理解以前の拒絶(12)



 「……は? 今何つった? お前」

 サファイア・ブルーの瞳を険しく睨み付けて、ラルフは低い声で聞き返した。
 シュミットはラルフの視線を真っ直ぐに受け止めたまま、もう一度同じ台詞を口にする。

「エーリッヒを私の実家に連れていく」
「馬鹿言ってンじゃねェ!!」

 シュミットが言葉を切るか切らないかのうちに、ラルフは怒鳴り付けた。
 シュミットはぴくりと眉を動かしたのみで、まだ動かずにいる。
 ラルフは、お前、と溢れる激情を抑え切れないように肩で息をしながら言った。

「……自分が何を言ってンのか、判ってンのか?」
「そのつもりだ」
「……エーリッヒがどんな目に合うかも、か?」
「……ああ」
「そこまで判っていながら、お前はエーリッヒを連れていこうってのか!!!」

 ラルフの怒号は、二人の他誰もいない早朝の教室に反響した。
 シュミットに呼び出され、覚醒しきれない頭を欠伸によって活性化させながら向かった先で告げられた言葉は、
寝起きの悪いラルフの頭をたたき起こした。
 シュミットは言い訳をせずにいた。
 理由は判っていた。エーリッヒとシュミットに関する不適切な噂が、彼の親の耳にも届いてしまった、という。
元々自民族以外を軽視・蔑視しているシュミットの親たちだ、噂になったのがゲルマン民族の女の子ならまだしも、
その血をごく薄くしか引いていない、しかも男とでは呼び戻されても仕方がない。
 転校させられてしまう前に、誤解を解こうというのは解る。
 その為に、エーリッヒ本人を親に引き合わせようというシュミットの気持ちも、判らなくもない。
 だが。

「エーリッヒがあの色のせいで辛い目に合ってきたのはもう判ってンだろ!?
 お前の親の視線に耐えられると思うのか!?」

 そうだな、とシュミットは笑った。ラルフが今まで見たこともない、泣きそうな笑顔だった。
 プライドの高い彼が、おそらくは誰にも見せたくなかったであろう顔。
 ラルフは目を見開く。
 シュミットは搾り出すように、自嘲に歪んだ唇から言葉を搾り出した。

「……お前のように、あいつに優しくしてやりたいのに。…私には、傷つけることしかできないようだ」
 
 そういうふうに言われて、それ以上相手を責められるラルフではなかった。自分の非を認めているのだから。
 あぁ、もぅ!とラルフは頭を掻きむしった。

 ……そんな台詞、エーリッヒに言ってやったらきっと感涙ものなのに。

「なんで俺に言うかな!エーリッヒ本人じゃなくてさ!」
「…エーリッヒは私の申し出を断らないからな」

 ラルフの台詞の指し示すところを取り違えたらしいシュミットの言葉に、ラルフはへぇ、と不遜に笑った。

「まるでエーリッヒのことを何でも判ってるって口調じゃないか?」
「……ラルフ?」

 いつもの気さくな彼とは違う調子の見える声に、シュミットは不審に眉を寄せる。
 眉間に皺を刻みながら、口元はにやにや笑っているラルフの顔はわかりやすいくらい厭味に見えた。

「ラルフ。どうした」

 別に、とそっぽを向いて言い、ラルフはあー、と声を出しながらうずくまった。
 ちらり、と上目使いにシュミットを見て。

「……嫉妬だよ。気付けっつーの」
「……嫉妬?」

 何に対して、と続けたシュミットに、ラルフは大きな溜息を落とした。

 ……やっぱ、自分から敗北宣言しなきゃダメなワケね。

 机に手をかけて立ち上がる。

「だってエーリッヒが好きなのはお前だもんよ」
「まさか」

 シュミットはまた笑った。

「あいつはお前が好きなんだろう? 付き合っているんだろう」

 ラルフはまぁね、と言った。

「でも、別れるさ。何週間経っても何ヶ月経っても、きっと俺に向けられるあいつの笑顔は綺麗なままなんだ。
 俺にはそれが耐えられない」

 シュミットは判らない、と首を振った。

「綺麗なままではいけないのか? お前だってあいつに笑っていて欲しいと思ってるんだろう?」

 そうでなければ、あんなふうにシュミットを怒鳴り付けたりしない。
 ラルフは静かに笑った。

「人生の酸いも甘いも味わい尽くしたつもりの俺なんだけどさ、時々自分が何を望んでんのか判んないんだよな」

 エーリッヒをシュミットに譲りたいのか、それとも独占し続けたいのか。笑わせたいのか、泣かせたいのか。
 それ以前に、好きなのか、愛してるのか?
 答えはあるけれど、それに手を伸ばそうとすると必ずエーリッヒが微笑む。
 告白を受けてくれたときと同じ笑顔で。

「……よく判らん」
「だろうな。俺にも判らん」

 ハハハハ。ラルフは明るく笑い、すぐに真面目な顔をした。

「まぁそういうわけでエーリッヒのことはお前に一任するが、だからといってあいつを連れていくことには全面反対だ。
 あいつを悲しませようってやつはこのラルフ様が許さねぇ。肝に命じとけ」

 幾分芝居がかった調子で言うと、ラルフは教室を出て行った。
 シュミットはその背に向かってもう一度、判らん、と言った。








「それで、エーリッヒはシュミットについて行っちゃうの?! 理解できない!」

 なんでもっと強引に引き止めなかったのさ!とミハエルはラルフの両頬を思い切り抓った。

「ひははねーひゃろはのははひ」
「そりゃね! エーリッヒが君なんかよりはシュミットが好きってのは判るよ、本人自覚してなくてもさ!!
 でもだからって自分に無理してまでついてくことないじゃん! わざわざキズつくためにさ!!」
「ひゃあほまへひょくひぇふひっへひろろ、へーりっひひは」
「もう、さっきから何言ってるか全然判んないよ! もっとはっきりしゃべってくれない?!」
「………ほはへは……」

 ようやく開放された、ひりひりと痛む頬を押さえつつ、ラルフはもう一度繰り返す。

「何か言いたいことあんなら直接エーリッヒに言えばいいだろ? ま、返ってくる答えは決まってるけどさ」

 ぶぅ、と頬を膨らせたミハエルを笑って、ラルフはまたエーリッヒの笑顔を思い出した。
 辛いことがあっても、悲しいことがあっても、きっとエーリッヒはラルフには言わない。
 ラルフだけじゃなく、他の誰にも。
 知り合った最初の頃とは少し違う、優しさからできた彼の笑顔の仮面。それを彼は外さない。
 たった一人、怒鳴り、甘え、泣いた人物以外には。
 あーあ、わけ判んないよ、とミハエルは言った。

「なにがだ?」
「君はエーリッヒに本気だったでしょ? で、仮にもエーリッヒは君と恋人同士になったんだよ?
 君なら、姑息な手段のふたつやみっつ使ってでも友達としての好意を愛にすり替えられたんじゃないの?
 二ヵ月もあればさ」
「…かもな」

 姑息な、という部分にラルフは苦笑する。
 確かに、おそらくは可能だっただろう。好きにさせてみせる、とエーリッヒに言った言葉はその場限りのものではなく、
ラルフは本気でエーリッヒに恋させようとしていた。一時期はシュミットに傾きかけたエーリッヒを、振り向かせようとした。
それは必要以上に側にいたり、「恋人」という言葉を使ったりすることで。
 「恋人」としての自分を意識させようとしたのだ。
 ……本当は、もっと過激なコミュニケーションという手段を取れば簡単だったことは知っている。
 キスやそれ以上のことをしていれば、きっとエーリッヒは今もこの腕の中にいただろう。
 だけれど。
 エーリッヒは笑っていた。
 優しく、静かに。綺麗に。
 ラルフはその顔を見るたびに、今まで付き合ってきた幾多の女性を思い出した。
 恋人になる前となった後では、セックスをする前とした後では、彼女たちの笑顔は確かに違っていたのに。
 違う温度で名前を呼んでも、エーリッヒは笑顔を変えたりしなかった。
 見せて欲しかった表情を全て覆い隠す雪のような、綺麗で、でも冷たい笑顔しか見せてはくれなかった。

「……まだ恋人、なんだよ。どうしてこんなことができるのさ…?」

 暮れ行く窓の外を見つめながら、ミハエルは呟くように言った。

「…フラれたいんだよ」

 まだ好きなのに、なのにフラなければならないなんて最悪だ。せめて彼の方から別れを切り出して欲しい。
 「他に好きな人ができたから」なんて、チープでありふれた理由でいいから。

「…………世渡り上手みたいなフリしてさぁ」

 君って結構器用貧乏だよね。
 ミハエルの一言に、ラルフは言い返せなくてシュミットの枕に頭を埋めた。








「……………………」
「……………………」

 机の前の椅子に姿勢よく座ったエーリッヒと、無言でヨハンのベッドに腰掛けているシュミットは、
随分前から一言も口を利かずにいた。
 シュミットが一緒に来て私の親に会えと、ただ一言言ったその後から。
 エーリッヒは理由の説明を求めなかった。ただ、黙って座り続けていた。
 その背が僅かに緊張している事に、シュミットは気づいていた。シュミットが、自分の親という言葉を使ったときに
彼はかすかに身を震わせた。
 ラルフの言葉が耳に蘇る。
 エーリッヒにとっては辛い邂逅になる。

 だけれど、かならず私が支えるから。

 シュミットは喉元まで出掛かっているその一言がどうしても言えなかった。

「……僕がもしお断りしたら、どうするつもりなんですか?」
「……私一人でも戻る」

 説得できるかどうかはまだ判らないが、黙って転校させられるのを待つ気は無い。
 また歪んだ世界に引き戻されるのだけは御免だ。
 エーリッヒのいない世界に。

「…………ッ…………」

 自分が何を思ったか気付いて、我知らずシュミットは口元を押さえた。

「…シュミット?」

 何かあったのかと椅子を回し、シュミットの方を向いたエーリッヒに視線が上げられず、シュミットはなんでもない、
とだけ言った。
 また静寂が訪れ、それを破ったのは今度はシュミットのほうだった。

「…私は、折角友達になれた…お前と離れるのが嫌なんだ。だから、私を転校させようとしている両親を説得に行く。
 だからもし、お前も…私と離れるのが嫌だと思ったら…来れば良い。
 ……嫌な目に合うだろうから、お前が決めろ」

 エーリッヒは目を伏せた。
 色や生まれで拒絶されてきた過去の記憶は簡単には消えてくれない。
 身勝手に震え出す自分の身体を、エーリッヒは強く自分の腕で抱きしめた。

「……エーリッヒ?」
「…………ご一緒します。僕も…貴方がいなくなるのは嫌ですから…」

 なのに、とエーリッヒは情けない表情で笑った。

「どうしてでしょうね、もう怖くないはずなのに。何を言われても、貴方の友達になれた自分自身を誇ろうと思ったのに。
 ……震えが止まらないんです。…すみません、情けなくて…」

 カタカタとエーリッヒの身体が震えているのがシュミットにも分かる。
 笑いながら、エーリッヒは必死でその震えを止めようと椅子に座ったまま小さく蹲る。
 シュミットは何も考えることなく、立ち上がってそのままエーリッヒを椅子ごと抱きしめた。
 エーリッヒは目を見開く。

「……無理をすることはない。その気持ちだけで十分だ」

 強く力を込めて抱きしめてくれるシュミットの腕にそっと手を触れ、エーリッヒはだいじょうぶ、と言った。
 だって僕には支えてくれる人がいる。



 守りたいものがあるのなら、少しぐらいの強風の中へでも飛び込んでいかなければならない。
 そうでなければ守りたいものの、色も褪せてしまうから。


                                           →続く。


 場所移動です。週末二日間だけのフランクフルト二人旅(!)。
 てかまたヨハンとシュテファン同じ部屋で寝かされちゃってますよ(笑)。
 そろそろ寮母さんに泣きついて部屋を交代してもらったらいいと思います。

モドル