クレイジー・チェイス
「………シュミット」
エーリッヒはついに耐え切れなくなって声を上げた。
シュミットは少し驚いた顔はしたが体は動かさず、なんだ、と言った。
「…好い加減離れて下さい…」
「ヤだ」
エーリッヒの首に回した腕に力を込めて、幸せそうな声音で返事をする。それにエーリッヒは溜息を吐いた。
パソコンの前に座っているエーリッヒの背中にシュミットがべったりと張り付いている、という状況は、もう随分前から続いていた。
手元の資料に視線を落としてパソコンに打ち込みながら、エーリッヒの意識は背中の温もりに半分向けられている。細かい数字の羅列を書き写していく作業はある程度の集中力を必要とし、したがってシュミットの存在はエーリッヒには間違っても歓迎できなかった。
「あ、間違ったぞ」
「え」
資料を確認すると、確かにコンマの位置がズレている。
間違いを修正していると、シュミットがくすくす笑った。
「な、役に立ってるだろう」
ずっとくっついていられる良い理由を見つけたというように、間違ったら教えてやるよ、と言う。
エーリッヒは首だけをシュミットの方に振り向けて、彼を睨んだ。
「……貴方のせいで間違ったんですよ」
「酷いな。責任転嫁しないでくれよ」
「貴方がべったりくっついているから、集中できないんです!」
そうか? とシュミットは空とぼけた返事をした。
離れる気は毛頭ないといったその態度に、エーリッヒはもう一度溜息を吐く。
「貴方のいつもの就寝時間はもうとうに過ぎているでしょう?」
「お前が起きているというから、付き合ってやってるんじゃないか」
「…頼んだ覚えはありませんが」
「一人寝が淋しいんだよ」
「……部屋が違うでしょう……」
呆れたようなエーリッヒの台詞には応えず、シュミットはただくすくす笑った。
エーリッヒが今パソコンにデータとして入力しているのは、アイゼンヴォルフの今日の練習走行のタイムやセッティングの変更箇所だった。チームリビングで夕食後の寛いだ時間を過ごした後、エーリッヒは今日の分だけは今日中に、と仕事のために自室に戻った。その後を何故かシュミットは当然のように付いて来て、エーリッヒがパソコンに向かった直後から、彼の首に腕をまわしてぺったりとくっついている。
シュミットが何を考えているのか、それを知ることはたいていエーリッヒには簡単だったが、時々掴めない事があった。そう、今日のように。
エーリッヒはシュミットの存在を無視する事に決めたのか、黙って作業に戻った。シュミットは暫くは大人しく、器用に動くエーリッヒの指に見惚れていた。が、困った事に、シュミットの悪戯心は唐突に彼を行動に駆り立てることが多々あった。
「っぁっ!」
突然うなじに歯を立てられて、反射的にエーリッヒはシュミットを振り払う。
数歩退がって、シュミットはにやりと口辺を歪めた。
「可愛い声が出たな」
「なにをするんですか貴方はッ…!!」
襟足を押さえ、声を抑えて怒鳴りつけるエーリッヒに、シュミットは悪びれることなく肩を竦める。
「何って。美味しそうな色をしていたからつい」
「なにが「つい」ですか! 美味しいわけないでしょう!! 馬鹿ですか貴方はッ!!」
「本当酷いな。いつも美味しく頂いている人間の身にもなってくれないか」
「なっ…!!」
あまりのシュミットの言葉に、エーリッヒは言葉をなくして口をぱくぱくと開閉した。それを面白そうに観察していたシュミットは、ようやく我を取り戻したらしいエーリッヒが険悪な表情で睨んでいる事に気付いた。その視線が何を求めているかなど、馬鹿でも判る。
「はいはい。部屋に戻るよ」
ひらりと手を振ってドアに向かったシュミットに、エーリッヒは短くおやすみなさい、と言った。
だがシュミットはドアの手前で足を止める。
「エーリッヒ」
「……何ですか?」
相当怒っているのかシュミットの方を振り向かないエーリッヒに、シュミットは苦笑を浮かべて、もう一度エーリッヒの傍まで戻る。
「抱きしめてくれないか」
「……は?」
眉を寄せて傍らの幼馴染を見上げたエーリッヒはしかし、そこに思ったよりずっと真剣な夕闇色の瞳を見つけてどきりとした。
「一分だけ。一分間だけでいいから…」
その声音と視線に逆らえないことを十分に知っているエーリッヒは、判りました、と言って椅子をシュミットの方に向けた。シュミットの腰に腕を回して、ぎゅっと力を込めると、シュミットもエーリッヒの頭を抱え込むようにして抱きしめる。
一分間、は悪い時間だ、とエーリッヒは思う。
その短時間では相手のぬくもりを感じることも、自分のぬくもりを分け与えることもできない。ようやっと解け始めた二人の空気が触れ合うその瞬間に、繋がりを断ち切られる。それはシュミットの体温をいとおしく思っているエーリッヒにはなおさら辛い。シュミットが離れようとした瞬間、きっと逆にエーリッヒが追いすがってしまう。
ぴくり、と腕の中のシュミットの身体が動く。一分間が経ったのだろうとはっとしてエーリッヒが腕を緩めた瞬間、シュミットはエーリッヒの顎をすくって上向かせ、唇を重ねた。
「…んっ…!」
抵抗をみせようとしたエーリッヒの身体を椅子の背もたれに押し付け、思う様エーリッヒの口腔内を荒らして顔を離す。
ぐったりと椅子に身を預けながら、睨んでくる熱に潤んだ瞳と視線を合わせるように、シュミットは床に片膝をついた。
「誕生日おめでとう、エーリッヒ」
その言葉にエーリッヒが目を見開くのを計算ずくで、シュミットは立ち上がり際に耳元に熱く囁く。
「今年も逃がさないから。…覚悟しろよ?」
そうして呆然としているエーリッヒはそのままに、シュミットは部屋を出て行った。
ばたん、というドアの閉まる音がしてからたっぷり3分後。
「……だから卑怯だというんだ、貴方は……!」
耳まで赤く染まった顔を誰かから隠すように、エーリッヒは両手で顔を覆った。
中途半端に与えられた、優しいぬくもりと乱暴な熱に、身体は正直だ。
シュミットの出て行ったドアを指の隙間からちらりと見て、また目を閉じる。
「…………あー…もー……」
………これじゃ、一人寝が淋しいのは僕の方じゃないか。
10分間の逡巡の後、エーリッヒはまだ三分の二ほどしか打ち込めていないデータに保存をかけてパソコンを切った。
「……理不尽ですよシュミット。僕の誕生日のはずなのに」
口をへの字に曲げて一人ごちる。
誕生日プレゼントだと称して全てを与えてくれればいいのに、それをしないのはエーリッヒに思い知らせるため。エーリッヒだって、シュミットから離れてはいられないのだと。離れられはしないのだと。
……ええ、知っていますとも。もう僕だって、貴方から逃れられやしないことくらい。
部屋の電気を消して廊下に出る。
通いなれた部屋へと運ぶ足取りは、悔しい事に軽かった。
<終>
甘いッスね。新年早々すんません。
今年はバカップル推奨年間で(ごめん嘘でスいつもどおりです)。
この後の展開としては、
「エーリッヒはシュミットの部屋に行ったけれどもシュミットはすでに寝ていて(寝つき良!/相当無理して起きていたようです)、しかたがないからエーリッヒが勝手にベッドに潜り込んで寝たのを翌朝シュミットが発見してもったいないことをしたとめちゃくちゃ悔やむ」方向でお願いしまーす(笑)。
モドル |
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