『日本』
チリン……
ガラスの外枠に細い金属の棒が当たって奏でる音が、蒸し暑いその場の空気を和らげるように耳に届く。
夏場限定でWGP宿舎に出現した「日本の夏部屋」が、トンは気に入っていた。
赤い金魚が泳ぎ回る柄のガラス風鈴、丸い木枠の窓、扇風機、背の低い机、真新しい畳とその匂い。
障子が廊下−−日常−−とを区切るその15畳ほどの空間の中に図書館で借りた本を持ち込み、
ほんの暫く涼やかな音の中で読書に浸る。
学校から帰って練習走行が始まるまでの間、もしくはその後などの自由時間、トンは最近もっぱらここにいた。
他チームのメンバーがいることもあったが、最初の方は物珍しさに来ていた騒がしい連中は今ではおらず、
落ち着いたこの場所で物事に集中したい者だけが、ときたまここに顔を覗かせる程度だった。
今日も、学校の図書館から直行したその部屋にはトン以外のメンバーの姿は見当たらなかった。
壁際の、所定の位置に腰を下ろすと、扇風機の首を自分に向けてスイッチを入れる。
生ぬるい風をかき回す機械音の中で、借りてきた本を脇に数冊積み重ねて一冊目のページを捲った。
今日、練習場はカリビアンズとオーディンズ、アストロレンジャーズが使うことになっているので、光蠍の練習はない。
夕食までの間、ゆっくりとここでほんの世界に没頭していられるというものだ。
2、30分も活字を追いかけた後だろうか、静かだった部屋で突然シャッターの音がして、トンは顔を上げた。
澄んだ水色の瞳が、トンを映して笑っている。
「いい構図だったから撮らせてもらった。すまない、勝手に…」
「いいよ」
生真面目な性格のロシアチームのリーダーが頭を下げようとするのを制し、トンは首を振った。
カメラを持っているこの少年の趣味が写真であることは、WGPパンフレットで知っている。
特に不快な思いも無かったので、トンはユーリの行為にとやかく言うつもりはなかった。
「この部屋は少し、不思議な感じがするな」
言いながら、ユーリは入り口のところで靴を脱いだ。
室内で靴を脱ぐ、という習慣から、まず彼らには無い。
「そうだよね。でも、僕は好きだよ」
蒸し暑い日本の夏を快適に過ごすために、風通りがよくしてある。白い障子は光だけを良く通し、
熱はあまり室内に入れない。風鈴の音も、少しでも気持ちの良い空間を作るために一役買っていた。
「僕もだ。この国の暑さや湿っぽさには閉口するけど、こういう文化は、好きだな」
言いながら、ユーリは本を挟んでトンの隣に腰を下ろした。
扇風機が送り出す風が、短い銀の髪をそよがせる。
重なった本の一冊を取り上げて、ユーリは表紙に視線を落とした。
「漢字はまだ、どうも苦手だな…」
呟きにくすりと笑って、トンは同じ作品の別の一冊を取り上げた。
「ヨシカワ エイジ」
作者の名前を、文字をなぞりながら読みあげる。
「ミヤモト ムサシ」
タイトルを言うと、ユーリはああ、と声を出した。
「ムサシというと、あれかな。こう…」
ユーリはは立ち上がると、二本の刀を持つ仕草をして、ゆっくりと腰を落として斜に構える。
いつか、テレビで少しだけ見たことのある日本の”サムライ”の姿。
「そうそう。それで、こう…」
トンも立ち上がると、背中に負った剣を抜く仕草をした。真っすぐ正眼に構える。
ぴんと、空気が張り詰めた。
1分、そのまま睨み合い、そして…。
「「…ぷっ」」
二人同時に吹き出した。
「あはははははは」
「はは、ははははは」
「こういう緊張感は、レースの時だけで十分だな」
「同感」
その場にもう一度腰を下ろして、二人は笑み合った。
自分たちは今、この国に「昔あった」文化に触れている。今は減少してきているそれらは、
自分達も祖国から失おうとしているものともしかしたら似ていて。
「日本に来れて、良かったな」
トンの呟きに、ユーリもああ、と同意する。
騒がしいし湿気が多いし地震も多いし……たくさん嫌な面も見たけれど。
それと同じだけ、好きになる面もある。
「…でもやはり、一番は祖国だけどな」
そして、自分の国の良さを、改めて思い知らされるのだ。
ロシアにいる家族を思い出し、口元を緩めたユーリに、トンも頷いた。
「そう、僕も中国が一番だよ。だから、その大好きな国にWGPの優勝をもって帰らなくちゃ」
トンの言葉に、ユーリはふ、と息を漏らした。
「そうはいかない。優勝するのは僕のチームだ」
お互いに一つの国の名誉を背負ったリーダーは瞳を見交わし、好敵手の表情で笑った。
今度はレースで。
真剣、勝負。
〈了〉
バナナ売りの女がいつか見た夢(バイト中に寝るな)。
トンが書きたかったんですよ。…書きたかったんですよ。
ちなみにうちには風鈴ありません。ほしいんですけど。
「家族」が一発変換で「華族」になるよこのパソコン…。
モドル