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ABSOLUTE MUSIK ポーン… ピアノの鍵盤をひとつ叩く。 誰もいない大ホールに「ラ」の音が響いた。 アドルフはもう一度、白い鍵盤を弾いた。 アイゼンヴォルフの練習走行後、ユニフォームのままで、 アドルフはこのホールに直行した。 シュミットの決定に納得がいかない。 突然現れ、リーダーだと名乗った金髪の少年。 今のbR、ザックスに似ている少年。 シュミットは彼を自分より速いと言っていたが、解るものか。目の前でレースをしてくれなければ。 自分とレースをしてくれなければ、リーダーなどと口だけで言われて納得できるものか。 アイゼンヴォルフは実力主義だ。だから、自分より2、3歳年下らしいあの少年が リーダーになったとしても文句を言うつもりはない。 …速いのなら。 しかし、その速さが証明されていない状態では彼の下でなど走れない。 それに、あの少年…確か、ミハエルとか言った…が入ることで、一軍内のメンバー交代があるだろう。 今のままの状態なら2軍落ちするのはヘスラー。だが、ほとんど実力に差のないアドルフにも、 その危険はあった。 アドルフは一旦深呼吸して、手袋を外した。 ピアノの上にそれを引っ掛けておいて、椅子を引き、背筋を伸ばし、鍵盤の上に左右の5指を置く。 心中の不満や不安を忘れたくて、アドルフはそらで弾ける曲の中でもテンポが速く難しいものを選んで 指を動かした。 演奏に集中すれば、周りのものなど見えなくなる。自分の指と、それが生み出すメロディーとを 追いかけることに意識が費やされてしまい、それによって気分も落ち着く。 激しく叩きつけるような曲調は、ゆったりした静かなものよりも今の心境に合っていて、 アドルフは暫く自分とピアノだけの世界に没入して大ホールの空気を占有していた。 その楽章を弾き終えたところで、突然拍手がホールにこだました。 はっとして顔を上げると、入り口のところに小柄な少年が立っていた。 にっこり笑って、拍手をしながらホールを横切ってピアノのところへ歩いてくる少年は 黒い影を細長く伸ばす夕日の光を背負って、長い金の髪を煌かせていた。 アドルフは色素の薄い黄色の目を細めて、白磁の肌の少年を見つめた。 「上手だね」 「…どうも」 ふいと視線をそむけたアドルフにも気を悪くした様子はなく、 ミハエルはゆっくりとピアノに凭れ掛かった。 「僕、音って好きなんだ。綺麗だよね」 薄赤い光の中で、金の髪はその色に染まっていた。 アドルフが何も言わないでいると、ミハエルはアドルフを振り返って親しげに笑いかけた。 「ね、もっと弾いてよ。僕、もっと聞いていたい」 アドルフは何も言わずに鍵盤に指を滑らせた。さっきのものとは作曲者も違うが、 やはり速いテンポの曲。 多少の皮肉を込めたその曲に、ミハエルは気づいた。 ショパンのエチュード『革命』…。 「…ねぇ、レースしようか」 その曲をアドルフが弾き終わると、ミハエルが言った。 アドルフは驚いた表情でミハエルを見る。 「だって、君不満そうだったじゃない。僕がリーダーになることに」 「…俺は、別に…」 アドルフは言葉を濁したが、確かにアドルフはそうだった。 実力もわからない新参者をいきなりリーダーとして認められるほど、アドルフは大人ではなかった。 シュミットを信頼していないわけではない。だが、それとこれとは話が別なのだ。 「なら、君は僕がリーダーとして命令を下したときに、不満なくそれに従ってくれるんだね?」 ぴくりとアドルフの眉が動いた。 ミハエルは、子供らしくない表情で笑っていた。 冷静な観察者の顔。感情をどこかに仕舞い込んだ、冷たい、表情。 「ねぇ、レースしよう」 ミハエルはもう一度言った。 「シュミットは駄目だって言ってたけど、彼の目に付かないコースくらい知ってるよね?」 アドルフは、ピアノの前から立ち上がった。 手袋を掴んで、こっちだ、とミハエルを先導する。 ホールの隅に置いておいたレーサーズボックスを取り上げ、寄宿舎から出て、 近くの模型屋へ向かう。 そこにあるのはそんなに大きくはないがテクニカルなコースで、 この近くの子供たちはよく利用している。アイゼンヴォルフのメンバーには ここまで来るメリットがあまりないので、見つからないはずだ。 ミハエルはコース全体を眺め回して、「うん、いいコースだ」と言った。 ミハエルが持ってきたレーサーズボックスから取り出されたのは市販のミニ四駆で、 黒いボディに金の縁取りというカラーリングだった。 じっとそれを見つめているアドルフの視線に気が付いて、ミハエルはすこし、そのマシンを 持ち上げて見せた。 「ゴルトカイザー。僕のマシンだ」 黄金の、皇帝。 慣れた手つきでセッティングを決定していく。迷わない指先は、一度も走ったことのないはずの このコースを知り尽くしているようだった。 一瞬間そのミハエルの行動に見とれていたアドルフも、すぐにセッティングに入った。 ストレートが多く作られているホームコースにあわせたままの今のマシンでは、このコースは 狭すぎる。第一コーナーで吹っ飛ぶのがオチだ。 「よし、僕の方はもういいよ」 すぐにミハエルはそう言って、マシンを持ってコースの方へと移動した。 練習走行もせずにもういいって、どういうことだ…? アドルフは怪訝な表情でミハエルを見た。 「どうしたの? そっちももういいならレースを始めようよ」 「テスト走行をしなくてもいいのか?」 「必要ないよ」 ミハエルはくすりと笑った。 馬鹿にされているのか、冗談じゃない。 アドルフも、セッティングを終えたマシンを持ってミハエルの隣に並んだ。 「レディー………ゴー!!」 アドルフの声で、マシンを離す。 先にトップを取ったのは、当然ながらアドルフだった。 第一コーナーを曲がって短い直線。すぐにヘアピンに入る。 調子よく走っているアドルフのベルクマッセから、ゴルトカイザーは少し遅れていた。 アドルフはよし、と思う。 舐めすぎだ。俺のことも、このコースのことも…。 ちらりとミハエルの顔を見る。 そうして、アドルフはぎくりとした。 ミハエルは、笑っていた。余裕の表情で。 そろそろかい、ゴルトカイザー? なら、…行け。 反抗を許さない主人の命令に従って、マシンがスピードを上げる。 モーターとタイヤが十分に温まった。本領はこれから。 ベルクマッセにぐんぐん追いついていく黒いマシンを見ながら、アドルフの頭の中に あの旋律が流れていく。 大ホールで最初に弾いていたあの曲の、追いかけるような旋律。 焦り。 あの作品はヴェートーヴェンが友人の死を悼んで作ったといわれているけれど、 本当は――― 自分にもいつか迫り来る死を、あの大作曲家は恐れていたんじゃなかろうか。 刻々と迫ってくる約束の日への、焦りがあの曲を生んだのではなかろうか。 ゴルトカイザーがベルクマッセを、抜いた。 そのままの順位でマシンはゴールラインを割った。 「僕の勝ちだね?」 にこりと笑ったミハエルに、アドルフはええ、と言った。 完敗だ。これでは認めるなという方が無理だろう。 精神的なショックがないわけじゃない。ないけれど…。 「シュミットが貴方をリーダーに選んだわけが解りましたよ」 よろしくお願いします、リーダー。 差し伸べられた手を取って、ミハエルはよろしく、と笑った。 アイゼンヴォルフの新リーダー・ミハエル。 彼が無敗の帝王としてドイツ全土に名を知られるようになるのは、 時間の問題だろうと思った。 〈了〉 |
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ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」第三楽章。
私がこの曲を聴いたときに、こんなふうに思っただけです。
小説で曲を表現するのって難しい…。自分の語彙力の
乏しさにやきもきしてしまいました。
『VERANLASSUNG』の小タイトルで直すと、
1996年7月7日17:15といったところでしょうか。
あ、タイトルは英語では『絶対音楽』です。
モドル