日本における朝の通勤ラッシュというモノには、ドイツ人はよくよく慣れることができない。
 乗車率200%近い状態など、彼らの国においてはありえないからだ。
 一軍が日本へ到着して2週間。ドリームチャンスレースで勝利を飾った彼らへの御褒美として、
 リーダーから二人きりで外出を許された土曜日。
 せっかくだからと朝早くから街へ出かけようとしていたシュミットとエーリッヒは、
 不運にも一番込む時間帯の電車に乗りあわせてしまった。
 何度かラッシュを目撃したことのあるエーリッヒは、
 都心へと向かう電車の中から駅に居並ぶ大勢の会社員たちを認めてしまったと思った。
 開かない方のドアを背にして立っているシュミットを自らの身体で覆うように、
 手をドアのガラスに付いて体勢を固定する。
 その仕草はあくまでさりげなく。
 そんなに強くもないくせに守られることをひどく嫌う彼の幼馴染が、気分を害さぬように。
 ドアが開くと同時に我先にとドドッと人々が乗り込み、あっという間に彼ら二人は
 開かなかった方のドアに押し付けられる形になってしまった。
 シュミットへの負担を減らそうと踏ん張りながら、参りましたね、と言った。

 「済みません、忘れていて。こちらにはこういうことがあるんです」

 通勤ラッシュの説明を口にのぼせようとしたエーリッヒを遮るように、
 シュミットはああ、と気の乗らない返事を返した。
 エーリッヒでさえ辟易しているのだから、風情もなにもあったものではないこういった状態に対して、
 シュミットが良い気分でいられるはずがない。
 せっかく久々に二人で外出なのに、出だしから最悪だ、とエーリッヒはラッシュの時間を
 考えに入れていなかった昨夜の自分を呪った。
 ピリリリリリ、という鋭い笛の音と共に無理矢理ドアが閉じられ、
 電車は都心へと向けてゆっくりと動き始めた。
 どうやって彼のご機嫌を伺おうか、と思案をめぐらせていたエーリッヒは不意に、
 自分たちの距離の近さに気づいた。
 国を出る前の、最後の身体測定で判明した自分と彼の身長差は6cm。
 それは、そんなに大きな差ではない。
 特に今は、肩や首をすくめなければならない状態だから。
 彼の整った顔立ちが、触れそうなほどに間近にあるということに平常心でいられるほど、
 エーリッヒは身体接触に慣れているわけではなかった。

 「…ッ!?」

 そんな折、不意に臀部によからぬ感触を感じ、エーリッヒは息を詰めた。
 ゆっくりと、まるで不快感を与える為にそうするように撫で回してくるのは
 明らかに意図を持った人間の手だ。
 そっと首をめぐらせて視線を背後に送ると、
 派手目の化粧をした女性と目が合った。
 彼女はにこりと悪意なく微笑み、エーリッヒのお尻を揉んだ。

 「………っ…」

 どうしていいか判らず、エーリッヒは黙り込んだ。
 女が男に触られるなら声を出すなり何なり抵抗しても不自然ではないが、
 エーリッヒは男だ。こういうことで大勢のいる前で声を出すことは躊躇われたし、
 力に訴えることもできそうにない。
 また、彼女に恥をかかせるような行為が、フェミニストの傾向があるエーリッヒに
 できるはずがなかった。

 「!」

 さらに微妙なところへと指を移動させていく彼女に、
 エーリッヒは伏せていた目を固く閉じた。

 「…おい」

 シュミットが呼んでいる、と思った瞬間、
 エーリッヒは頭を彼に引き寄せられ、抵抗する間もなく彼と唇を重ねさせられていた。
 女の手が、明らかにびくりと同様を示してエーリッヒから引いた。

 「何を…ッ!」

 一瞬のキスの一瞬後に、エーリッヒは声を抑えながらもシュミットに抗議を浴びせていた。
 こんな公衆の面前でキスされたのだから、それも当然かもしれなかった。
 が、シュミットは元の通りドアの窓の外を流れていく景色を瞳に映しながら、さらりと言い返す。

 「お前に触れていいのは私だけだと、あの恥知らずな女に教えてやっただけだ」
 「どっちが恥知らずですか! よりによって、こんな、大勢の前でっ…!」
 「気にするな、旅の恥はなんとかだと言うし。それに、こんな混雑の中じゃ誰も
 私たちのことなど見ていないよ。特に注目でもしていないかぎり、な」

 だからこそあの女にも効果覿面だったろう? とシュミットは言いながら、
 ちらりと上目にエーリッヒを見た。

 「だからって…!」
 「なんだ、触られていたかったのか?」
 「そうじゃないです、けどっ…!」

 たしかに、もうあの女性の手は触れては来ないが、
 自分たちの関係を公にする気のないエーリッヒは何かを言い返そうとして口ごもってしまう。
 そんなエーリッヒに、シュミットは窓から離れて頭を彼の肩にもたせた。

 「…おまえの声も身体も心もすべて、私のものなのだからな。
 誰にも、私の許可なく触れることは許さない」

 ラッシュの電車の中では、身体が触れ合うことも仕方がない。
 だが、囁かれた言葉もぬくもりも、エーリッヒには常のそれよりもずっと熱く感ぜられた。
 まるで――何度も繰り返された夜のそれのように。
 エーリッヒの気持ちを察するかのように、シュミットは誰にも聞こえない小さな声で
 「愛している」と言った。
 周囲の人々には理解できない言語であっても、エーリッヒは誰かに聞かれることを恐れるから。

 「…シュミット……」

 その言葉に心をほぐされたかのように、エーリッヒはシュミットの好きな、
 落ち着いた声音で名を呼んだ。
 揺れる電車の振動と、一定のリズムを刻む音とが、鼓動と重なる。

 「…私だけが、知っていればいいんだ」
 「?!」

 言葉と一緒に、腰の丸みを撫でられる。
 本人は目を閉じたまま平然としているが、間違いなくシュミットの悪戯だ。

 「…止めてくださいませんか」

 無遠慮に触れてくる手の甲を、エーリッヒは思い切り抓ってやった。

 「ぁ痛っ!」

 慌てて手を引き、シュミットはエーリッヒを睨み上げた。

 「何だ、あの女のときは好き放題させていたくせに。
 やはりあの女の方がいいのか?」

 エーリッヒは窓の外で次第に速度を落とす景色を映す。
 降車駅まで、あと数秒。

 「…貴方以外に触られるのなんて嫌に決まってるじゃないですか。
 僕はモラルを大切にしたいだけです。
 さ、降りますよ」
 「エーリッ…」

 開いた電車のドアから吐き出される大量の人の波の中に、
 エーリッヒはシュミットの手をしっかりと握って飲み込まれる。
 らしくもない嬉しい発言をしてくれた恋人が、
 今はきっと顔を真っ赤にしているだろうことを想像して、
 シュミットは自身嬉しくなりながら、
 人込みの中で彼の手を強く握り返した。

                                           <了>


コンセプトは、「頼りにならないナイト様」と「頼りがいあるプリンセス」です。
二人の会話は全部ドイツ語なので、周囲に理解はされないでしょう、が、
イッヒリーベディッヒくらい判る人には判ると思うのですが(笑)。
多分エーリッヒさんが過敏に反応してるのは昨日の夜に挿(強制終了)

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