君は下らないと嘲笑うけれど。
紙面
例えばこの世界が、誰かに作られたものだとしたら?
くしゃりと丸められて捨てられるか、あるいはデリータキーを軽く押されるだけで人生が終わるような存在だとしたら?
神を信じる僕にさえ、そんな不安が付きまとう。
僕は主人公なのか? それとも僕の知らない誰かが主人公?
彼との出会いも葛藤も、こうなるまでの経緯でさえも、誰かに作られた虚偽だなんて、嫌な想像が頭から離れない。
全てを信じるには、僕らは大人になりすぎて。多くのことを知りすぎた。サンタクロースはいないんだって、
僕に教えたのは誰?
この世界は、多くの作り話が集まって出来ているのかもしれない。劇的な、センセーショナルな事件は、
僕らを作っている誰かの、やっぱり作り話なのかもしれない。それとも、その人の経験。形のあるものもないものも、
その存在はあまりに儚い。
印象は人を変える。僕が認識している僕と、僕以外の誰かの認識している僕は違う人間だろう。
誰かの中だけに息づく僕らは、果たして存在意義のあるものだろうか。僕の傍を通り過ぎた、あの誰かの人生は
語られることがあるのだろうか。作り話のストーリーと関係のない人物は、まるで最初から存在しなかったかのように、
簡単に生き、死んで行く。エキストラは、画面の端で倒れても、それを振り返る者などいない。例え、その人が人には
真似できない人生を辿っていたとしても。彼にも家族があるとしても。第三者には、それを語る権利はない。
だから僕らは、自分の生きている意味を探す。
生きていたことを証明してくれる誰かを、探す。
人が求めあう理由は。
僕は、そんなところにあると思っている。
「…もしもこの身が作り物で」
誰かの物語の、ほんの通りすがりの誰かだとしたら。こんなに上手に綴られた、僕の人生そのものも価値のないもの。
下らない。
彼は、これを聴けばきっとそう言う。
部屋のノブが、音を立てて回った。
ドアを開けて、隙間から覗いたのは端正な顔。
「エーリッヒ。此処に居たのか」
彼はそう言って、僕に笑いかける。
「どうかしたんですか? 何か、問題でも?」
そうじゃないと、判っていた。
彼はゆるゆると首を振る。普段の不遜な態度も今は影を潜めて、ただ穏やかに、彼は微笑んだ。
「何も。唯、」
「ただ?」
「お前の淹れたコーヒーが、飲みたくなって」
僕は笑う。穏やかに。
窓の外は、もう暗い。視覚に頼らない、思考の時間が始まる。
椅子から立ち上がり、僕は部屋を出る。
彼は僕の前を歩く。いつでも、前を歩く。
僕は彼の背中を見ている。いつでも、見ている。
主人公は僕なのか。それとも彼が主人公なのか。
僕は時々夢を見る。誰かが僕らを動かして、そうして笑っている夢を。誰かの心を動かして、
笑っている夢を。僕らの物語が、誰かに楽しまれている夢を。
愉しまれて。
誰かに。
作り物の僕らを。
イメージと幻想と、そんな虚構の僕らで。
誰かを。
愉しませて。
そんなことが、できるものか。
コーヒーを淹れる。もう慣れた手順を、それでも丁寧に繰り返す。人の、彼の口に入るものだから。殊更に気を使う。
味にうるさいあの人が、「美味い」と言ってくれるように。
ステンレス台の上を、何処から迷い込んだのか、一匹の小さな蟻が歩いていた。
きっと、物語を作っている人に、この蟻の存在は認められない。この蟻がゆっくりと、でもとても素早く歩いている
ことなんて、知らない。ステンレス台から壁に。壁からコンロの方に。歩いていく、あの蟻の軌跡が語られることなんてない。
彼の元へと帰る。彼はソファに座って、僕を見ている。
「どうぞ」
「有り難う」
彼はコーヒーカップに手を伸ばす。
彼の心情が語られているだろうか? それとも僕の心情が? それとも単調な風景の描写のみで、どちらも
描かれることはない? もしくは、こんなヒトコマ、言葉で飾る意味もない?
白い、品のある陶器のカップを口に運び、彼は笑う。
「やはりお前が淹れたのが一番だな」
僕も笑う。どこかに照れを隠して。
「有り難う御座います」
蛍光灯の光に照らし出されたリビングは、静かで冷たくて優しい。
彼の手招きに応じて、僕は彼の傍による。
彼が僕の瞳の奥を覗き込む。
僕に彼の考えていることはわからない。
彼に僕の考えていることもわからない。
この話を作っている人にも、きっと僕らの考えていることはわからない。
判らない。
作り物と本物の境。
判らない。
上手にできた僕らの日常。
目を閉じると、柔らかくキスされる。
「エーリッヒ」
僕の好きな声で呼ばれる。
僕を指し示す言葉。唯の記号。僕を固体化する。
名前。
僕の。
作られた僕の。
ほんの一握りの人しか知らない。
名前。
「…シュミット」
彼の名を。
呼ぶ。
たった一人の。
親友。
「こんな時間が、一番好きだな」
彼の言葉は真実。
僕は頷く。
「僕もです」
僕らが此処に生きているのも真実。
穏やかな時間。
この世界は作り物?
何の入れ物。
彼には言わないけれど。
僕の知り得るたった一つの真実。
彼は此処に存在する。
そして、僕は其処に存在する。
[了]
多分、一生に一回は誰でもが感じる疑問じゃないかと思ふ。
モドル