綺麗な絵が描きたいと思った。
俺には出来ないかもしれないけれど。




BLAFARGE HIMMEL




二軍を率いて日本入りしてから、二ヵ月が過ぎた。
無能な監督と実力不足のチームメイト。気候的には未だ問題はなかったものの、
エーリッヒの疲労はかなり色濃いものになっていた。本国への報告書や二軍との
練習による身体的疲労。大人の都合でふりまわされることへの精神的疲労。
そしてなにより、支えてくれる親友がいないことの不安。
弱気になってはいけないと自分を叱責するほどに、エーリッヒは自分を追い詰めていた。
誰もいない廊下に、自分が階段を昇る音が響く。
久々に練習のない休日。それでもやるべきことを山ほど抱え込んでいるエーリッヒは、
独りでいることに耐えられなくなって部屋を後にした。
屋上へと続く階段を踏みしめる。
せめて、空を見れば。
本国(くに)と、彼らと繋がっている空を見られれば、不安は払拭されるような気がした。
鉄製のドアが、エーリッヒの目に映る。
ふと、普段は掛けられているはずの鍵が、外れていることに気がついた。

…僕だけじゃなかったのか…。

ここの鍵を外すのには、ちょっとしたコツがいる。数週間前、初めて無断侵入を果たした時から、
屋上はエーリッヒの“秘密の場所”だった。
自分だけの場所が他人に知られたのは、悔しい。だが同時に、秘密を共有する者が
現われたことに興味を隠し切れず、エーリッヒはドアノブを捻った。
気圧の低い屋上の風が、ドアの隙間から激しく流れ込む。その押し返す力に負けないよう
力を込めてドアを開くと、真っ白い屋上が眩しく煌めいていた。
雲ひとつない空に暖かく輝く太陽は、屋上を白亜に変えていた。
その中に、エーリッヒは黒い後ろ姿を発見した。

…あ……。

「…シュミット…?」
「ん?」

振り向いたのは、紫ではなく、明るい緑の瞳だった。

「ワルデガルドさん…」

馬鹿だ。
こんなところに彼がいるはずないのに。
好んで黒を身に付けていた、親友の髪の色は漆黒ではない。
期待が外れたようにエーリッヒの表情が曇るのを、ワルデガルドは見逃さなかった。
だが、何を期待されていたとしても、今の自分に、それに添えられるだけの力があるとも思えなかった。
ワルデガルドは、視線を正面に戻した。フェンス越しの町並みは、雑然としたままそこにあった。
陽光を受けて煌めくそれは、汚いものを包み隠してなお誇らしげに見えた。
鉛筆を、膝の上のスケッチブックに滑らせる。黒一色のラフ画には、日本の町並みが描きこまれていた。
狭い画面に押し込まれて。
窮屈そうに目に映る町は、紙上でもやはり窮屈そうだった。

…ダメだ。

突然、ワルデガルドはそのページを破り取った。くしゃりと丸めて、ズボンの右ポケットにねじ込む。
長い前髪を片手で乱暴に掻き混ぜ、小さく駄目だ、と呟く。

「…どうしてですか?」

低く、聞き心地の良い声が聞こえた。
エーリッヒは長い指で、ワルデガルドのポケットから半分顔を覗かせている紙を抜き取った。
くしゃくしゃになった紙を、広げる。

「とても上手に、描けているのに…」

ワルデガルドは、新しいページに線を引いた。

「…綺麗なものが」
「え?」
「綺麗なものが、描きたいと思った。だから屋上(ここ)に来たんだ」

近くで見れば汚いものでも、遠くから見れば綺麗に見えるかもしれないから。
祖国に居たときから、ずっと思っていた。綺麗なものが描きたい。だが、何度描いても
下書き段階で嫌になる。嫌いになる。綺麗では無くなる。

「…だけれど、やっぱり俺には無理なのかもしれない」

ワルデガルドは自嘲的な笑みを浮かべた。
動かしかけた鉛筆は、止まっていた。
エーリッヒは、ワルデガルドの隣に腰を下ろした。くしゃくしゃのスケッチと、本物の町並みを見比べる。
鉛筆だけのラフ画は、それでも丁寧に描かれていた。
綺麗に描かれすぎて、何処か哀しげにさえ見える。

「…遠すぎるのかも、しれない」

エーリッヒを横目で見て、ワルデガルドは呟いた。
空を見上げる。
澄んだ色。
何枚描いたかわからない、遠い遠い色。
綺麗なものが描きたいと、思った最初も空だった。二度と同じ表情は見せない、
空を自分の手元に書き残したいと思ったのだった。
だが、未だに空はワルデガルドの筆をかわし続けている。
ちっぽけな人間を、嘲笑うかのように。

「…綺麗すぎる、のかな…」

エーリッヒは呟いた。
自分の方を向いたワルデガルドに、エーリッヒは紙面から目を逸らさずに言った。

「綺麗なものを描きたいという、貴方の主旨から考えれば、こんな意見は可笑しいのかも
しれませんが…、なんだか、わざと汚いものを見ないようにしている気がするんです」

描かれた町並みをなぞる。
輪郭がぼやける。
エーリッヒの指に、黒鉛の粉がつく。

「綺麗なものは…、そうでないものを内包して尚、輝くことができるんです…」

そう。あの人のように。
ふと、エーリッヒはワルデガルドが自分を凝視していることに気がついた。

「あ、…済みません。良く分かりもしないのに、こんな事を言って…」
「いや…、確かに、そうかもしれないから」

綺麗なものに、拘りすぎていたかもしれない。近くで見ることのかなわない、
空への思いさながらに、遠くから眺めることで満足していたかもしれない。
汚いものから目を背けても、本当に綺麗なものなど描けるはずもないのに。

「…ありがとう、教えてくれて」

微笑むと、エーリッヒは視線を逸らした。

「…僕はただ、率直な感想を述べたまでです」
「思った儘を正直に、言ってくれる人は少ないさ」

言って、ワルデガルドは後へと躯を倒した。ほとんど空しか見えなくなった視界の端で、くすんだ銀髪が煌めいた。

「…そういえば、屋上は立入禁止だぞ?」

今気が付いたふうに言うワルデガルドに、エーリッヒは一瞬視線を投げた。

「貴方もいるじゃないですか」

空気を、吸う。

「いや…、アイゼンヴォルフのメンバーには、おカタイイメージがあるからさ。特に君は。いつも、
規則を破るなんて考えられない、って顔してる」

エーリッヒは目を伏せた。
監督命令に縛られ、自分を律し、故意に前方ばかり見るようにしている。自由を束縛しているのは
外的要因ばかりではない。エーリッヒの性格すらも、彼の羽を傷つけるものになっている。
規則を破らないのではなく、破れないのだ。

「僕は、そんなに従順ではありません」

ほとんど感情の起伏を感じさせない、エーリッヒは空を見上げた。
遠い戦友達と繋がっている、青い空を。
ささくれだった自分の感情を、この場所は癒してくれる。

「そうかな。俺には周りに従順になりすぎて、わざと自分を傷つけているように見えるけど」

初めてエーリッヒは、口の端を吊り上げた。歪んだ笑顔は、美人の顔を痛々しく彩っていた。

「…貴方も、思ったままを言ってくれる人ですね」

エーリッヒからの皮肉を、ワルデガルドは笑うことでかわした。

「取り繕うのは失礼だろ? 俺は教えてもらった。俺も教えようかな、ってね」

寝転んだままのワルデガルドに、エーリッヒは目を細めた。

「…貴方達が羨ましいですよ」

もしも、アイゼンヴォルフ二軍の監督がバタネンの様な人だったら。
お茶目でチームメンバーに呆れられたりするけれども、全体的に見て、バタネンはチーム全体や
メンバーの長所を活かす監督だった。
監督(おとな)なしで走るのが理想だとは思う。だがせめて。
バタネンやデニスを見る度、エーリッヒは心中でひどく羨んだ。

「…一軍は、いつ来るんだ?」

ヨーロッパの大会で、アイゼンヴォルフとオーディンズは幾度か顔を合わせている。ワルデガルドも、
開会式で、ドイツに見知った顔がエーリッヒのみだったことに驚きと、悔しさを感じた一人だった。
確かに、今の北欧チームにはたいした実力はない。だが、全力で立ち向かうからには全力で相手を
してほしい。見縊られるのは…嫌だ。
最も、オーディンズは今のアイゼンヴォルフとの勝負に、一度負けている身ではあったが。

「ヨーロッパグランプリが終わったら、すぐにでも合流しますよ。…彼らにとっても、僕らの成績は不本意でしょうから」

エーリッヒはまた、唇を歪めた。
…この男は、こんな卑屈な笑い方をしただろうか?
幾ら思い出してみても、ワルデガルドの脳内に焼き付いているのは、夕闇の隣で自信ありげに微笑む青空だけだった。
手を伸ばしても届かない、綺麗な綺麗な空色が、ドイツにはあったのだ。

「一軍が到着したら、…君は?」

帰るのか、それとも走り続けるのか。
エーリッヒは首を左右に振った。

「分かりません。帰されるかも、しれません。こんな結果では…」

送り出してくれた仲間が望んだのは、こんな結果ではない。4戦を消化して2勝2敗、総合6位などと、
アイゼンヴォルフには冗談にもならぬ数字だ。

「でもそれは、エーリッヒのせいじゃないだろ」

言うと、エーリッヒは膝を抱えて蹲った。レーサーの間では長身の部類に入るエーリッヒが、驚くほど小さく見えた。

「…僕の親友が」

くぐもった声が漏れた。

「必死で守ったのに。あの人が、高いプライドを傷つけてまで守ったアイゼンヴォルフの歴史に、
僕が泥を塗ってしまう…!」

悔しそうに漏れる声は、ワルデガルドに向けられているものではなかった。
エーリッヒは、独り言を言っているのだ。いつもは胸中深くに仕舞い込んで、一人で悩み、
泣いていることを、ただ今は声に出しているだけで…。
ワルデガルドは黙って聞いていた。黙って聞く他に、所詮他人のワルデガルドに出来ることなどなかった。
エーリッヒは、独りの重圧に黙って耐えていた。だが、それが破綻しかけているのは誰の目にも明らかだった。
破綻させようとさらに揺さぶりを掛けてくる連中の言葉を、はねつける事ができなくなっているほどに、
エーリッヒは消耗している。
本来ならば、誰かが支えてやらねばならないのだ。
空は、いつまでも晴れてはいられない。
ワルデガルドはゆっくりと身を起こし、背中を丸めているエーリッヒと、背を合わせるように座った。
もたれかかると、レースでは強そうに見えていた背中が、存外細いのだと気付く。
ひくりと、エーリッヒの躯が揺れた。

「…なんのつもりです」

精一杯虚勢を張ったような声だった。
ワルデガルドは、別に、と呟いた。
エーリッヒが待っている、彼らにはどうやったってなれない。だが、一瞬の温もりを共有して、もたれかからせて
やることくらいは出来るのではないだろうか。
エーリッヒは、動かなかった。
親友の背中を思い出した。数年前は当たり前のように、こうやって背中合わせでセッティングしていたのだ。
思えばあの頃は、まだアイゼンヴォルフでもなくて。
なんの束縛も重圧も無くて。
淡青のマシンで走っていたのだ。

「…離れて、下さい」
「君が動けばいいだろ?」

ワルデガルドは予想していた。彼が、近付いた温もりを自分から離すことなどできないと。
傍に、無造作に転がっていたスケッチブックに手を伸ばす。
何枚も何枚も、書き連ねた空。
水彩で色を塗ってある絵には、どれにも真っ青な空が描きこまれていた。

「…残酷なんですね」

 エーリッヒは笑った。
 悲しそうに。
 同情や哀れみで、こんな風に温もりを教えるなんて。一人で冷たい風に耐えているエーリッヒにとって、
この小さなぬくもりがどれほどいとおしいか。どれほど心地よいか。

「俺は、優しいつもりだけど」

 スケッチブックを閉じる。
 本物を見上げる。
 手を伸ばせば届きそうなくらいに近い…空。

「…ずっと貴方の傍にいることができたら…、幸せかもしれませんね」

 エーリッヒの言葉に、ワルデガルドはびくりと反応した。
 エーリッヒも空を見上げた。

「貴方は優しい、違うチームの僕に寄りかからせてくれるほどに。でも…、所詮違うチームの人間に、
貴方の優しさは痛すぎる」

 言いながら、エーリッヒは背中に体重をかけて目を閉じた。

「貴方は、今の僕には痛すぎるんです…」

 風が吹いた。

「…エーリッヒ、俺の絵のモデルになってくれないか?」
「…は?」

 突然の言葉に、エーリッヒは目を開いた。
 一瞬の沈黙。
 その次の瞬間、エーリッヒは苦笑を浮かべていた。

「僕なんかより、ずっとモデルにふさわしい人はたくさんいるでしょう?」
「俺はエーリッヒが描きたいんだ」

 きっぱりと、ワルデガルドは言い切った。
 綺麗なものが描きたい。その欲望は今もってこの身体に耐え難い衝動となって突き抜ける。
 ワルデガルドの憧れた、ドイツの空にも今なら手が届く気がした。

「…わざわざ僕など、描く価値もないですよ」

 エーリッヒは自分を叱咤して立ち上がった。
 ワルデガルドのほうは向かずに、屋上の柵へと手を掛ける。
 遠い町並みを眺め、銀狼はまた、微かに唇を歪めた。

「貴方は綺麗なものが描きたいのでしょう? なら、僕など描かないほうがいい」

 自分は汚い。レースでの負けの要因を、どれだけ他人のせいにしてきた? どれだけ、周りの
せいにしてきた? 弱いのは、遅いのは、…勝てないのは、自分なのに。あの人に追いつけない、
自分なのに。
 せめて祖国からやってくる仲間たちを、胸を張って迎えたいのに。

「俺は君を、綺麗だと思うよ。他のどんなものより。どんな人より」

 エーリッヒはワルデガルドを振り返った。レースのときには鋭く、冷たい印象を与える青い瞳が、
苦笑していた。

「そういう台詞は、女性に向けて言った方が良いですよ」

 手すりから手を離し、エーリッヒは地上へと戻る階段のほうへ足を向けた。

「帰るのか?」
「ええ。やることは沢山ありますから」

 ふぅ、と息を吐いて、ワルデガルドはエーリッヒの姿を視線で追った。背筋をきちんと伸ばして、
真っ直ぐ前を見て、彼は確実に歩んでいくのだと思った。
 ふと、その足取りが止まった。
 くるりとワルデガルドのほうを振り向く。

「今週末のレース、頑張ってください」

 ワルデガルドは、皮肉の篭らない応援をするドイツチームのリーダーに、ああ、と言った。

「でもいいのか? ライバルチームにそんなことを言って」
「平気ですよ。僕らが負けなければ良いだけなんですから。…僕らにはもう、負ける気などありませんから」

 ワルデガルドに向かって笑った顔は、ヨーロッパレースでは常勝の、鉄の狼のそれだった。

「そうだな、お互いに頑張ろう。…ファイナルレースまで」
「ええ」

 エーリッヒは、でも優勝は僕たちのものですけれど、と言い添えて、屋上を後にした。
 一陣の強い風がワルデガルドの長い前髪を揺らし、スケッチブックをはためかせた。
 空はどこまでも、どこまでも、澄んだ青色をしていた。




 綺麗なものが描きたいと思った。
 俺には手に入れることはできないけれど。


〈了〉


 あーあ、やっちゃったー…。ワル→エリ。
 「綺麗なものが〜」の台詞は妹が作りました。
 うん、この話は全体的に妹との会話から生まれてます。
 エーリッヒの”秘密の場所”は意外とWGPレーサー全員が知ってるんですよ(笑)
 ワルデガルドの趣味、「スケッチ」は日本語でクロッキーに当たるのだか、
そのままスケッチでよいのだかが微妙なところ。


blafarge himmelの、最初のaの上にちっちゃい丸が必要です。ノルウェー語なので。
英語に直すと「blue sky」なんですが。ドイツ語だと「blau Himmel」です。
ノルウェー語とドイツ語は似ているのよ…!!(ワルエリプチポイント・笑)




モドル