香ばしい香りが、エーリッヒの鼻腔をくすぐった。
オーブンで焼き上がりを待っているクッキーたちが、
それによってエーリッヒの目を覚まさせる。

「…いけない、眠ってた…」

ひとりごちて、ゆっくりと体を起こす。
軽く伸びをして首を回すと、怠い気持ちがいくらか楽になった。
…なんだか、幸せな夢を見ていた気がする。
暖かでゆるやかな、台所の空気の見せた幻だろうか。
夢の内容を思い出そうとしていると、
ぱたぱたと廊下を駆ける音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん、クッキーできた?!」

ぽん、と台所に飛び込んできたのはエーリッヒの妹だった。

「まだだよ。でも、もうそろそろかな」

手を延ばしてオーブンを開ける。
漂っていた甘い香りが、ますます強く広がった。
綺麗な焼き色のついたクッキーをひとつ、
摘み出し、少し冷ましてから妹の手のひらの上に乗せた。
妹はそのクッキーを半分に割り、
片方をエーリッヒに差し出した。

「手伝ってもらった人にも最初に味わってもらわないと、
フェアじゃないから」

エーリッヒの口から遠慮の言葉が紡がれるのを見越して、
彼女は先手を打つ。
そこまで言われて食べないわけにもいかないので、
エーリッヒはその焼き菓子を口に運んだ。


ヴァイナハテンレース


毎年、クリスマスは家族と過ごすのが
エーリッヒの習慣だった。
もっとも、殆どのドイツ人のクリスマスはそうなのだが。
教会へミサに行って、そのあと母親の家事や、
妹のクッキー作りを手伝う。
2年前、アイゼンヴォルフに入ってからも、
その習慣は変わっていない。
毎年、当然にこの時期は冬休み。
帰郷するのが当たり前だ。
この聖誕祭は、キリスト教国にとっては神聖なもの。
その信徒たちは、厳かに過ごす。

…なのだけれど。

エーリッヒは、しんしんと雪の降る窓の外を見つめた。
暗く重い鉛色の雲が、遠く続いている。

…走りたいなぁ。

家へ帰ってから一週間と二日。
メンテナンスを欠かした日はない。
だが、忙しいこの時期、
外へ出ることはあってもレースをする機会に
ぶつかることは殆どない。
宿舎にいる時には毎日のように誰かと走っているので、
その分余計に、マシンと走れないことが辛かった。

…シュミットは今頃、どうしているんだろう。

タイムの計測や練習走行等で、
一番エーリッヒと対等なのはシュミットだった。
もともと仲の良い二人は自然、
よくマシンを並べることになる。
シュミットと走ることに、飽きることはなかった。
勝ったと思えば次のレースでは負けていて、
追い付けないと思ったら次の勝負では追い抜かしていた。

シュミットとレースがしたいな…。

女兄弟しか持たないエーリッヒにとって、
最も熱中している趣味を共有できる、
最も近しい人物はシュミットだった。
電話でもしてみようか、と思っていると、
ふと、階下で母親の呼ぶ声がした。
階段を下りると、電話だという。
一種の確信を以て、エーリッヒは電話口に出た。

「もしもし」
『エーリッヒ。私だ』

…やっぱり。

「そうじゃないかと思いました。お元気ですか?」
『ああ、まぁな。お前は?』
「僕…は、」

少しだけ間を置いて、エーリッヒは悪戯っぽく笑った。

「レースがしたくて死にそうです」

途端、電話の向こうで笑い声が起こった。

『そうだな、私も同じだ。退屈に殺されそうなんだ』

周りの連中は忙しそうで、誰も自分に構ってくれない、
とシュミットは愚痴を零した。

『この時期は皆忙しい、…まぁ、
私の両親はいつでも忙しそうだが。
私の相手などしていられないのは分かっているけどな…』

不貞腐れた調子の見え隠れする口調に、
エーリッヒはくすくすと笑い声を洩らした。

「淋しいんですか?」
『馬鹿言うな』

返ってきた返事は彼らしいもので、
エーリッヒはついつい笑ってしまった。
それに気を悪くしたのか、
シュミットからの言葉が途切れる。

「…シュミット?」

案外子供の親友に、呼び掛ける。

「シュミット、怒ったんですか? ごめんなさい」

素直に謝罪の言葉を口にして、
エーリッヒはそれにしても、と思った。

「…貴方とレースがしたいなぁ…」
「同感だ」
「ぅわっ?!」

突然背後から聞こえた声に、驚いて振り返る。
にやりと、悪戯が成功した後のしたり顔で
立っていたのは、紛れもなくエーリッヒが
つい今まで電話で話していた相手だった。

「…っ、シュミット!どうやって…?!」

受話器とシュミットを交互に見やるエーリッヒに、
シュミットは家の入り口の方を指した。

「ここのすぐ近くの電話ボックスから電話してたんだ。
…ああ、受話器戻して来なくちゃな」
「じゃあ、どうやって家の中に?」
「お前の母親が開けてくれたぞ?
エーリッヒ君の友達です、と言ったらな」

普段の高慢な影を潜め、
改まった口調を作る。
そうすると、育ちの良さが相まって、
シュミットは優等生にしか見えなかった。
神様の誕生日に他人の家に押しかけたとしても、
きっと誰も疑わない。
事実、そうやって母親は騙された。

「…貴方の家は、フランクフルトでしょう?!」
「言っただろう、誰も私の相手をしてくれようとしない。
退屈だったから、抜けてきた。
心配するな、書き置きを残してきたから」
「…そういう問題じゃないです…」

…何を言っても無駄だろう。
だって彼の原動力は。

ぐったりとしながら電話の受話器を戻し、
エーリッヒはシュミットの腕を掴んだ。
目をぱちくりさせているシュミットを
玄関までひっぱっていくと、
受話器を戻しにいってください、と言った。
律儀なエーリッヒのことだから、
そうしないと気掛かりでたまらないのだろう。
しかたない、と思いながら、
シュミットは一度エーリッヒの家を出た。
電話ボックスまで歩き、
電話の上部に掛けっぱなしになっていた
受話器をフックに戻す。
もう一度、改めてエーリッヒの家に
向かおうとして…その方向からエーリッヒが
駆けてくるのが見えた。

「シュミット、行きましょう!」

電話ボックスから出てきたシュミットを捕まえて、
エーリッヒは息を弾ませながら言った。

「行く…って、どこへ?」
「この近くにコースがあるんです。
…レースしに来たんでしょう?」

レーサーズボックスを掲げて言う。

彼の原動力も、自分と全く同じなのだから。

…ああ、なるほど。

シュミットと同じように、エーリッヒも
こっそり逃げてきたのだ。
家族から。
二人でレースをするために。

「負けないぞ」

自宅から下げてきた自分のボックスを見せて、
シュミットは勝ち気に笑った。

「こっちの台詞です」

二人で顔を合わせて、笑った。

「コースはこの先の模型店にあります」
「なら、そこまで競争だな。
レディー…ゴー!!」

言葉と同時にマシンのスイッチを入れ、
雪の積もった歩道に置いた。
勢いのいい音を立てて、
マシンが走り出した。
通行人が不謹慎な二人を見咎めるが、
そんなことは気にしない。
今日は神様が降りた聖なる夜。
神様が子供になった聖なる夜。
咎められるはずがない。

「あっズルっ…! 待ってください!!」
「競争だぞ? 待つはずないだろ」


悔しかったら追いついてみろよ。
エーリッヒを振り返ってそう言葉を残し、
シュミットは笑いながら先を駆けて行く。

「言いましたね。
すぐに追いついて差し上げますよ!」

マシンのスイッチを入れる。
心の中のレッドシグナルが…青く輝く。
レディー……ゴー!!!
レインタイヤが雪の上をグリップする。
最強のライバルを追いかける。

さぁ、聖なるこの日を祝うレースのスタートだ。


 短けェ…っ!! 原稿用紙7枚半だもんね!!
 多分エーリッヒさんはこんなことしないでしょうが
(敬虔なカトリックのイメージがあるので)、
 まだまだ子供なツガイが書きたかっただけですv(逃ッ!)

 ………つーか本当は兄弟が書きたかっ…(時間切れ/死)

モドル