昔に比べて、僕らは小さな所で少し変わったのかもしれない。
「サイ」
コンコンコンコン。
いつもの通り、シュミットは4回のノックで返事を聞かずに部屋に入った。
紫の瞳に映ったエーリッヒは、ベッドから上半身を起こすところだった。寝ころんで本を
読んでいたのだろう。久しぶりのオフだから、髪を綺麗になでつけることもせずに、ばらけた
前髪をかき上げる。ラフなシャツにスラックス。完全にリラックスしているエーリッヒには、
いつもの少し冷たい様子がどこにも感じられなかった。
「エーリッヒ」
シュミットが声をかけると、起きあがってベッドサイドに腰掛けたエーリッヒは、柔らかい
微苦笑を浮かべた。
「…僕以外の人の部屋に入るときは、ちゃんと返事を聞くんですよね、貴方は」
まぁ、かまわないですけど、とエーリッヒは言う。実際、シュミットに見られて都合の悪いものなど、
この部屋には何一つ無いのだから。少し厚着をしているシュミットは、白い指を自分の髪に差し入
れた。表情は穏やか。エーリッヒと二人で居る時の、表情。
半分だけ開けられたカーテンの向こうに見える、町並みは白い結晶によって埋もれていた。クロ
ーゼットに、ハンガーで簡単に引っかけられたエーリッヒのコートには、今日は触れられた形跡も
なかった。
「ところで、何かご用ですか?」
当然のように自分の隣に座った、シュミットにエーリッヒは尋ねる。シュミットは口元に笑みを
浮かべながら、エーリッヒの方は向かずにいた。そうして質問にも、答える気はなかった。
「何、読んでたんだ?」
床に落ちた視線を拾い上げようと、エーリッヒはシュミットの視線を追った。
「メルヴィルの『白鯨』です。面白いですよ」
「ああ、」
何年か前に、読んだことがあるのを思い出す。エイハブという船長が片足を食いちぎられた、白い
鯨を執念の元に探し求める話。シュミットも、そのディテールの細かさが気に入り、また、船員達の
キャラクターにも面白みを感じたのだ。
シュミットがコーヒーを飲み始める、そのきっかけとなった本だった。
「読んだことがあるんですか?」
「あるよ。随分昔だけど」
エーリッヒの差し出した、文庫本を手にとってパラパラとページを捲る。細かい英語の羅列。世界史の
知識が少しあれば、そういえばこの本はもっと楽しかった。
ぱたん、と本を閉じ、シュミットは『THE WHALE』とタイトルの書かれた表紙に目を留める。
「英国版か」
エーリッヒは柔らかい笑顔を浮かべた。
「ええ。どうせなら、原作を読んでみたくて」
エーリッヒの机の上には、品のいい陶器のティーカップが乗っていた。朝食の時間から2時間。部屋に
帰ってすぐに本を読み始めたとすれば、その中の液体は。
シュミットは立ち上がり、カップを取り上げて、中身を一口啜った。
「あ、それ、」
「ぬるつめたい」
感想を率直に言葉にして、シュミットはエーリッヒに肩を竦める。エーリッヒは少し困ったような、
不機嫌なような、顔をしていた。
「そんなの飲まなくても。言ってくれれば、新しいのを淹れるのに」
1時間半ほど前に淹れた、オレンジペコはすでに冷めている。エーリッヒは冷める前に飲みきるつもり
だったが、本の世界に没入していたせいで忘れていた。
「良い。別に、喉が渇いていたわけじゃない」
その言葉で、シュミットの行動の理由を察して、エーリッヒは眉間に皺を寄せる。シュミットは笑って、
それを人差し指でつつく。
「この部屋の温度、今何度だ?」
エーリッヒは、シュミットの手を前髪と一緒に優しく横に払い、暖房のリモコンを手に取る。デジタルの
数字を読みとる。
「18度、ですが」
「低。お前、本当に外気温の変化に強いな」
「貴方だって、寒さには強いでしょう?」
言いながら、抱き寄せられる力に逆らわずにエーリッヒはシュミットにその身を預けた。
シュミットは羽毛を抱くが如くに優しく、エーリッヒを抱き締めた。
沈黙の中で熱が生まれ、熱は少しずつ広がり伝わっていった。
ただ抱き合いながら、何も喋らずに、腹の底を探り合っていた。
シーツの上に置かれた小説は、すでに7割を読み終えられていた。
二重ガラスの窓は、部屋の内と外の温度差によって曇ることはなかった。
「…エーリッヒ」
耳の中に直接そそぎ入れるように、シュミットはエーリッヒに声を届ける。耳にかかる吐息が
くすぐったいと思いながら、エーリッヒは、はい、と返事をする。
「お前、今……」
言い淀んだシュミットの、言葉の先にあるものを、エーリッヒは確かに見た。
エーリッヒはシュミットの首筋に口付ける。
シュミットの体が硬直する。
エーリッヒは、笑う。妖艶に。無邪気に。打算的に。無意識に。
「自信がないんですか?」
シュミットはエーリッヒを抱く腕に力を込める。
ベッドが小さく軋んだ。
「まさか」
相手の心音が、妙に早く聞こえた。
窓の外には雪が降っていた。
カレンダーは前の月のままだった。
エーリッヒはシュミットを抱き返した。
暖かかった。
「私だけだろう? お前をこんなふうに─」
──幸せな気分にできるのは。
シュミットはエーリッヒの体を少し離して、頬にキスをした。
くすり、エーリッヒが笑う。
シュミットはいつでも、暖かい。
「シュミット。あたたかい紅茶を、飲みませんか?」
「お前が淹れたものなら」
エーリッヒが、シュミットから腕を放した。
離れるときに触れるだけのキスをして、シュミットはエーリッヒを解放した。
そうして、二人連れだって、部屋を出ていった。
部屋の空気が揺れても、変わるものは何もなかった。
【了】
風景描写中心で。
雪の日か雨の日の話が書きたかったんです…;;;
モドル