明日は特別寒い、とラジオの天気予報で聞いた。
 だから、今日のうちに買い物を。
 明日も暖かく過ごせるように。


白ワイン(カッツ)



「寒…」

 黒いコートの襟をかき合わせて、シュミットは呟いた。朝から雪が降っている今日は、昨日に比べても格段に寒い。
 ギムナジウム付属の図書館に、調べものに来ていたシュミットは、暖房の効いた館内から一歩外に出た途端、外気に身を震わせた。
 はぁ、と吐き出した息が、真っ白になって雪の色に溶けていく。
 さくさく、厚く積もった雪の上を歩きながら、シュミットはエーリッヒのことを考える。
 今日の予定はないと言っていたし、この雪だ、アイゼンヴォルフメンバー専用の宿舎から出ていないだろう。ギムナジウムからさしたる距離もないその宿舎で、エーリッヒは本でも読んでいるだろうか。
 今頃、いつものように、外出から帰ってくるシュミットの為に、ほんの少し暖房の設定温度を高くしているかもしれない。それを思うと、シュミットの頬は知らず弛む。エーリッヒの小さな心使いが、なにより嬉しい。
 宿舎の玄関で、シュミットは肩に積もった雪を払った。
 さすがにこんな日には、一旦こうと決めたらなかなかその考えを覆さないシュミットくらいしか外出しようという人間はいないのか、玄関は静まり返っていた。
 玄関でも身振るうくらいの寒さ。はやくエーリッヒの部屋へ行って、暖かい紅茶でも入れてもらいたい。
 自分の部屋よりも、シュミットは可愛い恋人の部屋を選ぶらしかった。
 迎えてくれる人の居る場所を。
 階段で3階まで昇る。エーリッヒの部屋のドアをノックして、そのまま開いた。
 エーリッヒは、シュミットの癖を知っているので、自分が部屋にいるときには、就寝時以外カギを掛けなかった。

「おかえりなさい」

 ドアを開けたシュミットに、エーリッヒは微笑んだ。シュミットの思い通り、部屋は暖かい。

「ただいま」

 言って、シュミットは歩み寄ってきたエーリッヒに触れるだけのキスをする。
 頬を染めながら、それでも嬉しそうに、エーリッヒはそれを受けた。
 コートを着、鞄を下げたままのシュミットに、エーリッヒは苦笑する。予想したとおりとはいえ、あまりにも分かり易い。

「部屋に戻ってないんですね」
「ああ。誰もいない寒い部屋より、お前の所の方がずっといい」

 シュミットは手袋を外して、手をエーリッヒのうなじに滑らせた。

「ぅわっ!冷た…!」

 冷えきった手で暖かい場所に触られて、エーリッヒは声を上げた。
 離れようとした細い身体を、シュミットは強く抱き締める。

「あはははは。外は寒いからな。…お前、あったかいし」
「僕はカイロじゃありませんよ?」

 苦笑しながら、エーリッヒはシュミットに暖を分け与えようと、彼の背中に腕を回す。

「カイロなんかより、ずっとあったかい」

 母猫にじゃれる子猫のように、シュミットは抱き締めたエーリッヒの頬に自分のそれをすりよせる。

「ほっぺたも、冷たいですね」

 むしろ風雪にさらされていた顔が、一番冷たいのではないだろうか。
 両手で挟み込むようにしてシュミットの頬を暖めていたエーリッヒは、少ししてからその手を離した。

「シュミット、良いものがあるんです。用意しますから…、離してくれませんか?」

 にこりと笑って、腕の中から離れようとするエーリッヒを逃さないように、シュミットはますますぎゅうと細い身体を抱き締める。
 エーリッヒは少し眉を寄せて、笑う。

「シュミット」

 あまり強い抵抗をみせない身体は、おそらくこのまま抱き続けても拒絶することはないだろう。
 シュミットがそれを望むのなら、自分の思惑など後に回してしまうのだろう。
 シュミットは名残惜しそうに、エーリッヒを解放した。
 エーリッヒは、マフラーを取ってコートを脱いで、鞄を置いておいてくださいと言って、部屋を出ていった。シュミットは言われたとおり、鞄を絨毯の上に置き、マフラーを外してコートと一緒に机の椅子に引っ掛けた。
 綺麗に整理された室内は、几帳面なエーリッヒの性格をよく現している。

 …昔から、変わらない。

 シュミットは、綺麗に整えられたベッドに腰を下ろした。

「お待たせしました、シュミット」

 戻ってきたエーリッヒは、一本のワインと二つのワイングラスを持っていた。

「…珍しいな、お前がアルコールを勧めるなんて」

 エーリッヒは苦笑した。

「そうですね。でも…、今日は寒いですから。これなら、身体を温めることができるでしょう?」

 自分の机の上にそれらを置いて、ワインのコルクを空ける。
 薄く色づいた液体が華奢なグラスに満たされていくのを、シュミットは見ていた。
 渡されたそれを、一口飲む。

「…カッツか?」
「ええ。貴方のように、高級なものは用意できませんよ」

 肩をすくめ、エーリッヒはもう一つのグラスにワインを注いだ。

「…そういえば、私はコレで随分お前に苦労させられてきたっけなァ…」

 ワイングラスを揺らして、シュミットは言った。
 エーリッヒが、ある特定のアルコールには非常に弱いと知ったのはもうずいぶん昔のことだ。
 エーリッヒは、シュミットに困惑したような目を向けた。

「苦労って…、僕は酔い潰れたことも、二日酔いになった記憶もないですよ?」

 これだ、とシュミットは両肩を竦めた。
 机の椅子を引き、それに座ったエーリッヒに呆れたような視線を送る。

「…お前は、酔ったときの記憶をさっぱりなくすからな」
「なくす、…って」
「なくすんだよ」

 シュミットは、グラスに残っていたワインをぐいと飲み干した。
 空のグラスを通して、エーリッヒを眺める。
 紫の瞳に映る恋人は、惑っているようだった。

「…そんな顔をするな、エーリッヒ」
「真偽は僕にはわからないです…けど、」
「私の言うことが信じられないのか?」

 険呑な視線を向けられて、そうじゃないです、とエーリッヒは首を振った。 
 シュミットは立ち上がり、エーリッヒの机にグラスを置いた。
 そうして、突然エーリッヒに抱きつく。

「酔ったお前がどんな風になるのか…、聞かせてやってもいい」

 耳元で囁かれた言葉と、吐息に、エーリッヒは身震いした。
 自分が酔うという、自覚がない。過去に何度か酒を飲んだことはあるが、幾ら強いものを飲んでも酔わなかった。
 …酔わなかった、気がするだけなのだろうか。
 シュミットの言うとおり、酔った記憶だけ消えているのだろうか。

「酔うと、大胆になるんだよ、お前は」
「…っ?!」

 二人の他には誰もいないはずの部屋で、シュミットは必要以上に声を押さえた。
 シュミットの言葉に、慌てて彼の方を向いたエーリッヒは、楽しそうに笑う瞳を見た。

「…僕を、からかっているんでしょう、シュミット」

 ウイスキーを飲んでも平気な人間が、酔うはずがない。 
 エーリッヒは、シュミットが自分の反応を見て楽しむ為に、嘘を吐いているのだろうと思った。

「本当のことだよ、エーリッヒ。…信じろ」

 エーリッヒが逃げられないように抱き寄せる。

 信じろと、言われても…。

 エーリッヒは、シュミットを睨んだ。

「何だ? 認めたくないのか。まぁ、分からなくもないが…」

 意味深な言い方をするシュミットに、エーリッヒはふと不安になった。

「…シュミット、あの、僕…?」
「普段が禁欲的なせいか? 溜め込んだ分を一気に発散させているようだもんなぁ…」
「…シュミット。冗談でしょう?」

 意味を持たせる言い方をしてくるシュミットに、エーリッヒの倫理感がざわめいた。 
 酔って、大胆になって、日頃の欲望を解放させて…?
 そんなはずは、…ない。

「冗談もなにも。私は真実しか言っていない」

 きりっと真面目な表情を作ったシュミットに、エーリッヒは眉を寄せた。

「…だって、シュミット。僕には、…記憶のない……その、夜は…、ありません、よ…?」

 言い淀むエーリッヒが可愛くて、シュミットはぎゅうとエーリッヒを抱き締めた。

「ちょ、シュミット…!」
「なくて当然だ。酔ったお前を抱いたことなどないからな」
「…え?」

 意外な言葉に、エーリッヒは抵抗を止めてしまった。
 どうして、と問いたげな恋人に、シュミットは微笑んでみせた。

「酔うと記憶をなくすと知っているからさ…。嫌だろう? 自分の記憶の無いうちに抱かれているなんて。それじゃ、強姦されているのと変わらない」

 綺麗な色の頬に、口付ける。 
 愛おしげに。
 シュミットの心使いを知って、エーリッヒは嬉しさと共に、躯が熱くなるのを感じていた。

「…それに、私だって嫌なんだ。これ以上、私とお前の記憶が食い違うなんて…」

 エーリッヒの顎に指をかけ、シュミットは自分の方を向かせた。
 大人しく目を閉じたエーリッヒに、口付けを。
 触れるだけの優しいキスを。
 ちゅっ…、と、音をたてて唇を離し、銀の睫毛に縁取られた瞼が上がるのを待つ。

「…なぁ、エーリッヒ。覚えていないだろう? 私たちが、初めてキスをした日のこと…」
「…覚えてますよ。…第一回WGPの、夏休み。この国に、帰って来ていたときでしょう…?」
「違うよ。もっと、昔だ」
「もっと…? 友達のキスですか?それなら、たしか6歳の…」
「違う」

 もう一度、シュミットはエーリッヒの唇を塞いだ。

「お前から…ここに」
「…僕、から…?」

 額が触れ合うほどに近く。
 痛い程に高鳴っている、胸の鼓動がシュミットに聞こえていませんように。
 シュミットはエーリッヒの頬を両手で挟み込んだ。

「私は、初めてだったんだぞ?」
「また、そんな事を言って…」
「嘘じゃないさ。嘘で、こんな事は言わない」

 ポーカーフェイスが得意なシュミットの嘘は、人生を約半分共有してきたエーリッヒでさえ、見抜くのは難しい。過去に何度か騙された事のあるエーリッヒには、シュミットの発言を鵜呑みには出来なかった。
 不信を表情で表すエーリッヒに、シュミットはそっと手を離した。

「…だから、嫌なんだ」
 
 ベッドを軋ませながら、エーリッヒを横目で睨む。
 二人の思い出のはずなのに、エーリッヒは覚えていない。不可抗力ではあろうけれど、…やはり、納得はいかなかった。
 そんな思い出を、シュミットはもう、一つたりとも作りたくないのだ。
 俯いてしまったシュミットを見て、エーリッヒの胸がちくりと痛んだ。もしかしたら、自分はシュミットを傷つけているのかもしれない。
 自分が酔うというのはまだ信じられないが、覚え違いをしているのかもしれない。昔、いつか自分はシュミットとキスをしていたかもしれない…。
 だが、そんな出来事なら覚えていないはずがない。
 どう考えても、シュミットが嘘を吐いているか…、エーリッヒの記憶が飛んでいるかなのだ。

「…シュミット、」
「ん…ッ?!」

 顔を上げたシュミットの唇を、エーリッヒは自分のそれで塞いだ。
 すぐに唇を離し、シュミットの目と鼻の先で、にこりと笑う。

「な…?!」

 エーリッヒの不意打ちに、シュミットは顔を赤く染めた。

「な、エーリッヒ! お前、酔っているのか?!」
「別に、酔ってはいませんけれど」

 シュミットは手を伸ばし、机の上のワインボトルを引き寄せた。
 ツェラー・シュヴァルツ・カッツ。
 間違いない。エーリッヒは、これでは酔わない。
 …なら。
 黒猫の描かれたラベルから目を上げたシュミットは、エーリッヒが静かに笑っているのを見た。

「…初めてのキスを、もしかしたら僕は覚えていないのかもしれない。貴方との思い出が、僕には少し欠如しているのかもしれない。でも、…思い出は、作れるでしょう?」

 ふわりと、エーリッヒの腕がシュミットの首に回される。
 軽いアルコールが入って、身体は緩やかに火照っている。
 窓の外の冷気は、室内では感じられない。

「…そうだな」

 誘うように、青い目が細められた。
 シュミットは遠慮なく唇を重ね、細い身体をベッドに押し倒した。


 今日はとびきり寒いと天気予報は言っていた。
 …それなら、自分なりのやり方で温まればいい。
 それだけのこと。


 冒頭が「ベストドロップ」に似ていますが、本来はこっちが最初。
 あっちが、寄せ集めです(笑)。
 『幸せ風味のドリンク・バー』より。このタイトルで何人に笑われたか…!


モドル