この頃の僕らはまだ「子供」で「対等」で。
追いつけなくなるなんて考えたこともなかった。
情熱
鋭いコーナリングを見せて、淡青のマシンが黒いマシンに並ぶ。
他のマシン達を引き離して、その二台の激しい先頭争いが続いている。
第6コーナーで、青いマシンがトップを奪った。鋭いコーナリングは持ち主の腕を物語っている。
だが、その直後にロングストレートで黒いマシンが抜き返す。思いきりのいいストレートでの伸びは、
このマシンのコーナーへの対処とバランス良く調和している。
両者、譲らない。
「行けッ、シュヴァルツ!!」
「かわせ、ローデルンッ!!!」
二人の少年の声が、高い空へと響いていく。
アップダウンの激しい高速ヒルクライムを抜ければ、そこは決着のホームストレート。
下り坂でスピードを付けた、青のマシンが微かに先頭に出る。
「もらったッ!!」
「甘いな、エーリッヒ!」
あの時の歓声が、いまでも耳の中でこだましている。
「まったく、負けず嫌いすぎるんだよお前は!」
ぼす、と音をさせて二つあるベッドの片方に腰を下ろし、少年は目の前の親友を睨み上げた。
座りもせず立ちつくしている銀髪の少年は、肩身が狭そうに身をちぢこめている。
栗色の髪の少年は、美しく整った顔いっぱいに不満の表情を浮かべていた。その、傲慢とも取れる態度は、
彼の育ちをそのまま体現している。
「お前は、今日のレースを何だと思ってたんだ? 普通のレースじゃなかったんだぞっ!」
苛立ちをそのままに言い募る少年は、今年のアイゼンヴォルフ入団レース第1日目でベストタイムを記録し、
現在総合トップの位置にいる。
俯いて、お叱りの言葉を全身で受け止めている少年は、総合第2位。
本拠地をベルリンに持つ、ドイツ最強のミニ四駆チーム・アイゼンヴォルフでは、毎年8月の初頭に入団レースをする。
そこで上位に入った数人が、入団するのだ。もちろん、実力主義のこのチームにおいて、外部からの道場破りがないわけではない。
尤も、今までその手の連中にアイゼンヴォルフが揺るがされたことはなかったが。
「せっかくベストタイムでゴールしたってのに、お前のせいでいい恥さらしだ。判ってるのか、エーリッヒ!」
約1週間ぶりに顔を合わせたというのに、小言ばかりだ。
だが、自分に非があると認めているエーリッヒは、ただ黙ってそれを聞いていた。
微かに、相手が溜め息をつく気配。
「…ちょっとくらい、言いかえしたらどうだ?」
そこでやっと、エーリッヒは少し首をもたげた。上目遣いにシュミットの様子を伺う。
「…だって、……わるいのは、僕だから」
かき消えそうになる、小さな声で言う。
シュミットの言っていることは逐一尤もで、誰がどう考えてもエーリッヒの方が悪いのだ。
入団レース決勝で、コンマ1秒の差もなく敗れたエーリッヒが、悔しさから発した言葉。
『もう一度、勝負してくださいッ!!!』
大勢のギャラリーの前で。
シュミットの襟首を掴んで。
強い意志のこもった瞳で。
大きな声で。
吠えた。
負けず嫌いなのは昔から。
普段は思慮深く控え目なのに、どこか頑固で不器用で。
レースになると我を忘れて、一生懸命にマシンを追っていく。
そんな親友が、シュミットは、……嫌いでは、なかった。
「そうだ、お前が悪いんだ。だけどな、」
シュミットは、ベッドから立ち上がる。
エーリッヒより、ほんの少し視線が高くなる。
「お前は、私に負けたのがいやなんだろう? 私に負けるはずなんかないって思ってたんだろう」
シュミットの言葉に、エーリッヒの瞳がまんまるに見開かれた。そのまま、ぶんぶんと激しく首が左右に振られる。
シュミットは微かに口の端をつり上げてやった。ニヒルな笑みがこれほど似合う、8歳児もなかなか居ないだろうと
エーリッヒは常々思っている。
「そうじゃないのか? もう一度レースすれば、私に勝てると思ってたんだろう」
アクアマリンに映り込む、アメジストは逃げを許さない強さでエーリッヒを射竦めている。
「…そうですけど、あの、勝てるなんて、思ってたわけじゃないんです。負けるかもしれないとも、思ってました」
差はほとんどない。実力は互角。だから、勝負の行方など見えなくて。
ただ、レースが面白くて。でも、やっぱり負けたのは悔しくて。
再戦に勝算など?
「うそをつくな。お前は、ぜったい私に勝てると思ってたんだ。だから、負けたからくやしくてしかたなかったんだ」
「ち、ちがいます。…たしかに、勝てるかもしれないって思ってました。でも、勝てるかどうかなんて」
青い瞳は惑っている。一点に定まらない視線が、二人の部屋の中をうろうろと彷徨っている。
エーリッヒは、時々無意識に嘘を吐く。無意識の嘘は無意識に彼の面に現れる。シュミットは、それを知っている。
勝負に絶対など。
「一週間前は、お前は私より速かった。だから、勝てると思ってたんだ。違わない」
学校が終わった後、最後にした勝負は、3回ともエーリッヒの勝ちだった。
シュミットの悔しそうな顔。もう一回だと言った悔しそうな声。
エーリッヒの嬉しそうな顔。何度やっても、僕の勝ちですよと言った嬉しそうな声。
二人が走るのは。
勝てるとか、勝てないとか判るからではなく。
「負ける」というその事実が自分にもたらす大きなもの。悔しさ。疑問。脱力感。プレッシャー。そして、それ以上の向上心。
“次は負けない。”
でも、それ以前に感じるものがある。
レース前から、レースの始まる直前、レース中。
結果以前の、あの気持ち。
エーリッヒは、目を閉じる。
ひとつ、大きく息を吸い込む。
「…わからない。あなたの言うとおりかもしれない。勝てると思ってたかもしれない。だって、僕はこの一週間
いっしょうけんめいセッティングをして、あの時よりも速くしていたんです。今日も、勝てるように」
アイゼンヴォルフ入団レース。テクニカルなコーナーも、ロングストレートも、ループもヘアピンある、怖ろしく難しいコース。
それを目の前にして、背筋に走った感覚。
彼と、マシンを走らせるときのあの興奮。
負けたのが悔しいのも事実。
疑問に思ったのも事実。
でも、あの高揚感がもう一度味わいたかったのも、事実。
気が付いたら、叫んでた。
『もう一度、勝負してくださいッ!!!』
「だけど、あなたに負けた。くやしかった。だから、もう一度レースしてほしいと思った。勝てるかもしれない、
勝てないかもしれない。でも、そんなのはぜんぜん関係ない…、なかったんです。シュミット、」
エーリッヒは、にこりと笑った。
それは、どんなときよりも上機嫌な表情。
ミニ四駆のことについて話しているときよりも、もう少し落ち着いた表情。
「レース、楽しかったですね」
もう一度、彼と走りたかったんだ。
あの興奮を、味わいたかったんだ。
「……ああ」
に、とシュミットが笑う。
答えを求めていたこの少年も、納得した。
結局二人とも、レースが大好きで楽しくて。勝った負けたの結果があるから頑張るけれど、それ以上に過程が好きで。
だから、この世界から離れられない。
「…やっぱり、お前は青い炎だな」
ぽつり、呟く。
「え?」
紫の瞳が、再び銀髪の少年を捉える。
「お前は、青い炎なんだ。見えないぶん、熱い」
エーリッヒのマシンの名前。
『BLAU LODERN』
“青く燃え上がる炎”。
内に仕舞ってある、情熱的な炎は誰よりも熱い。それに、誰も気付かない。近しいもの以外は、誰も。
だから、皆はエーリッヒを大人しい子だという。違う。嘘だ。エーリッヒは。
「…そうですか? それは、僕じゃなくてあなたでしょう?」
冷めた子供だと、多くの人は言う。だけれど、それは違う。嘘だ。シュミットは、本当は冷めているのではなくて、
興味が湧かないだけ。それに、誰も気付かない。近しいもの以外は、誰も。だから、彼は一番惹かれたものに
情熱を燃やす。
「私は、お前のようにヘタに自分を隠したりしない。私が誰をスキで、誰がキライか、見ててわかるだろう?」
「…ええ、まぁ」
シュミットの他人への態度は、いっそ気持ちが良いほどに裏表がなかった。目上や目下や、最低限の礼儀は
わきまえているが、シュミットの、その人への感情は一目瞭然。誰が見ても関係を履き違えることはなかった。
だから、シュミットは尊敬や異性の憧れの的になりはしたが、近づく者は少なかった。それが、彼の本質だった。
誰に対しても隠さない、シュミットの黒い牙。
その点、エーリッヒは人当たりが良い。他人への丁寧な対応や親切な態度は、誰にも不快感を抱かせない。しかし、
そのかわりに、エーリッヒには裏と表があった。誰を嫌っていて、誰が好きなのか、判らないからエーリッヒは人気があった。
エーリッヒは、人との付き合いに辟易していた。にもかかわらず、エーリッヒは親切であり続けた。それは、彼の防衛手段だった。
「お前はえんりょ深い。考え深い。注意深い。つつしみ深い。なにもかも、深いところにかくしとくんだ。私は、お前の
そんなところはキライだ。大キライだ」
親友に、いきなり嫌いだと言い切られて、エーリッヒの胸にずきんと痛みが広がった。
エーリッヒが誰に対してもソフトであり続けるのは、その一言から自分自身を守る為なのに。
微かに、唇が震えた。
「シュミ、」
「だからな、エーリッヒ」
彼らしい強引さ。シュミットは自分の声でエーリッヒの言葉を遮った。
「ときどきちらりと見える、お前の炎が私はスキだ。恥をかかされたのは嬉くないけど、くやしかったからもう一度と言った、
お前の行動はキライじゃない」
低いようで高い、エーリッヒのプライド。
垣間見られるのは一体何人だろう。
誰の目にも映らない、青い炎が見えるのは何人だろう。
「エーリッヒ」
勝ち気な笑顔を、シュミットは浮かべる。エーリッヒは、その表情こそシュミットに相応しいと思っている。
「なんですか、シュミット」
「レース、しようか」
「シュミット」
エーリッヒの顔が輝く。
しかし、そのすぐ後には眉根が寄せられる。
「…どこで?」
「決まってる。今日走った、あのコースだよ」
まだ、撤去されていないはずだ。明日は入団レースの2日目だから。
アイゼンヴォルフ宿舎の近くに設営された、入団希望者の宿舎(4人1部屋)に入ることを嫌がったシュミットが、
勝手にエーリッヒとの二人部屋を取ったホテル。そこから、今日のレース会場までは歩いて10分。
時刻はもうすぐ、PM10:00。
「でも、あそこは入っちゃいけないって」
モラルや規則や、倫理を大切にするエーリッヒは惑う。
シュミットは、気にしない。
「走りたいんだろ? 私と」
「そうですけど。でも、」
「エーリッヒ。ルールや常識しか見てないと、新しい流れを見失うぞ」
ほんの少し、エーリッヒの目が大きくなった。
それは、子供の屁理屈かもしれなかった。意味のない言い訳かもしれなかった。
だけれど、エーリッヒにとっては非常に説得力があって。
「…行きましょうか」
嬉しそうに、自信ありげな笑みを浮かべた。エーリッヒの表情で。
「今度は、負けませんよ」
「誰にものを言ってるんだ? 私の勝ちに決まってる」
1993年、8月。
アイゼンヴォルフ入団テスト第1日目、夜。
小さなレースが開かれる。
【了】
私は、エーリッヒもシュミットも、まだまだ子供だと思う。
この頃はまだフルカウルミニ四駆は主流じゃないですよね(レーサーミニ四駆、スーパーミニ四駆の時代?)。
lodern:炎をあげて燃え上がる←動詞です(死)
ちなみにシュミットのマシンは『Schwarz Fung』、黒い牙、です。
モドル