理解以前の拒絶(11)
「エーリッヒ。この十字架をじっと見て」
「はぁ…」
握らされた銀の十字架の真ん中を見つめて、エーリッヒは生ぬるい返事をした。
シュテファン、ヨハン、ミハエルの視線を痛いほど感じて、エーリッヒはぎこちなく居住まいをなおした。
「神はすべてを見ておられる。虚偽の証言は通用しない。いいね?」
シュテファンの言葉に、エーリッヒは静かに頷いた。
「よし。じゃあ、いくよ…」
一瞬、部屋の中が静まり返る。
「正直に告白を、エーリッヒ。…ラルフとどこまでいったの?」
「…ハンブルクまで?」
………………………………………。
間。
「…そうじゃなくて…」
「関係的にだよっ!」
ヨハンがじれったそうに叫ぶ。
質問の本当の意味をやっと理解したエーリッヒは、二重の意味で頬を染めた。
「そんなっ…別に、なにも…」
「はい嘘っ!!」
していない、と最後は消え入りそうな声で呟くエーリッヒに、ミハエルは思い切り抱きついた。
「うわ…!」
ぐらりとエーリッヒの体が傾き、腰掛けていたミハエルのベッドに倒れこむ。
エーリッヒにしっかりとしがみついたまま、ミハエルは口を尖らせた。
「2週間だよ、ラルフと付き合って! 何にもないなんてあるはずないよ!」
あったらそれこそ地球の終わりだ、とでも言いたそうなミハエルに苦笑して、エーリッヒは首を振った。
「でも、本当に…特に何もないんです」
記憶を思い返すように視線を巡らせる。
「ほんとにぃ? こーゆーこともしてないの?」
「本当です…って、ちょ…ミハエル!」
吐息を吹きかけ、耳たぶを甘噛みしてくるミハエルの身体を押し返す。
身体を半分ほど起こし、耳を押さえてエーリッヒはミハエルを睨んだ。
「冗談もほどほどにしてください」
「…冗談じゃなかったら?」
青い目で真っ直ぐに見つめてくるミハエルから、エーリッヒはぎくりとして目を逸らした。
「冗談じゃなかったら、続きをしてもいいの? エーリッヒ?」
「こらこら、人の恋人に手を出すのは反則だろミハエル」
「「「ぅわあぁっ!!」」」
突然振って湧いたように登場したラルフに、ミハエル以外の3人の悲鳴が重なった。
ラルフは戸口のところに立って、余裕の笑みを口元に浮かべながらミハエルたちを見ている。
「ラルフ、っあのっ…!」
浮気現場を発見されたかのように慌てるエーリッヒにラルフは俯いて肩を振るわせた。
実際、素直で馬鹿が付くほど真面目なエーリッヒの行動は、
適当に流すことを知っているラルフには面白くて仕方がなかった。
目元を隠して笑いながら、声だけは淋しそうに響かせて見せる。
「そうかぁ、エーリッヒは俺よりもミハエルと先に進んじゃってるのか…」
「ちがっ…! 僕は何もしてませんっ!」
ミハエルの身体をどかせようとしながら、エーリッヒは泣いているように見えるラルフに言い訳をする。
その必死っぷりが可愛くて、でも少し気の毒になって、ラルフは判ってるよ、と顔を上げた。
「さぁてミハエル、退いてもらおうか? そこは俺の特等席だからな」
むぅ、と膨れ面をして、ミハエルはぎゅっとエーリッヒの脚にしがみ付いた。
それは確実に、「渡さない」という意思表示。
しゃーねーな、とラルフは溜息混じりに呟いた。
「エーリッヒ。外行こうぜ」
本来の目的がエーリッヒをこの部屋から連れ出すことだったのだろう、ラルフはドアを開けて晴れ渡った屋外に溢れる陽光の中を指差した。
「あ、はい。……ミハエル、すみませんが」
太陽よりも柔らかく微笑まれて、ミハエルは渋々ながらエーリッヒを解放した。
ヨハンやシュテファンにも一礼を見せると、エーリッヒは先に外へと出て行ったラルフを追いかけて行った。
「…強くなったよね、エーリッヒ」
ヨハンが呟く。
このところ、エーリッヒに対する噂はますますひどくなっていた。
それはラルフの申し出を受け入れたことにも原因があっただろうし、シュミットやミハエルといった、
この学校でも指折りの良家の人間と仲良く出来ている事に対する僻みもあっただろう。
噂の中に、どれだけ真実が含まれているのかは判らない。
だが、確実に真実からは外れている酷い噂ばかりが、ここのところ学校には蔓延していた。
それはエーリッヒの耳にも届いているはずだ。ラルフは情報操作を殆ど打ち切ったと言った。
しかし、エーリッヒは綺麗な笑顔を失わなかった。
以前の彼ならば、目を伏せ背を向けて耳と心を塞いでいただろうに。
「ずるいよね、ラルフってば」
あんなエーリッヒの笑顔を独り占めできるんだから。
ミハエルは呟いて、部屋を出た。
寮から出て少し行った場所にある公園の中で、突然ラルフは立ち止まった。
隣を歩いていたエーリッヒは、ラルフより半歩前まで歩いて歩みを止める。
公園内に人の姿はまばらで、時折小鳥の声が楽しげに聞こえてくる。
「…なぁ、エーリッヒ。シュミットとキスしたことあるって本当か?」
今日はどこから仕入れてきたのだろう。
ラルフの突然の質問に、エーリッヒはびくりと身を震わせた。
校舎裏でいきなり、シュミットにキスされたことは、嘘ではない。
その反応だけで、噂がただの噂でなかったことは明白だ。
ラルフは薄く笑った。シュミットのヤツずりぃ、と呟いた。
「俺もエーリッヒとちゅーしてぇ」
欲望をそのまま口に出せば、きっとエーリッヒは顔を真っ赤にして視線を逸らすと思った。
だから言ったのに、予想はまったく裏切られた。
「…どうしてしないんですか?」
「…してもいいのか?」
真剣な顔をして尋ねてくるラルフに、エーリッヒはくすりと笑った。
噂で、ラルフの手の速さを聞いたことがあった。ミハエルには、さっきのような調子で毎日のように昨日何もなかったかと詰問される。
だから、エーリッヒは2週間経ってもラルフがキス一つしてこない事に、首を傾げることがあった。
だが、噂は噂、本当はラルフは結構謹厳な人なのかもしれないと、エーリッヒは思っていた。
「…僕たちは、付き合っているんですよね?」
ならばキスくらいしてもいいのではないか、と言外に付け加える。
ラルフはそっとエーリッヒに腕を伸ばした。
彼の肩を優しく掴んで引き寄せ、顔を寄せる。
大人しく瞳を閉じたエーリッヒに、ラルフは顔を近づけた。
あと数センチで触れる、ところで、ふとラルフはエーリッヒの緊張に気づく。
…ああ、触れてはいけない。
目標を変え、ラルフはエーリッヒの額に唇を押し付けた。
「…っ」
微かに、エーリッヒの身体が震えるのが唇を通して感じられた。
「…ラルフ?」
「ごちそーさん」
そっと目を開いたエーリッヒの頬にも、軽くキスを落とす。
「え、あの…?」
「何、エーリッヒはどこにされる気でいたんだ? ここ、公園だけど?」
惑うような声にからかい混じりの口調で尋ねると、エーリッヒは頬を染めて知りません、と顔を背けた。
つかまれた腕から抜け出そうとしているのが感じられて、ラルフは笑った。
腕を離すと、目を逸らしたまま、エーリッヒは飲み物を買ってきます、と言い残して駆けて行った。
暫くその背を見送ってから、くるりと回れ右をする。
「…で? 何か用か、ミハエル。そんなところに隠れてないで出て来いよ」
公園の立ち木の一つに声をかけると、寮からずっとつけてきたのであろう、ミハエルがひょこりと顔を出した。
上目遣いに睨んでくるその顔は不機嫌を隠そうともしていない。
ラルフは肩を竦めた。
「そんなに羨ましい?」
「…そうだよ! すっごく羨ましいよ!」
胸中にいろいろと溜め込んでいたのだろう、ミハエルは叫ぶように素直な感情をラルフに叩きつけた。
ラルフは苦笑を顔に貼り付けたまま、それを聞いている。
「ありえないよね、この僕が君ごときをうらやましいだなんて!
教養も容姿も出自も人望も資産もなにもかも君には勝っている僕がだよ?!
でも、本当に羨ましいんだよ! だって君は…っ!」
ぎゅっ、とミハエルは拳を握り締めた。
「…エーリッヒを手に入れたから?」
自嘲するように、ラルフは言った。
その表情に、ミハエルは眉間の皺を深くする。
エーリッヒを手に入れた、という割には。
エーリッヒの反応を見ても判る、ラルフはエーリッヒに手をつけていない。
「…どうして、エーリッヒに何もしないの?」
「俺は虫歯があるから、エーリッヒとキスできないの」
冗談めかして笑った。
嘘吐き、とミハエルは呟く。
「…キスで止めとく自信がねぇんだ」
諦めたように、ラルフは吐き出した。
一度触れてしまったら、おそらく体内に燻り続けている醜い欲望は止まらない。
おそらくエーリッヒはすべてを受け入れるだろう。けれど。
に、と白い歯を見せて、ラルフは青空を見上げた。
空の青が眩しすぎて、目を閉じる。
「…俺じゃねぇから」
「……え、?」
「エーリッヒの傍に居るべきなのは、多分俺じゃねぇから」
悔しいけど、とラルフは言った。
盲目のままの彼を外敵から護っていくだけなら、できると思う。
だが、それではいけないのだ。彼に必要なのは、目を開いて外敵と戦う力。
そのときに傍に立って一緒に戦える存在。背を預けて戦える、その、存在。
彼とは補色の関係にあって、お互いを鮮やかに引き立てられるのは。
自分では、なくて。
「俺ってば、本気で惚れた奴にはオクテになるタイプみてぇ」
スッゲェ損な性格だと、思うよ。
→続く。
この小説、シュミット率が意外と低いですね(何その割合)。
モドル