。 「あ、はい。…では、そろそろ」 きっと、エーリッヒの帰りの遅いことを心配(?)してくれている人がいる。 紅茶のカップをトレイに置き、それを持とうとしているエーリッヒを制して、 「そうだ、これをあげよう」 ユーリはレンゲジャムの瓶を差し出した。 「そんな。頂けません」 ユーリの手へと瓶を押し返そうとすると、 ユーリはひどく断りづらい人のいい笑顔を浮かべる。 「この香りは、心身をリラックスさせてくれる。君には必要だと思う。 …それに、アイゼンヴォルフのリーダーのお気に入りを 不当に拘束してしまったのだから、そのお詫びもかねて」 そこまで言われて断るのも失礼なので、 エーリッヒは礼の言葉と共にジャムを受け取った。 これを食卓に出した時のミハエルの笑顔が、手に取るように判る。 珍しいものには目のない人だから。 ベッドから立ち上がりながら、 エーリッヒは今日は楽しかったです、と言った。 「あの、よろしければまた」 「ああ。次はタンポポジャムをご馳走してあげるよ」 「いいえ、次は僕にドイツ式の紅茶を淹れさせてください」 ユーリの笑顔を了解と受け取って、 エーリッヒはプリントを持って部屋を出た。 姿勢のいい背中を廊下まで見送って、 ユーリはチームルームのリビングへと戻った。 学校での出来事の報告や、レースのことなど、 メンバーたちが話しかけてくる言葉をゆっくりと聞きながら、 ソファに座る。 祖国の家の、サモワールが瞼の裏に浮かんだ。 その伝統的な美しい湯沸かし器の色が、 なぜかエーリッヒの瞳の色と重なった。 ああ、楽しみにしている。 そうして、窓の外の空の色とも。 <ENDE> |
レンゲ:
実り多き幸せ,、私の苦しみを和らげる、感化、私の幸福
型破り。
ユーリは人の心を読むことができるんだよ(マジデ?)
モドル