出会って初めて、君に言わなかった。
お誕生日おめでとうの言葉。
Beste Wunsche zum Geburtstag...
5月4日、6:38。
ほとんど眠れなかったベッドの上で半身を起こし、エーリッヒは溜め息をついた。
大切な親友の誕生日。忘れられるはずのないその日付。
毎年なら、アイゼンヴォルフ内で催される誕生日パーティでプレゼントを渡し、騒いで…、
でも、あまり騒がしいのが好きでないシュミットが会場から抜け出すのに付き合って。
自分勝手な主賓は、エーリッヒを連れての夜の散歩がお気に入りの様子だった。
星空の下でとりとめもない話をして。それから。
「誕生日、おめでとうございます…、今年も…、よろしくお願い致します…」
一人の部屋で、呟く。毎年言ってきた言葉。
今は…あまりにも遠い。
机の上の資料には、明日の日曜日、日本で言う“コドモのヒ”にチイコ・ミクニ主催で行われる
レースの案内が乗っている。ポイントには関係のないレースだが、アメリカや日本、まだ対戦の
ないロシア。イタリアは…こんなお祭り騒ぎには出てこないかもしれないが、借りのあるレーサー
達に背を見せる気などさらさらなかった。フォーメーションを無視し、一人で走れるこのレース、
ブレットやレツ・セイバに勝つチャンスではないか。
…なのに、そのレースにこんな気持ちで臨めるものか。
自分が莫迦だとは思う。日本行きを望み、彼の傍から離れたのは他ならぬ自分自身だというのに。
速くなりたくて、…自分よりどんどん速くなっていくシュミットに追い付きたくてWGP前半戦の
リーダーを引き受けたというのに。
シュミットへの気持ちに気付いてからこっち、彼の傍にいるのも辛ければ、離れていればもっと
辛かった。
シュミットからは掛けて来ない電話。エーリッヒにも掛けるつもりはなかった。
だが、今日という日は。
何度掛けようと思ったか判らない。時差7時間の地。
でも…恐くて。精神的にも肉体的にも弱っている今、頼れる、甘えられる親友の声を聴いたら
どうなってしまうか判らないから。
親友の、…一番大切な人の誕生日を祝わないなんてどうかしている。そう自分に言い聞かせても、
電話番号を最後まで押す事ができなかった。
なんと柔弱な。自分はいつから──こんなに。
エーリッヒは、寝起きでばらけたままの前髪をぐしゃりとかき混ぜた。
コンコンコン。
突然ドアがノックされた。反射的に、視線をドアに向ける。
「あの…エーリッヒさん、起きてらっしゃいますか」
ラインハルトの声だ。
「ええ。何ですか?」
落ち着いて言う。
「お電話です。…ドイツから」
びくりと、エーリッヒの躰が強ばった。
ドイツ…。
「誰から、ですか」
「シュミットさんです」
「居ないと言って下さい」
即答。
やはり聴けない。シュミットの声など、今──。
ラインハルトは困ったように沈黙した。
エーリッヒは部屋の中で気配を殺していた。気配を立てれば、それすらも電話越しの彼に
感じ取られてしまうかのように。
「…判りました」
やがてラインハルトは身を引いた。
エーリッヒは大きく息をついて、ベッドに体を倒す。前髪が視界を邪魔した。
「…ごめんなさい」
懺悔のように言葉を空気に溶かす。
目を閉じると、親友の自信たっぷりの笑顔が瞼の裏にちらついた。自分を非難しているような、
眉間に皺を寄せた彼も見えた。
だからといって目を開けても、何の変わり映えもない天井が自分を迎えるだけだ。
いっそ、学校も練習もサボってもう一度眠ってしまおうか。
夢の中ででもシュミットに怒られれば、少しは心もスッキリするかもしれない。
…本当は、知っていたけれど。
出てきて欲しい人が夢に出てくることなど、ほとんど皆無だと言うことは。
重い溜め息が、再びエーリッヒの口から零れた。
コンコンコンコン。
四回のノックに、エーリッヒはびくりと身を竦ませた。
がちゃ、がちゃがちゃ。
一瞬の間の後、鍵のかかったドアを開けようとノブを回す音が部屋に響く。
「……ッ、…!」
何か音を綴ろうとする口からは、空気の漏れる意味のない喘ぎが出るのみだった。
しかし、言葉が出たところで何と言うつもりだろう、自分は。帰って下さい、と?
そんな台詞──言えるはずもない。
ただエーリッヒは、先ほどラインハルトに託した伝言の通り、居留守を使うことに徹した。
目は、ドアを凝視していた。逸らすことが出来なかった。
違うはずなのに。
居ないはずなのに。
あの人は、この国には。
では、じゃあ、誰だというのだ。二軍のメンバーがエーリッヒに断りもなくドアを開けようなどと
するはずがない。クラウス…、あの無能なくせに威張り散らした男が、自らエーリッヒを呼びに
来ることはない。二軍のメンバーを使って、エーリッヒを自分の元に呼びつけるだろう。
では、誰だ?
他のチームの人間なら尚更に、こんな礼を失したことをするはずがない。
ドアのガチャガチャは、未だ続いていた。いつか開くと信じて居るかのように。
エーリッヒはゆっくりと、立ち上がった。
誘われるようにドアに近づく。
手を伸ばす。
触れた硬い無機質は、エーリッヒと彼の間を確実に隔てていた。
開けられない、と思う。
未だ、彼らに、彼に会うには早い。
あと少し。あと少し…このドアを開けずに。
「Beste Wunsche zum Geburtstag…」
額をドアに押しつけ、消え入りそうな声で祝いの言葉を。
ドアノブを回す音が、止まった。
時計は7時を指していた。
「…ごめんなさい」
ドアの向こうの気配が消えゆくのを感じながら、エーリッヒは唇を噛み締めていた。
「ごめんなさい、シュミット。……シュミット」
───お誕生日、おめでとうございます。今年も貴方に幸せが訪れますように───
|