合宿をやろう、と言い出したのは、例によって金髪の我儘王子だった。
 ただし、当然のことながら王子は発案だけなので、日時、場所、日程、費用等々、
詳細を決めるのはbQ以下の仕事になる。
仕事を増やすなとシュミットが多少きつめに小言を言うと、
ドイツ最速のミニ四駆レーサーはぷぅ、と頬を膨らませた。

「いいじゃない、楽しそうでしょ?!」
「貴方の我儘で仕事を増やされるこちらの身にもなっていただけませんか。
私たちもけして暇なわけではないのですが」

 穏やかに、理詰めで説得することに長けているシュミットは、調子を崩さずに言い募った。
「それに、宿泊施設はどうするんです?
合宿と銘打つからには、それなりのコースがないといけない。
いくら私たちでも、そこまで用意するのにはそれなりの時間を必要とします。
さらに日程を考慮に入れると、これから欧州選手権、
ドイツグランプリと予定的に多忙を極めるのですが?」

 自分達のリーダーが、けして頭の悪い人ではないと知っているからこそ、
シュミットは説得という方法をよく用いた。
 案の定、シュミットの言うことの理が叶っているのが解ると、
ミハエルはぷぅ、と頬を膨らませた。

「…シュミットのけち! どけちっ!! いいもん、エーリッヒにお願いするから!」

 ぴょん、と自分の椅子から飛び降りて、
このリーダーを極度に甘やかす癖のある親友の元に行こうとする。
シュミットはミハエルの前に立ちふさがった。

「あいつだって十分仕事を抱えてるんですが?」
「エーリッヒの仕事増やしてるのはシュミットでしょ?
彼の時間削ってるのだってシュミットだし。
君に比べれば、僕なんて可愛い方だと思うけどな」

 …莫迦言うな。
ミハエルの突拍子もない我儘に比べれば、私の願いなんて微々たるものだ。
 シュミットは眉間に皺を刻みながら、心の内で呟く。
 この二人の意見の相違が、アイゼンヴォルフ一苦労性な少年に
追い討ちをかけていることを、二人は意識していなかった。
エーリッヒがエーリッヒたる所以である。

「…じゃあいいよ、僕が全部やるから」
「………は?」

 シュミットの怪訝な返事を聞きつつ、ミハエルはすこし機嫌を取り戻したのか、
彼らしい帝王スマイルで言い切った。
「合宿の予定、僕が全部決めちゃえば、君たちはついて来てくれるって事でしょ?
 任せといてよ、最高の合宿にしてみせるんだから!」
「…私たちがやります…」

 シュミットは諦めの心境で溜め息を吐いた。
 …ミハエルに任せっきりになど、しておけるか。
何を計画されるかわかったものじゃないし、
…第一、合宿の計画と実行なんて、どれだけ大変だと思っているんだ。
 その本心がエーリッヒに負けないくらいミハエルを大切にしている心から来ていると、
おそらくシュミットは認めない。




理由




「…フリードリヒスハーフェン?」

 エーリッヒに回されたプリントの上部にある自国の地名を、アドルフは口に出した。
 南ドイツのボーデン湖湖畔にあるそこは、外国人には人気の避暑地だ。
なるほど夏休みに合宿を催すならいいかもしれないが、気になるのはその地名。
妙に舌に馴染んでいる、ある人物の名前の入った…。

「企画と実行の合間がありませんからね」

 エーリッヒは苦笑して、メンバー個々から徴収しなければならない
費用の割り出しに戻った。

「そこになら、ミハエルが宿泊できるような場所とコースを持っていると言うので…」
 
もう一度、街の名前を舌でなぞってから、アドルフは呟いた。

「まさか、街が丸まる一つリーダーの持ちモノっていうんじゃないよなぁ…?」
「あはは、いくらミハエルでも、そこまでは…」
「………だよな?」
「………ええ…」

アドルフは、相槌を打ったエーリッヒともども背筋がそら寒くなるのを感じた。
フリードリヒスハーフェン。
和訳すると、「フリードリヒの港」である。
アドルフは、そういえばリーダーが提出した第一回WGPのアンケート、
出身地の欄は「バイエルン」だったなぁ…と思い出していた。
あの時は、雑誌上でも有名な彼のことだから、
多少のおちゃめ心なのだろうと流してしまったが…、
もしかすると本当に、かつてのバイエルン王国の地所全土が
あの鮮やかな少年のものなのかもしれない。
アドルフは痛み始めた頭を振り、プリントから目を離して
自分のパソコンに向き直った。アドルフが担当しているのは、
2泊3日の合宿の、日程構成だ。
 シュミットとヘスラーは今、練習場を使っている2軍の指導に行っている。
 合宿中に、誰にどんな指導をするか、フォーメーション練習の有無など、
練習走行の具体的な内容はシュミットが決める。
それは、彼がリーダーであった頃から変わっていない。
 へスラーは、今週末を潰して現場へ下見に行くことになっている。
 突然降って沸いた仕事は、誰が決めたというわけでもなく分担された。
ミハエルが我が侭を言い出し、シュミットがそれを抑制できなかった時の
対処にかける時間は、近年間違いなく短縮されていた。
 それは、出来れば身に付けたくない、
…「慣れ」という名の迅速さ。




「ミハエルにも困ったものだな」

エーリッヒの部屋までやってきて、溜息を吐きながら言ったシュミットに、
書類整理をしていたエーリッヒはくすくすと笑い声を漏らした。

「そうですね。でも、…嬉しいんでしょう?」
「嬉しい?」

仕事を増やされ、何が嬉しいものかと睨んだ先の幼馴染は、
柔らかい視線でシュミットを見ていた。

「我儘を言って貰えるのも信頼の印。
ミハエルがリーダーになった当初のことを思えば、
僕は今の状態の方がずっと好きですけど?」

ミハエルがアイゼンヴォルフに入った当初。
彼は完璧な「リーダー」を演じていて、けしてシュミットたちに
その仮面の下を覗かせようとしなかった。
ひどく冷たい少年だった。
だから、我儘を言って困らせられるのは心労になれど、
あのときほどに苦痛を伴いはしなかった。

「…そうかもしれないな」

癖のない前髪をかき上げ、シュミットはちいさく肩を竦めた。

「でも、ミハエルという人は、不思議な人ですね」

改めて言われて、シュミットは眉間に皺を寄せた。

「だって、小さい時から僕は貴方の傍にいますけれど、
貴方が誰かの言う事に従う姿を見ることなんて、
ミハエルに会うまで絶対にないと思っていました」
「…それは、皮肉かな?」
「少し」

二人で声を合わせて笑う。
とんとん、と整理の終わった書類の束を揃えながら、エーリッヒは言う。

「あの人の言うことなら、何でも聞いてあげたくなる。
…不思議な魅力ですよね」


…お前は、誰の言うことでもきっと叶えようとするのだろう?
嘘吐き。


「…そうだな」

椅子に座っていたエーリッヒを少しだけ振り向かせ、額におやすみのキスを落として、
シュミットは幼馴染の恋人の部屋を出た。
胸中に、何かが影を落としていた。





 合宿が催されたのは、7月の初頭だった。
各州で夏休み期間の違うドイツなので、
なるべくなら近隣の国と被らせたくないという考慮の下に決められた日程だった。
 アイゼンヴォルフの面々がフリードリヒスハーフェン空港に降り立った時、
一足先にこの地へとフライトしていたミハエルは、
待っていたよと笑顔でメンバーたちを迎えた。
 彼の案内でやおら豪華な送迎車に乗り込み、
30分ほどでついたその場所は、目の前にボーデン湖を望める、
どう考えても一個人の別荘だった。
 …ただし、別荘というにはあまりに大きな規模を呈していたが。

「奥の庭の方に、コースを用意してあるんだ。せっかくだし、お昼ご飯の前に1レースしようか」
「………庭って」

やっぱりここ、貴方の別荘ですかぃ。
 口には出さないものの、その場にいたメンバーすべてがそう思ったことは疑いない。
 荷物も下ろさずに庭に回ったアイゼンヴォルフのレーサーたちは、
そこにWGP並みに巨大で立派なコースを発見して、口を噤んでしまった。
庭の広さもさることながら、確実に庭の外まで続いているコースは…
一周全長何百メートルあることだろう。

「10人全員では走れないから、とりあえず君たちは見学ね

2軍のメンバーに残酷にもしれっと笑顔で言い、
ミハエルはリーダー権力で1軍メンバーをスタートラインに並ばせた。
血液A型3人が2軍を哀れんでいたことは言うまでもない。
 5週の激しいレースを消化し、今更ながらの一軍メンバーの序列を確認してから、
馬鹿みたいに広い食堂で昼食を採った。
どう考えても、徴収された費用では賄いえない内容の昼食の後、
ミハエルから各自に部屋の鍵が渡された。

…個室なのか?

シャワールームとトイレ、小さな冷蔵庫と電話と湯沸かし器の付いた
ホテル並みの豪華な部屋の中で、
シュミットは頭痛を抱えていたし、エーリッヒは胃痛を堪えていた。
「合宿」の意味を判っているのだろうか、あの人は…。






「ホントにこの家、広いよな…」

 夕食の2時間ほど後、一人呟きながら玄関付近を通りかかったアドルフは、
ふと誰かの話し声を聞いた。
 思わず物影に身を潜め、そっと聞き耳を立てる。
それは、ドイツチームbRの声に間違いなかった。
携帯電話の電波の調子を考えて、外へと出たのだろう。
だが、どこか平生とは違った調子がある。

…ああそうか、敬語じゃないんだ…。

「…うん、元気だよ。…何を言ってるんだよ、そうじゃないって…うん」
 
ごく親しい調子が現れた、優しい声。
朗らかな話し方から、普段彼が見せている笑顔はすぐに連想できた。

「……うん、はは、莫迦言うなよ、忘れるわけないだろ? うん。…そう。うん、それじゃあ。
…うん、僕も愛してるよ。おやすみ」
「…不倫だな」

立ち去るエーリッヒの背を盗み見ながら、アドルフは一人で納得して頷いた。

「…何故浮気でなく不倫なんだ」
「決まってるだろ、シュミットとエーリッヒが夫婦だからだよ」
「…そうか」
「ってうわっ??!」

やっと自分が誰と会話しているのか、ということに思い至ったアドルフが
振り向いて発見したのは、今自分が口にした人物の一人だった。

「盗み聞きとは感心しないな、アドルフ?」
「お前もだろシュミット…」
「私は今、ここを通りかかっただけだが?」
「…じゃあ、エーリッヒの電話は聞いてないんだな?」
「聞こえた」
「………」

 自分とあまり違わないじゃないか…とアドルフは思ったが、
彼は、これ以上シュミットと論議をしても結局自分が負けるだけなのを痛いほどに知っていた。
 シュミットは剣呑な目でアドルフを睨んでいたが、
その視線で睨まれるべき対象は確実に、彼ではない。
ちらりとエーリッヒの去って行った方向に眼をやって、
アドルフはもう一度シュミットに視線を戻した。

「俺に不平をぶつけられたって、なんともできないからな」

 先に言っておくけど、と付け加えたアドルフからようやく目を離し、
シュミットは解っている、と言った。

「それと、勘違いしているようだから言っておくが、
エーリッヒの電話の相手はあいつの妹だ」
「………へっ?」

シュミットの様子から、エーリッヒが愛人と電話していると
決定していたアドルフは間抜けな声を出した。
 エーリッヒが妹と電話していたと知っているならば、どうして睨まれなければならないのだ。
 アドルフの相手に飽きたのか、シュミットは不機嫌なままにエーリッヒと同じ方向に歩き出した。
 アドルフは呆然とその背を見送りながら、ぼそりと…呟いた。

「…エーリッヒの妹にまでジェラシーを感じるってわけか…?」





 コンコンコンコン。
 ガヂャッ。

「…あ」

 返事を聞かずドアを開ける習慣のあるあの人の来訪を告げるように、
ドアノブが金属的な音を立てた。
宿舎以外に泊まるというので、ついつい鍵をかけてしまった。
エーリッヒは急いでドアに寄って、鍵とドアを開けた。
 当然のことながら、立っていたのはシュミットだった。
 エーリッヒは彼を部屋へと招き入れ、どうしたのかと聞いた。
 シュミットは何も言わず、不機嫌そのものの態でベッドへと腰を下ろす。
湯沸かし器に金属製のコップをかけてボタンを押し、エーリッヒはシュミットの隣に座る。

「なにか、お気に触ることでも?」

黙りこみ、ふい、と顔を背ける。
…自分の前では極端に子供に還ってしまうのは、
信頼の証のような気がして嬉しいのだけれど。
 「恋人」以前の関係であった時には、よく「オトナ」を演じて見せていた彼。
エーリッヒへの気持ちが「友情」から「愛情」に変わった後しばらくは、
シュミットは弱い自分を見せることを極端に嫌った。
幼いころから一緒にいたエーリッヒに対して甘えてくることもあったが、
そういえば涙はほとんど見せなかった。
いつも平気な顔をして。
毅然とした態度で。
その背中が、何度泣きそうに見えたことだろう。

…それに比べれば、確かに不機嫌そうなこの顔でも愛しいのだけれど。

ふぅ、と溜め息をついて、エーリッヒは紅茶を淹れた。
シュミットにカップを差し出すと、黙って受け取って口に運ぶ。
普段なら、二人の間の沈黙はこんなに苦痛ではないのに。
むしろ、普段の沈黙が苦痛でないからこそ、いたたまれないほどにちくちくする。
エーリッヒは相当シュミットの機嫌の悪いことを察したが、
原因のわからない状態ではご機嫌取りも出来ない。
しかし、おそらく原因は自分にあるのだろう。
彼が自分に対して不満を感じた時、何も言わずに睨みに来ることを、
エーリッヒは長年の経験からよく理解していた。
いつもなら、ここでエーリッヒは先に謝ってしまう。
その後で、格式あるアイゼンヴォルフの人間が簡単に頭を下げるなと
シュミットに怒られる事になるのだが、それでも、自分が折れることが和解への
近道だということを知っているから、
エーリッヒは口癖のようになってしまった一言を口に上らせるのだ。
だが、今日はほんの少し、エーリッヒの気持ちが違った。

「…貴方が僕の何に対してそんな風に腹を立てているのか知りませんが、」

イライラしている風に、エーリッヒは言った。
視線は、カーテンを引いた窓の方に向けている。

「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらいかがですか、シュミット」

刺々しい言葉つきのエーリッヒの手に、シュミットはカップを押し付けた。
 かなり残っているのを見ると、やはり美味しくないのだろう。
近頃はティーバッグも進化してきたのにな、と思う。

「…お前なんか、…だよ」

呟かれた言葉に、エーリッヒは耳を疑った。
それは、未来にはそうなるかもしれない一言。
だけれど今は、今現在は絶対に…言われないと、思っていた一言。

「…、今、なんて?」

余りの言葉に無表情になりながら、エーリッヒは尋ねる。
シュミットは盗み見るようにちらりとエーリッヒの顔色を伺い。
また、目線を伏せる。
目を閉じて、シュミットは吐き出すように、言った。
同じ言葉を。

「お前なんか嫌いだって、言ったんだ」

…へぇ。そうですか。

ひどく他人行儀な返事が聞こえた。
ふ、と息を吐き、目を開いた。
飛び込んできたのは、下から覗き込む空の色。
驚いて頭を引いたシュミットに、視線は追いすがってくる。

「僕の目を見て、言えますか?」

確かな怒りを涼しげな色に宿して。
エーリッヒはシュミットの前の床に膝を着いて、シュミットを睨み上げている。
視線を外す。

「その必要はないだろう」

くっ、と、エーリッヒが喉の奥で笑った音が聞こえた。
それは、エーリッヒの中で何かが切れた音だった。

「その調子では、理由もお聞かせ願えないのでしょうね」

ゆっくりと立ち上がると、エーリッヒは壁に背を預けた。
腕組みをしてベッドに座るシュミットを見下ろす。
それは、いつもの立ち居地とは逆で。

「…嫌い。
嫌い、ですか」

シュミットの台詞を上滑りになぞる。
シュミットに確認を取っている訳ではなく、
自分の中で整理する為に口に出しているようだった。
微動だにしないシュミットは、断罪を待つ者ではなく裁きを下す者の姿勢をとり続けている。
そう、彼の纏った不機嫌のオーラは微塵も揺らいでいないのだ。
なんて自分勝手な人なのだろう。
いつでも、譲歩を見せてきたのはエーリッヒだった。
そして、いつだって、エーリッヒの気遣いを気分一つであしらうのは。

「私に嫌われても、お前は平気なのか?」


ふいに聞こえた言葉は、平素なら。
この不和を解きほぐす種類の、鍵を含んだ言葉だったのに。


「…泣いてでもほしいんですか?」

冷笑したエーリッヒを、一瞬だけ驚いたような瞳が捕らえた。

「虫のいい話だ」

突然シュミットは立ち上がり、エーリッヒの部屋を出て行った。
乱暴な音を立てて閉まったドアを見ることなく、エーリッヒは荷物の整理に戻った。
眉間に深い皺を刻んだまま。









「あ、おはようございます」
「おはようございますシュミットさん」
「ああ」

 日程表で2日目の朝食に当たる時刻、食堂で顔をあわせたのは9人だった。

…………。

「…リーダーは…?」

 片手で頭を押さえながら、シュミットが誰にともなく尋ねる。
 顔を見合わせたり肩を竦めたりする皆のリアクションとこれまでの経験から、
我らが王子様はまだベッドの中であろうことは容易に伺い知れた。

「まったく…あの人は、本当に合宿を何だと思っているんだ?
アドルフ、ヘスラー、起こして来い」
「やっぱり俺たちなワケね…」

仕方ない、という風に立ち上がったアドルフに続いて、ヘスラーも立ち上がる。
 そして、食堂を出掛けに前々から疑問に思っていた一言を。

「なぁ、普段から宿舎で寝食共にしてるのに、何で今更合宿なんだ?」
「………何で、と言われても…」

すでに席に付いていたエーリッヒは曖昧に笑いながら、首をかしげた。
 元々がミハエルの気紛れなのだから仕方がない。

「…ミハエルの暇つぶしに、いちいち理由を見つけていたらきりがないだろう。
いいからさっさとミハエルを起こしに行け」

昨晩から引き続いて機嫌の悪そうなシュミットに、アドルフは肩を竦めてハイハイ、と従った。
不機嫌な上司には逆らわないのが一番。




「挨拶をしていなかったな」

ミハエルの部屋へと廊下を辿りながら、ヘスラーは言った。

「へ? そうだっけ?」

首をヘスラーの方に向けたアドルフに、アイゼンヴォルフ一背の高い少年は首を振る。

「いや、違う。あの二人だよ」
「ああー…シュミットとエーリッヒな」
「ああ。いつもなら、エーリッヒがシュミットを起こして、二人で起きてくるだろう?
なのに、今日は別々に起きてきたし。シュミットは開口一番ミハエルのことを言った」

不可解だ、という様子のヘスラーの背を、アドルフはぼん、と叩いた。

「ま、アレだからさ」
「アレ?」
「シュミット様の可愛いヤキモチ」
「………今、背筋を悪寒が」

ヘスラーの言い草に、アドルフはくつくつと笑った。
実際、いつも厳しい雰囲気を纏うシュミットが
あんなことでヤキモチを焼くなどとは思わなかった。
確かに、エーリッヒのこととなると別人のように感情的になることはあったけれども。

「意外と可愛いところあるんだよな」

呟きに首をかしげたヘスラーになんでもない、と言って、
アドルフはミハエルの部屋のドアをノックした。




「…あの二人に当たらないでください」

当然のように隣の椅子を引いたシュミットにだけ聞こえる声で、
視線は向けずにエーリッヒは言った。

「当たってなどいない。当然のことを言ったまでだ」

同じようにトーンを落としながら言う。
広いテーブルを挟んだ向こう側にいる2軍のメンバーには聞こえないように。

「そうですか?」

それにしては随分厳しい声でしたね、と。
まるで喧嘩を売るように言うエーリッヒの声を聞かないようにして、
シュミットはエーリッヒが注いだ紅茶を一息に飲み干した。

「練習、2軍の人たちに当たらないであげてくださいね。
貴方の都合で振り回されるのでは迷惑ですから」
「……エーリッヒ。朝から気分の悪いことを言うのはやめろ」

シュミットが睨みつけてくる視線を横目で受け止め、
エーリッヒは口先だけですみません、と言った。





ベルクカイザーがコースの上を、滑るように走っていく。
それを見つめていたシュミットは、微かに舌打ちをした。

…ダウンフォースが全然効いていない。
そんなことだから、いつまで経っても2軍止まりなんだ。

呟くように胸中で不満を漏らした。
普段なら声に乗せているだろうが、朝のエーリッヒの言葉がそれを押しとどめている。
ふいに、親友の銀の髪が動いた。

「オットー。マシンを止めてください」
「あ、はいっ」

ベルクカイザーを手にしたオットーに、エーリッヒは歩み寄った。

「ダウンフォースが足りません。もう少し、ウイングを寝かせてはいかがです?
貴方のマシンは高速重視です。もう少し思い切ったセッティングでもいいと思いますよ」
「あ、は、はいっ!」

オットーのマシンを手に取り、ほんの少しウィングに手を加えて彼に返す。
2軍のメンバーにも丁寧に指導をするエーリッヒは、
シュミットと同じ上位者の顔をしているけれど。
他の2軍メンバーのマシンもチェックして回っているエーリッヒは、
確かに2軍たちと日本へ行かなければならない存在だったのだろうと思う。
シュミットやミハエルでは、あんな風に下位のものにアドヴァイスすることはできない。

誰にでも、
優しいのだ。
誰にでも。
変わらない。

エーリッヒ。

唇だけで名前をなぞる。
瞬間的に、エーリッヒがシュミットの方を振り返った。
シュミットは無意識に親友の姿を追い続けていた視線を、慌てて外す。
すっと目を細めて、エーリッヒも2軍の指導に戻った。

「…僕も、まだまだだな」

呟く。

「え? 何がですか、エーリッヒさん」

ギヤを変えていたオットーがエーリッヒを振り仰いだ。
首を振って笑顔を見せ、エーリッヒはなんでもないですよ、と言った。

「…もっともっと早くなりたいと、思っただけです」
「…ミハエルさんくらいに?」
「そうですね」

…せめて、幼馴染に追いつけるくらいには。

エーリッヒの中にあるのは。
いつまで経っても、追いつけないという焦り。







「…ねぇ、アドルフ、ヘスラー」

夜景の見渡せるラウンジで雑談をしていたところへ突然かけられた声が
不機嫌だった事に、アドルフは食べていたカシューナッツを喉に詰まらせそうになった。

激しく咳き込むアドルフに自分が飲んでいた紅茶を差し出しながら、
ヘスラーは何ですか、と言った。

「あの二人に何があったのか、知ってる?」

あの二人、というのが今この場にいない1軍メンバーの残り2人だということは、
固有名詞が出てこずとも当たり前のように判る。
ヘスラーは首をかしげた。

「…私は知りませんが、アドルフは何か知っているらしいですよ」
「そうなの?」

まだごほごほと苦しそうに咳をしているアドルフの顔を覗き込むように、
ミハエルは上体を傾げる。

「早く吐いちゃった方が、楽になれると思うよ?」

…それってカシューナッツのことですか…??!

底知れぬ恐怖を抱きながら涙目でリーダーを仰ぎ見るbS。
読んで字のごとくエンジェルスマイルを浮かべるリーダー。
そっと視線を外すbT。
いつでも見られるアイゼンヴォルフの名物場面だった。

「いや…別に、たいしたことでは」
「たいしたことがなくて、あの二人が別行動取り続けるっていうの?」

ありえない、と言外に付け足し、ミハエルはアドルフに詰め寄った。
アドルフは視線を宙に泳がせる。

「いや…いつものことですよ」
「…やっぱりシュミットが原因?」
「そういうことです」

ふう、と一息つき、アドルフはまたナッツを口に放り込んだ。
ミハエルは面白く無さそうに窓の外を見る。
ホテルや別荘の明かりが湖面にきらきらと反射していた。

「…どうして、エーリッヒはシュミットを好きになったんだろうね?」

ミハエルの問いに、アドルフとヘスラーは顔を見合わせた。

「さぁ。そればかりは本人に聞いてみないとわかりませんね」

アドルフの答えに、ミハエルはまぁね、と答える。

「エーリッヒに我儘言って、無茶言って、甘えてる。
エーリッヒが何でも許してくれると思って」

自分のことを思い切り棚にあげて言い募るミハエルに、ヘスラーは苦笑した。
…確かに、シュミットはエーリッヒに甘えているが。
エーリッヒも同じだけ、シュミットに甘えているように見えるのは自分だけか。

「今回だって絶対そうだよ。
シュミットが下らない我儘言ってエーリッヒ怒らせたんだ。
いつかエーリッヒでも怒ると思ってた」
「それはそれは。予想通り過ぎて面白くもありませんか?」
「げほッ…!!!」

ミハエルすらも押さえつけるように高圧的に響いた声に、アドルフは再びナッツを喉に詰めた。
睨みつけてくる夕闇色の瞳に、ミハエルは嘲笑を送った。

「そうだね。つまんないよ」

だから僕に当たらないでくれる? と、まるで朝のエーリッヒのような台詞。
若葉色の瞳から視線を逸らせば、大げさな溜息が追ってくる。

「これ以上エーリッヒのご機嫌損ねないうちに、仲直りしちゃえば?」

エーリッヒってああ見えて結構頑固だから、
一度怒らせちゃったら意地でも謝らないと思うけど?
ミハエルに言われるまでもなく知っている。
自分に非があると認めればともかく、
一度冷たく心を閉ざしてしまったエーリッヒが謝ることなんてない。
変なところ頑固なのは、昔からで。
くるりとミハエルたちに背を向けたシュミットに、アドルフが声をかけた。

「ちなみにエーリッヒならキュッヒェ(台所)の方で見たぞー」

きっちり台所へと向かっていく後姿を見送りながら、ミハエルは少しだけ、淋しそうに呟いた。

「…どうしてあの二人は、喧嘩する事にすら慣れてるみたいに見えるんだろうね」

喧嘩をしていても、ツヴァイフリューゲルもラケーテも、綺麗に決めて見せるのだ。
相手の不機嫌に合わせるかのように。
合わせているのはどちらなのか。
もしかしたら、彼らはそんなことすら意識していないのかもしれない。






こぽこぽと沸くお湯を見つめながら、エーリッヒは溜め息を吐く。
ひどく心がモヤモヤしていた。
棚から、高級そうなカップ(それでも一番安そうなもの)を気をつけて取り出す。
2つ並べてトレイに載せて、口元に苦笑を浮かべた。
どうして2つ、なのか。
どうして、わざわざこんなところまで来て水から沸かしているのか。

「…莫迦だ」

小さく呟いた。
途端。

「…っ!?」

突然後ろから抱きすくめられて、エーリッヒはびくりと行動を止めた。
何をするのかと首を後ろに振り向ければ、そのまま唇を塞がれる。
束縛を振り解こうとするエーリッヒを押さえつけて、シュミットは深く唇を合わせる。
ようやく開放されると同時に、エーリッヒは相手から顔を逸らした。

「…嫌いな人とキスをする趣味があるんですか?」
「…そんなわけないだろう」

エーリッヒの方を見ることができず、シュミットも視線を床に落とす。
お湯の沸く音が、暫くの沈黙を埋めた。

「………すまなかった」

数分の後、呟いたシュミットにエーリッヒはやはり冷笑した。

「今度は何ですか? また、僕のことを好きになって頂けたんですか?」
「お前のことを嫌いになったことなんて、一度もない」

エーリッヒは息を吸い込んだ。
そんなことは知っている。

「……とことん自分勝手な人ですね。
僕にはよくウソをつくなというくせに、貴方は平気でウソをつく」
「お互い様だろう? お前だって、嘘が嫌いなくせによく嘘を吐くじゃないか」

ふと、シュミットは首を左右に振った。
言い争いに来たのではない。
エーリッヒは冷たく尋ねる。

「…僕に何をお望みですか?」
「…言い訳を聞いて欲しい」

エーリッヒはシュミットに背を向け、コンロの火を止めた。
ポットにお湯を注ぎ、タオルでポットを包む。

「…3分だけなら聞いてあげますよ」

顔を上げないエーリッヒを見ないようにしながら
台所の入り口の柱に凭れて、シュミットは口を開いた。

「…すまなかった。
嫌いなのは、お前じゃなかったんだ。
…お前の長所ですら許せない狭い私の心なんだ」

祈るようにゆっくりと、悔恨の篭った声が冷たい床に響く。

「誰にでも優しいのはお前のいいところのはずなのに。
そんなお前が好きになったのに。
…なのに、私はお前の笑顔が誰かに向けられることが許せない」

ミハエルの望みを叶えようと必死になったり、
2軍の為に自分の時間を削ったり、
家族に心配をかけまいと連絡を取ったり。
それらは他人の為に心を砕くエーリッヒらしい行動なのに。
自分以外の為に働くエーリッヒを見ると心がざわつくなどと。
どれだけ心が狭いのだろう。

「…貴方がそう望むなら」

エーリッヒは静かに答える。

「明日から、貴方以外の前では笑わないように、努力しますよ?」

微かに空気が揺れた。

「……、エーリッヒ?」

持ち上げられた顔は、ひどく切なげに笑っていた。

「…シュミット」

諦めたように。
漏らされる言葉。


「やっぱり僕は、どうしようもなく貴方が好きみたいです」


「…怒っていたんじゃ、ないのか…?」

恐る恐る、といった風に尋ねてくるシュミットに、首を振る。

「イライラしていただけです、自分に。いつまで経っても、貴方に追いつけないから」

ここへ来て最初にやったレース。
シュミットが2位で自分が3位であるという数年前から変わらない事実に。
ようやく落ち着きを取り戻し、シュミットはふ、と笑った。

「タイム差は?」
「0、06秒」
「随分と追いつかれたな」

一時期は1秒近く引き離していたのに。

「それでも、まだ追いつけていないんです。貴方に追いつく決心をしたのは随分昔なのに」
「当たり前だろう? お前が速くなるぶん、私も速くなる」


限界を知らないかのように言って、シュミットはそっとエーリッヒに近づいた。
手を伸ばし、頬に触れる。
エーリッヒは動かなかった。

「…私の身勝手な言動に怒っているのだと思っていた。…嫌われたかと、思った」
「僕には、貴方が嫌いだなどと言った覚えはありませんが?」
「…ひどく冷たかったから」

シュミットの手に、エーリッヒは自分の手を重ねた。

「…すみませんでした。…本当は、僕が貴方に当たっていたんです。
自分の実力不足を棚に上げて」


こつん、と額を合わせ、シュミットはいいよ、と言った。
誰にでも人当たりのいいエーリッヒに、不機嫌な表情を向けてもらえることも
自分の位置の特権だと知っている。

ありがとうございます、とほっとした表情になるエーリッヒの、
どこかに見える余裕がシュミットには理解できなかった。

「…お前は私に嫌われても、平気だったのか?」

もう一度、尋ねてみる。

「泣いてでも欲しいんですか?」

茶化された事に気づいて、シュミットは不機嫌にエーリッヒを睨みつけた。
その頭を、子供にするようにゆっくりとなぜて、エーリッヒは答える。

「平気なはずがないでしょう?
…でも今回は、貴方が本気でないと判っていたから平気でした」

シュミットは、感情をぶつけるなら真っ直ぐに瞳を見て言う。
視線を逸らしながら嫌いだといわれても、生憎エーリッヒにはそれを本気に出来なかった。
だが、レースで負けたしこりとイライラが、エーリッヒに余裕を生まなかった。
嘘でも冗談でも、嫌いだと言われて腹を立ててしまった。
だから、冷たくなってしまった。

「…すべてお見通し、か」

満足したように溜め息を吐く。
腰に腕を回して抱き寄せようとしたシュミットを、エーリッヒはやんわりと押し返した。

「…エーリッヒ?」
「3分です」

続きは部屋で紅茶を飲みながら。
いかがですかと問われて、シュミットに否があるはずがなかった。



<ENDE>



 「虫のいい話だ」はエーリッヒさんの台詞です。
バランスが悪くて説明書きが本文中にいれられませんでした(お前何年文章書いてんだよ)。
2/22お誕生日のオットーが、2軍からは特別出演☆(笑)
実は書く段階で躓いて、3回くらい喧嘩の理由が変わってるのですヨ。
シュミットが乙女だなぁー(死)。


モドル