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『覚めない夢』
朝一番の来客はロクな事が無い。
入り口のドアにもたれる男を見て、カルロは小さく舌打ちした。
昨日は朝からエーリッヒが訪ねてきたと思ったら、翌日にはその親友が訪ねてきた。
カルロは渋々エーリッヒに声をかける。
「オイ…起きろよ。保護者が来てるゼ。」
聞き慣れた声と鼻につくキツイ煙草の香り。
それらが深く沈んでいたエーリッヒの意識を徐々に浮上させる。
「ぅ…ん…。」
完全に熟睡していた体はすぐには言う事を聞かず、
エーリッヒは体を横たえたまま乱れた前髪を無造作に掻き上げた。
いつも後ろに流している前髪は長く伸び、事あるごとに顔に掛かりうざったい。
いい加減少し切ろうかとも思ったが、何だかんだで忙しく今まで切れずにいた。
朝特有の鈍い頭痛を振り払いエーリッヒは無理矢理怠い体を起こす。
真直ぐ前に目をやると、ジーパン一枚のカルロが部屋の入り口の方を顎で合図していた。
そこにあったのは、苛立った表情で壁に寄り掛かる親友の姿。
腕を組み、僅かにこちらに眼を向けている。
その様子を見て、エーリッヒは初めて状況を理解した。
「…え…朝?僕、もしかして泊まっ…!」
「いいから早く行け。」
「は、はいっ!」
申し訳なさそうな顔をして慌てふためいている所を不機嫌そうに促され、
エーリッヒは慌ててシュミットの元へ駆け寄った。
「ルームメイトに無断で外泊なんて、感心しないな。」
言葉こそキツく無いが、その口調には相当の刺が含まれていた。
「すみません、泊まるつもりは無かったんですが…。」
「謝っている暇があるならさっさと部屋に戻ってユニフォームに着替えろ。
30分後にコースに集合だ。」
「…はい。」
そう短く返事をした後、エーリッヒは息を吸い込み大きく後ろを振り返った。
「あ、あの…また、来ますから!」
そう早口で告げると、エーリッヒはシュミットについて部屋を出た。
カルロからの返事は無かった。
二人並んで冷たい廊下を歩く。
重い空気の中、先に口を開いたのはシュミットの方だった。
「おい、まさかあいつが本気でお前を好きだなんて思ってないよな?」
「……ええ。」
単刀直入な質問に、エーリッヒは少し間をとって答えた。
そんな事思いたくても思えない。
名前すらまともに呼んでもらった事が無いと言うのに。
来る者拒まず、去る者追わず。
カルロは正にそれを実行しているだけなのだ。
俯くエーリッヒに、鋭いシュミットの声が飛んだ。
「大体、ロッソストラーダのメンバーと個人的に接触している事すら、
チームの皆に漏れたら影響が出るんだ。
出場停止期間中とは言え、ロッソストラーダとは結局またファイナルで戦う事になる。
グランプリの話を抜きにしても、だ。お前が傷つくのは目に見えている。
…エーリッヒ、俺はお前の事を思って言ってるんだ。」
「…。」
半ば呆れたように告げるシュミットに、エーリッヒは無言で返した。
カルロが悪人だとは思わない。でも、それがチームメイトの迷惑になるのもまた事実だった。
シュミットが自分の事を気遣って言ってくれている事も良く分かる。
それでも。
それでも僕は―。
エーリッヒは何も言わずにただ俯いていた。
練習が終わって部屋に戻ると、エーリッヒはぐったりと沈む体をベッドに預けた。
丸一日使われなかったベッドは昨日自分が起きたままの状態で時が止まっていた。
しばらくそうしていると、自然にカルロの姿が浮かんでくる。
そして、それと同時に自責の念がふつふつと沸き上がってきた。
彼より後に起きたため正確には分からないが、カルロはきっとソファ-で眠ったのだろう。
自分がベッドを奪ってしまったばっかりに。
と、何かが引っ掛かりエーリッヒは一旦思考を止めて記憶の引き出しを探り出す。
前日の夜、自分が転寝したのはソファーだったはずだ。
…だとしたら、カルロがベッドまで運んでくれた…?
そう考えると思わず赤面してしまい、エーリッヒは腕で顔を覆った。
「〜…っ///…馬鹿みたいだ…。」
「誰が馬鹿みたいだって?」
「シ、シュミット!?」
突然の声に、エーリッヒはガバッと体を起こす。
「まだ着替えてなかったのか。」
「あ。」
今だにユニフォーム姿だった事を思い出し微妙な表情を作るエーリッヒに、
シュミットは呆れたように言葉を吐く。
「全く。今何時だと思ってるんだ。」
「え…?」
エーリッヒは、壁に掛かった時計に目を向けた。
針はちょうど5時を指し示している。
瞬間、何か大変な用事でも思い出したようにエーリッヒは慌てて身を翻す。
「僕、ちょっと出かけて来ます!」
「カルロの所か?」
鋭く削った氷のような声だった。
しかし、エーリッヒは臆せずに振り返る。
「そうです。」
「―っ、エーリッヒ!!」
その一声で制止しようと思った。
ただ名を呼ぶだけで止まってくれると思った。
それなのに。
「…これだけは譲れません。」
次の瞬間見えたのは、今まで自分の後を追ってきていた筈の幼なじみの、見知らぬ後ろ姿だった。
シュミットは、エーリッヒの出ていった扉に視点を合わせたまま、呆然と思いを巡らせる。
心にぽっかり穴が開いたような空虚感。
―俺は、親友を取られて悔しいのか…??
本当は、チームに影響が出るだのエーリッヒが傷つくだの、そんな理由は全て建前にしか過ぎなくて。
「実際は、ただエーリッヒを取られたくなかっただけ、か。」
他人の気持ちを一切考えない、留まらない独占欲。
欲しい玩具を目の前に泣き叫ぶ子供のように…。
俺はガキかよ、と呟くと、シュミットは小さく舌打ちした。
ふと視界を巡らすと、エーリッヒのベッドが目に入った。
物心ついた頃から、エーリッヒは自分が守らなくてはと思っていた。
ずっと自分が側にいて、彼の道を照らしていくのだと。
必然的にそう感じていた。
しかし、それは自分の勝手な思い込みで、現実は自分の方が全然相手に依存していて…。
エーリッヒのベッドに触れる。
弾力のあるそれは、少し力を加えたくらいでは大人しく沈まなかった。
―ここに、さっきまでエーリッヒが横になっていた…。
躊躇いがちに膝を乗せ、ベッドに這い上がる。
罪悪感がちくりと心を刺す。
多少潔癖の気のあるシュミットは、それは侵してはならない神聖なテリトリーであり、
例えば、恋人やそれに近しい存在しか踏み込んではいけないような気がしていた。
恐る恐るベッドに体を横たえると、シーツからじんわりと冷たさが染み渡り肌の隅々までを冷やした。
顔を横に向けて俯せて、エーリッヒの枕を守るように抱える。
「エーリッヒ…。」
唇だけで唱えると、シュミットは深い眠りへと落ちていった。
扉を開ければ、今日三回目の訪問者。
「入んな。」
自分から扉を空け部屋にエーリッヒを招き入れる。
その姿は、以前のカルロからは想像出来ないものだった。
他人を踏み込ませる事を極端に嫌い、一歩も中に入らせない。
それを思うと、エーリッヒは例え僅かであっても距離が縮まった事を胸の内で喜ばずにはいられなかった。
「昨日は、すみませんでした…泊まった上にベッドまで奪ってしまって。」
「別に気にしてねぇよ。」
エーリッヒの謝罪の言葉に、煙草の火を揉み消しながら素っ気なく答える。
「あの、シュミットの事…、悪く思わないでくださいね。」
「ああ、俺のエーリッヒを帰せ、とでも言いたげな剣幕だったな。」
さらっとそんな事を言ってのけるカルロに、エーリッヒは胸が切なく締め付けられるのを感じた。
判ってはいても、やはり自分の事を何とも思っていないのだと思い知らされると胸が痛む。
「アイツ、絶対お前の事好きだよなぁ。」
「そんな事…!シュミットはただの幼なじみで、たまたまチームメイトになっただけで、それに…。」
反射的に言い返すエーリッヒの頭をさっきの言い合いが過った。
「それに…もう、こんなヤツには愛想をつかしてしまったでしょうし。」
それを聞いて、カルロは顔をしかめた。
「保護者と、何かあったのか?」
「ちょっと…喧嘩をしてしまって。」
胸が詰まる。
言い辛そうに口を割ると、カルロが玄関を指差した。
「だったら早く―」
「帰りません!」
カルロの言葉を遮り、エーリッヒは強い口調で否定した。
深いブルーの瞳が揺れる。
「…はぁ。喧嘩したから逃げてきたんだろ?意地張ってねぇで早く仲直りしろよ。」
「違います!シュミットは関係無い…僕はただ……貴方といたかったから…。」
「保護者が聞いたら泣くぞ;」
本気で言ったのに反応は冗談めいていて。
でもエーリッヒは退かなかった。
「カルロ…。」
「駄目だ。早く帰れ。」
「あの…。」
「いい加減にしろよ…?」
カルロが、少し声のトーンを落とした。
「迷惑、ですか?」
「……ああ。迷惑だ。」
カルロは、エーリッヒの哀しげな瞳を直視したままわざと強調して言った。
エーリッヒの目が益々深い悲しみに染まる。
少し潤んでいるようにも見えた。
『人に信用して欲しいときは相手の目を見る事。』
カルロが今まで生き抜いてきた中で学んだ事だ。
「…ごめん、なさ…。」
とうとう堪え切れなくなったエーリッヒは、涙を見られないよう深く俯いた。
「泣くなよ。めんどくせぇ。」
「泣いてません…っ。」
どうしてコイツはこんなに警戒心が無いんだろうか。
こういう仕草が他の男から見てどういう風に映るのかまるで分かって無い。
解けそうになった理性を取り戻そうと、カルロはエーリッヒから目を背けた。
俯いたまま、小さい子供の様に泣きじゃくるエーリッヒは、きっと何も知らない。
名前を呼ばれる度に上がる心拍数。
抱き締めたくて疼く腕。
「カルロぉ…。」
縋るような言葉に、全身が震えた。
思わず抱き締めてしまいそうになった腕を理性で抑えつけ、カルロはエーリッヒの肩を掴んで激しく揺さ振りながら叫んだ。
「本っ当に馬鹿だなお前は!!オレといたらどうなるか分かんねぇのかよ!?周りがどう思うか―」
「そんな事関係無い…っ!」
強く叫び返すエーリッヒに、カルロは目を見開いた。
「周りなんて関係ない…周りが何と言おうと、貴方が何と言おうと、貴方は優しい人です!
今だって、僕の事を気遣ってくれた…そんな優しい貴方が、好きです…。」
カルロは愕然とエーリッヒに目を向ける。
「貴方が僕の事を好きだとか、これから好きになってくれだとか自惚れた事も無理な事も言いません!
ただ、周り関係無く、僕が嫌いでないなら……傍に…傍にいさせて…っ!」
目の前で、涙を湛えるエーリッヒ。
ここで抱き締めたら、もう後戻りは出来ない。
そんな事、分かっていたのに―。
カルロは、エーリッヒの華奢な体を、溢れる感情に任せ激しく掻き抱いた。
相手に伝わってしまうかも知れないと不安に駆られるほど強い鼓動は、まるで早鐘のようだった。
「…アホ。」
「…カルロ…。」
エーリッヒは、カルロの温もりを感じ幸せそうに瞳を閉じた。
そんなエーリッヒの背中に回した腕に、ぎゅっと力を込める。
「離してくれって言われても、もう離せねぇからな。」
「はい…。」
幸せな沈黙の後、エーリッヒが再び口を開く。
「初めて貴方が僕を家に入れてくれた日の事、覚えてますか?」
「忘れた。」
即答するカルロに苦笑しながらもエーリッヒは続ける。
「あの日は雨で、いつも門前払いだった僕を自分から招き入れてくれたんです。とても、嬉しかった…。」
「…ずぶ濡れで来るからだ。」
「ふふ、そういう優しいところ、好きですよ。」
褒められる事に慣れていないカルロはそっぽを向いたが、エーリッヒは気にせずに腕を絡めた。
「大好きです…。」
見つめ合い、ゆっくりと瞼を閉じて甘い口付けを交す。
「夢みたい…。」
唇を離した後、ぼんやりと呟くエーリッヒにカルロはニヤリと笑う。
「夢かもな。」
「カルロ…っ!」
「…ただ、こんな夢だったら一生覚めなくてもイイかも。」
くすぐったい言葉に、エーリッヒは表情を和らげる。
「僕もです…。」
「エーリッヒ、愛してる。」
そう言うと、カルロはやんわりとエーリッヒの銀髪を撫でた。
そうして、夢のように幸せな生活は始まった。
二人で、覚めない夢を見よう…。
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