カツン……。
 暗闇に、硬い靴底の音が響く。
 寄宿舎の屋上へと続く階段を一歩一歩と昇りながら、カルロは面白くない気分を噛み締めていた。
 カルロ率いるイタリアチーム、ロッソストラーダは、WGP開幕以来連勝を続けている。
 ロッソストラーダでは、レースに勝てば、彼らレーサーを養っているオーナーから褒章金が貰えることになっていた。カルロたちの年齢にすればけして少ないとは言えない額だったが、カルロはそれに満足はしていなかった。
 彼の不機嫌の原因は、しかし、別のところにあった。

 最近、ツイてない。

 他チームに対して「イイコ」ぶることをばからしいと思ったことは一度や二度ではない。だが、爽やかなレーサーという仮面は思いの外便利だった。ミニ四駆をやる人間に悪い人はいないと頭から信じ切っているような平和ボケした連中に対しては特に、警戒心を起こさせない。それは、レース中に相手のマシンに接近しやすいことと、マシンを破壊しても直ぐには疑われないことというふたつの利点を有していた。
 だが、ばからしいと思う気持ちはどんな利点をあげても消えない。彼らの裏の顔を知っている連中が見たら、どれだけ滑稽に見えるだろう。

 下らない。

 カルロには、彼を包む世界の何もかもがばからしくて眠れない、そんな夜が時々あった。


 空っぽの気持ち



 階段を昇りきり、分厚い金属製のドアを押し開ける。開いた隙間から流れ込んで来た冷たい空気と雨の匂いに、カルロは眉を寄せた。
 次の瞬間、目線が留まる。
 誰もいないと信じていた真夜中の屋上に、それはあまりにそぐわぬ背中だった。
 闇に浮かび上がるくすんだ銀の髪。真っ直ぐに伸びた背筋は、まるで誰かへの最後の見栄のようだ。
 ドアの開く音に気付いただろうに、彼はカルロの方を振り向かなかった。
 外気の中へと足を踏み出す前に、カルロは申し訳程度に降る霧雨に気付いた。

 ………ツイてない。

 月の光の中ならば、こんな気分にならずにも済んだかもしれないのに。
 カルロは雨の中に歩を進めた。
 彼の横に立ち、屋上の金網をわざと乱暴に拳で叩く。
 かしゃん、と濡れた金属の音がした。

「………風邪を引きますよ?」

 ちらりとカルロの方を向いた清廉な色の瞳は、直ぐに前に戻される。しかし、彼が映しているのは小さな光をまばらにちりばめた下界ではない。

「…テメェこそ。」

 度重なる敗北に伴う重責と、背負うチームの名への誇り。上位に入るどころか下から数えた方が早い順位が、この生真面目な少年に安眠を約束するはずもなく。
 くすくすと、エーリッヒは笑い出した。

「貴方にそんなことを注意されるとは思いませんでした。」

 不審に睨み付ける瞳に首を振って、エーリッヒは言った。
 薄い夜着の上にトレーナーを一枚着ただけの姿は、春先といえ雨の中に佇むにはあまりに寒々しい。カルロとて似たような姿だったが、雨が降っていると知っていれば早々に部屋に引き上げていただろう。
 いつからここにいたのかは知らないが、しっとりと濡れて重くなったトレーナーは防寒どころか、彼から熱と体力を奪っている。
 戯れに触れた肩は、酷く冷たくて頼りなかった。
 エーリッヒは驚いた目をしてカルロを見た。

「………何ですか?」

 カルロの手を振り払うことはせず、エーリッヒは微笑んだ。その表情が、慰めやそれに似た態度を取られたときの彼の癖であろうことは直感的に知れた。
 直ぐに手を離し、なんでもねぇ、とぶっきらぼうに返す。
 何故、エーリッヒが自分に向かって笑えるのかがカルロには判らなかった。
 アイゼンヴォルフはロッソストラーダに一度、敗北を喫している。マシントラブルというにはあまりにもイタリアチームに有利なそれの正体を、ドイツは知っているはずなのだ。彼はヨーロッパの大会で何度かロッソストラーダと顔を合わせている。情報収集能力に優れた彼らなら、アディオダンツァのことも知っていて当然なのに。
 イイコの仮面を冷笑したって当然なのに。
 なのに。
 この少年が何故ここまで無理をするのか、カルロには理解できなかった。レースの成績以上に彼の身体を心配する連中も多いだろうに。
 こんな風に笑われるくらいならいっそ、苦々しい顔で不満のひとつでも漏らされた方が精神的にも楽だ、と思う。
 そう思った瞬間に、カルロはぞわりと背筋が泡立つのを感じた。奇怪なものを見る目で傍らのドイツ人を見上げる。

「…カルロ?」

 誰かのことを考えたりする時間と心の余裕など、カルロには元々存在しなかった。それは世界で一番無駄な思考だと信じていた。
 見知らぬ他人を見る目で睨み付けられて、エーリッヒは眉尻を下げて笑った。

「不思議なひとですね。……戻りましょう?本当に風邪を引いてしまう。」

 カルロを促して、エーリッヒは屋上のドアへと向かう。カルロは黙ってその後に従った。
 カルロが来たから、その身を案じて屋内に引き返すのだろうこの誇り高いレーサーは、もしも誰も来なかったら一晩中でもあそこに佇んでいたのではないか、と思った。あのまま、頼りない背を責任と誇りに奮い立たせながら。
 ドア前の踊り場に立つと、雨の闇夜とは違う、人工的な闇が彼らを包む。非常灯のグリーンのランプに照らされたカルロの横顔をふと目に留めて、エーリッヒはじっと見入った。

「……何だよ?」

 顔に伝う滴を拭っていたカルロが視線に気付く。

「いえ。…綺麗だと、思って。」
「は?」
「滴が…。」

 言いながら、エーリッヒはそっとカルロの髪に触った。霧雨の細かい水滴は無数の宝石のように淡く煌めきながらカルロを彩っていた。
 改めて見て、エーリッヒはカルロの造形が非常に整っていることに気が付いたのだ。
 カルロはエーリッヒの手を振り払い、ぐしゃりと自分の髪を掻き混ぜた。普段は上がっている髪がばらばらとカルロの顔にかかる。
 細かな水滴が纏まって、カルロの指の間からぽたりと落ちた。

「そうすると、貴方でも案外幼く見えるんですね。」
「……ッ! 黙りやがれ! テメェの方がよっぽど……!!!」

 馬鹿にされた、と感じた瞬間に反射的にカルロの口から発された言葉は、真夜中には不似合いに大きく階段に反響した。
 エーリッヒが目を見開く前で、カルロも驚いた顔をしている。
 直ぐに我を取り戻したのは、エーリッヒの方だった。ふわりと優しい笑顔になって、カルロに笑いかける。

「そう、ですか?」

 途端、かあっとカルロの顔に血が昇る。
 訳の解らぬうちに、エーリッヒの腕を掴んで階段を半分走るようにして降りていく。

「あの、…カルロ?」

 ロッソストラーダの部屋でも、ましてアイゼンヴォルフの部屋でもなく、彼らが辿り着いたのは大浴場だった。
 格部屋にも簡単なシャワールームは付いているが、音で同室者や近隣の部屋の者に迷惑をかける。エーリッヒがそんな状況でシャワーを浴びるはずがないことを、カルロは知っていた。ぽかんとしているエーリッヒを脱衣所に残して浴場に入り、コックを捻る。幸いに湯は止められていないらしく、直ぐに勢いよく流れた湯から湯気が立ち込めた。それを確認すると湯を止めてエーリッヒの元に戻る。

「……なにボサッとしてんだよ」
「………え、?」
「……脱げよ。」
「…はあ。」

 首を捻りつつ、素直に濡れた服を脱いでいくエーリッヒに、カルロは無防備だという感想を抱かずにはいられない。カルロにはそのケはないと信頼されているのか天然なのか、いっそ誘っているのか、カルロには判断がつきかねた。
 エーリッヒを残して、カルロは自室へと向かった。彼との正確な身長差は解らないが、目測では十センチといったところだろうか。僅かに悔しさを感じながら、二人分の着替えを用意して浴場へと戻る。
 エーリッヒはカルロの存外優しい意図を汲み取ったらしく、浴室からシャワーの音が聞こえた。
 脱衣所にある乾燥機に、濡れたエーリッヒのと自分の夜着を脱いで放り込む。
 ボタンを押すと、機械特有の音を立てて動き出した。
 絡み合いながら回る二人の服をほんの僅かな時間見つめる。
 よっぽど、の後の言葉を、エーリッヒはどんなふうに受け止めたのだろう。
 カルロは胸中で続く言葉を反芻し、ち、と舌打ちをした。
 何となく、ではあるが、気付いてしまった。今まで見ないようにしていた感情。

「………ツイてねェな。」

 言った言葉の意味はどこにもなかった。




 空っぽの気持ちが 心が乾いてる
 今日もまたダルさにねじ切れそうになる
 自己満足くらい 出来たらいいな
 日々よ 忘れた夢よ どこに行くの

 空っぽの気持ちが 心が乾いてる
 言い訳ばかり上手に使うようになって
 自分だけの為に 出し惜しみしてた
 愛も 僕の心も 熱く変われ


                                   <終>


 カルエリ。可愛いバージョン。
 カルエリの場合はどちらが保護者がときどき判らなくなる。
 なんとなく、一軍到着前のエーリッヒさんは
 夜中に屋上で涙を流さずに泣いていたイメージ。

 …本来の歌詞では、真夜中に回されるのは洗濯機です(笑)。

空っぽの気持ち (特になし)>
 何の変化もなく無意味に過ぎって行く日々の歌。
 恋愛の始まる一歩直前の感じ。
 歌詞の内容に反して曲調は強くアップテンポ。
 ファーストアルバム頭の曲です。


 
モドル