開けてはいけない箱の中。
 最後に残るはどの気持ち。


ジ レ ン マ


 「エーリッヒ」

 自動販売機の前に立って何を買おうか迷っている態の彼に声をかけた。
 今日は会えると思っていなかったから、これはラッキーだと気持ちが弾んだ。
 エーリッヒは一つのボタンを押してから俺に気づき、笑顔を浮かべた。

 「こんにちは。調子はいかがですか?」
 「ああ、良いよ。そっちも…良さそうだな」

 チームのコンディションを聞かれていると思って答えると、
 エーリッヒは軽く顔を曇らせた。彼はよく、この表情をした。
 口元だけを緩めて眉根を寄せ、目を細める。
 どこかに無理を寄せ集めて、それでも笑おうとする。
 彼らしい苦笑の仕方だったが、それがいつもひどく儚げに見えて、
 俺は好きじゃない。

 「何かあったのか?」

 余計なお世話かもしれない、と思っても聞かずにはいられない。
 チームメイトたちに言わせれば、これは俺の良い癖で悪い癖だ。
 だからよく貴方は貧乏くじを引くのよ、とマルガレータに諭された時は
 流石に少し凹んだ。

 「いいえ」

 嘘をついて、エーリッヒは首を横に振った。
 彼と話をする時に観察しすぎたんだろうか、俺は彼が嘘をつくとき、
 口を開く前に長めの瞬きをすることを知っていた。
 本人すらきっと気づいていない、微細なサインを俺は見逃すことができなかった。
 だが、俺に立ち入っていいのはここまでだ。
 彼が拒むその先に踏み込むことは、俺にはできない。
 そんなことを許される関係じゃないことを、俺は知っている。
 そうか、と軽く言って、俺は彼から目をそらした。

 「あ、先日はチケットをありがとうございました」
 「ああ。行ったんだ?」
 「ええ」

 彼の言うチケット、とは少し前までこの街の博物館でやっていた
 レンブラント絵画展のものだ。
 知り合いになった博物館の館長からチケットを二枚、
 貰ったはいいけれど誰と行こうか本気で悩んでしまった。
 チームメンバーは余り絵に興味が無さそうだし、
 かと言ってユーリやトンを誘っても、
 おそらく彼らは相当頑張らないと一人で来る事はできそうにない。
 結局、一番に思いついたけれど自分で否定した、
 空色の瞳の彼を誘おうと決めた。
 別に何の気もなく、軽く誘えばいいだけなのにどうしてか
 妙な緊張が付きまとってなかなか声がかけられず
 (彼の周りにはいつも人がいて、彼ひとりだけに声をかけることも難しかったし)、
 やっと声をかけられたと思っても下らない世間話ばかりしてしまって、
 肝心のことは一つも口に出せなかった。
 …最終的に、俺はエーリッヒを誘うことができなかった。
 彼の親友であるシュミットに、余りに何度も彼に声をかけることを
 訝られてどうしてかと質問された時、とっさに
 「忙しくて行けそうにない絵画展のチケットを彼に譲りたい」とでまかせを
 口走ってしまったら、シュミットにチケットを二枚とも持っていかれてしまった。
 彼らが行くと言っていた日に、俺はちっとも上手くいかない
 ジャネットとニエミネンとの特別なフォーメーション練習に参加しなければならず、
 彼らにはそれ以来会っていなかった。

 「どうだった?」

 ロビーの方へと一緒に向かいながら尋ねると、
 エーリッヒはいつものように微笑んだ。

 「良かったですよ。光線の使い方が本当に繊細で」
 「うん。レンブラントの作品って、光と影の使い方が本当に上手いよな。
 物語画ってあっただろ? 俺はあれの語りかけてくるようなタッチが
 すごい好きでさ…」

 ロビーのソファに並んで座り、暫くレンブラントや他の好きな画家のことを話した。
 後から思えば一方的に俺ばかりが喋っていた気がするけれど、
 エーリッヒは楽しそうに聞いてくれた…ように思う。
 彼はとても聞き上手だから、ついつい話が弾んで
 いろいろなことを話したくなってしまう。
 話が一段楽したところで、彼は買ってきたホットティーを一口すすり、口を開いた。

 「とても絵がお好きなんですね。…本当は絵画展にも行きたかったんでしょう?
 …すみません」
 「いや、いいんだ。忙しかったし、いけないのにチケットばかり持ってるより、
 楽しんでもらえる人に譲った方がよっぽど価値があるしさ。
 エーリッヒもシュミットも絵を見る目がありそうだから」
 「…では、マルガレータさんから何も聞いておられないんですか?」

 俺の言葉に、エーリッヒは少し驚いたような顔をした。
 マルガレータ? …何の話だ?

 「何を?」
 「シュミットは少し都合が悪くなってしまったので、
 同じように映画のチケットを2枚持ってらしたマルガレータさんと
 ご一緒させていただいたんですが…」
 「えっ…?」

 …全然知らなかったぞそんなこと。
 あぁ、それであの日、ジャネットは鬼みたいな形相で
 練習を早く終わらせようと必死だったわけだ。
 余りの剣幕に、こっちの言うことを大人しく聞いたためしがない
 ニエミネンでさえ従っていたからな。
 予定よりだいぶん早く終わった練習のあと、
 きっと彼女はマルガレータを追っていったんだろう。
 ジャネットはマルガレータを妹みたいに可愛がっているからな。

 「そっか。じゃあ、マルガレータと一日デートだったわけだ」

 言った後、心のどこかでなにかがちくりとした気がした。
 よくわからないけれど。

 「ええ」
 「楽しかったんだろ?」
 「…ええ」

 こっくり、と緩やかに頷いて、エーリッヒはよく判る類の苦笑を浮かべた。

 「…実は、そのことで少し、シュミットと喧嘩中なんです」

 目を伏せ、エーリッヒは言った。
 銀の長い睫が優しい色の肌を彩り、俺の好きな空の色に陰りがさす。
 彼を包む色は見事なほどにバランスが取れていて、
 俺はいつも、彼から目が反らせなくなる。

 「喧嘩? どうして」
 「拗ねてしまったんです、彼が。僕が他の人と外出したりしたから」
 「拗ねる? シュミットが?」

 俺の仲のシュミットという人物のイメージは、
 エーリッヒと同じくらいに大人びていて完璧で、
 外見の美しさと相まって近寄りがたい、
 というか近寄らせてもらえないといった感じだ。
 そんな彼が拗ねるというのが想像できなくて、俺は眉を寄せた。
 エーリッヒは両手で持った紙のコップに目線を移す。

 「…意外と子供なんですよ、彼は。
 外見だけは完璧を装う人だから、知っている人は少ないですけれど」
 「確かに。俺には想像がつかないよ」

 はっきり言うと、エーリッヒはやっぱり、と呟いた。
 ちらりと彼を見ると彼も俺を見ていて、
 なんだかむしょうにおかしくなって二人で噴出した。
 笑いがおおかた収まってから、俺は気がついた一つの事実を口にした。

 「…エーリッヒとシュミットは、マルガレータとジャネットと同じなんだな」
 「…え、?」

 何気ない一言のつもりだったのに、エーリッヒは急に顔色を変えた。

 「あ、いや、ほら、ジャネットはマルガレータのことを妹みたいに
 可愛がってるから、シュミットもエーリッヒのことをそんな感じに
 見てるんだろうなぁって…」
 「ああ、そういうことですか。…そうかもしれませんね」

 明らかに安堵の息を吐いて、エーリッヒは表情を緩めた。
 俺の中で、何か得たいの知れない違和感が膨らむ。
 開けてはならないパンドラ・ボックスを誤ってすこしだけ覗いてしまった気分だ。
 箱の中には知ってはいけない山ほどの秘密と、
 気づかないように仕舞い込んだ俺の気持ちが一つ。

 「…シュミットはエーリッヒのことを信頼しているから、
 エーリッヒの傍では素直に拗ねたりできるんだろ?
 そしてシュミットにとって、これは俺の推測なんだけど、
 そんなふうにできるひとはとても少ないんだと思う。
 だからエーリッヒのことが大切で、大切すぎて、
 感情が上手くセーブできないことがあるんだと思う。
 …ジャネットはシュミットとはタイプが違うけど、でも時々そう見えるから」
 「知っています。僕がきっと、彼の中で大きな存在なのだということも。
 彼が僕を大切に思ってくれていることも。
 でも…」

 そこまで言って、エーリッヒはふと口をつぐんだ。
 いけないことまで口走った、そんな感じで。
 それから取り作ったように笑顔を浮かべた。

 「…だからずっと謝っているんですが、許してもらえそうになくて」

 それで居心地が悪くなって、部屋から逃げ出してきた。
 そういうことだろう。
 でも、ならそろそろきっと追っ手が彼を見つけに来る。
 おそらくエーリッヒはそれを待っている。
 だから外へは行かずに宿舎の中にいる。
 …心がちくちく、する。

 「…エーリッヒは」

 言葉は意志外の力で形作られていく。

 「シュミットのことをどう思っているんだ?」
 「…彼を? …そうですね、大切な…パートナーだと思っています」

 上手に言葉を選ぶ為、彼は長い瞬きを一つした。
 だけれどきっと、嘘は言ってない。
 パートナー、はズルい言葉だ、いくらだって多くの意味を含む。
 ふと、エーリッヒの視線が俺の向こうを見て止まった。
 彼の浮かべた表情を見れば、誰がいるのかなんて振り向かずとも判る。
 彼は俺の隣から立ち上がり、軽く礼をした。

 「すみません、愚痴ってしまって。
 とても、…貴方には話しやすかったものですから」
 「いや、気にしないでくれ」

 そうして彼はもう一度ぺこりと頭を下げ、パートナー、の元へと戻っていく。
 紫の瞳は彼ごしに、俺に強い敵対のまなざしを投げかけている。

 「…まいったな」

 彼らの姿が消えてから、俺は頭を垂れて呟いた。
 歪んでしまった箱のフタは、もうきっちりとは閉じられない。
 隙間から漏れ零れるのは彼らの秘密と俺の気持ち。
 開けてはいけないパンドラ・ボックス。
 だけれど既に修復不可能。
 知ってはいけない感情の名を、きっと俺はもうすぐ認識しなければならない。


 ほんの僅かな勇気が足りない 傍に居て欲しいそれさえも
 この関係が壊れそうで 頭ん中を駆け巡る
 あとどれくらい勇気があれば 大事なことを君に伝えられるんだろう
 フラれることが今は怖くて また自分を押さえつけてる


                                          <了>

 ワル→エリ。書くの楽しいですね!(笑)
 でもワルデガルドは恋心に気づかないまま
 延々悶々としつづけるがいいよ。
 彼らの間はそういう関係がスキ。

ジレンマ (シュミ→エリorエリ→シュミ)>
 非常にありがちな片恋の歌。
 友達でいすぎた為に次のステップに
 いけなくなってしまうあたりツガイっぽくて好き。
 青春だねぇ。



 モドル