負けることのありえない勝負、
そんなものだって存在する。
勝率、119.9%
「んー……?」
ベッドの中で置きぬけのくぐもった声を上げる。
薄いカーテンを通して室内へと降り注ぐ陽光が、
いつも起床する時間よりもかなり遅い時刻を教えていた。
ゆっくりとシーツの中で腕を動かして、そこにひとつの違和感を漠然と感じる。
それは、そこにあるはずのぬくもりがない、という類の。
頭で理解するよりも早く、唇が呼びなれた親友の名をなぞる。
「エーリッヒ…?」
昨日の晩、確かに己の腕中に眠った身体がそこに存在しない。
眩しさに未だ慣れない目をそぅっと開いて白い寝具を視認する。
人ひとりがそこにいた証のように、枕が人の頭の形に窪んでいた。
時間をかけて瞬きを繰り返しながら、シュミットは枕の溝を指でなぞった。
それから緩慢に身を起こし、大きく体を伸ばす。
一体何処へ行ったのだろう?
ベッドから降りて着換え、髪に櫛を入れながら、シュミットは考える。
体を重ねた次の日の朝に、あのとても穏やかで耳障りの良い声で、
「おはようございます」と一番に聞くことが小さな楽しみなのに。
自室から出てアイゼンヴォルフのチームリビングへ行くと、
ミハエルとヘスラーが向かい合ってソファに座っていた。
彼らの間に挟まれているガラスのテーブルの上には、
明らかに白が優勢な状態のチェス・ボードが置かれている。
「エーリッヒを知りませんか?」
すでに決着も時間の問題な勝負を前に、
次の手を悩んでいるヘスラーからミハエルは視線を上げた。
「君は朝一番の挨拶がそれ?」
不満げな視線を受けて、シュミットは苦笑いを返した。
「…そうですね。おはようございます」
「うん、おはよう」
嫌味のようにちらと時計に視線を滑らせてから、
ミハエルはにこりと笑った。
それで、とシュミットがふたたび同じ疑問を口に乗せる前に、
ミハエルはチェス・ボードを指した。
「一勝負しない?」
「ヘスラーやアドルフでは駄目なのですか?」
エーリッヒを探しに行きたいシュミットの答えに、
ミハエルは首を横に振る。
「だって、アドルフもヘスラーも弱くて相手にならないんだもん!」
彼らもけして暇な身ではないだろうにミハエルの遊びの相手をさせられて、
その結果がこの言い草では浮かばれない。
言葉のナイフを胸に突き刺されたヘスラーをすこしだけ哀れみながら、
シュミットは溜め息をついた。
どうやって断ろうか、言い訳を考えている顔になる。
「僕に勝てたら、教えてあげるけど? エーリッヒの居場所」
シュミットの表情に変化が走る。
視線を戻し、挑戦的な笑みを浮かべるリーダーの顔を見つめる。
「…いいでしょう。お相手しましょう」
目線でヘスラーを退かせ、シュミットはミハエルの正面に座った。
駒を初期位置に配置し終わった段階で、ミハエルがいくよ。
笑顔と共に言った。
余裕だな、と思いながら、シュミットはミハエルが
ポーンに指をかけるのを見ていた。
カツン、と木製の駒が盤上を進む音が響く。
お互いにほぼ等価の駒を取り合いながら、勝負は終盤に突入した。
「…ねえ、シュミット」
ふと、それまで駒だけに神経を集中していたミハエルが声をかけた。
「…何です?」
「もしも、一日だけ、エーリッヒが君から離れていたいと望んだら、どうする?」
突然何を言い出すのか、と胸中に思いながら、シュミットはミハエルの
ポーンを警戒している。
クイーンに守護されながら進んでくるその駒にプロモーションされると、
シュミットには苦しい戦況になる。
「そうですね。私にはそんなことは考えられないけれど、
エーリッヒならそんな風に、望むことがあるかもしれない」
彼は近づきすぎることを恐れる。
何度体を繋いで離れられないのだと是認させようとしても、
エーリッヒは視線をそらして逃げようとする。
離れようと、する。
「…離してやりますよ。私なら」
「そうなんだ」
意外、というようにミハエルは目を丸くした。
ボードから顔を上げてミハエルのその表情を視界に入れ、
シュミットは唇の端をすこしだけ持ち上げた。
キングを前衛に出してくるシュミットの手は、ひどく危なっかしいけれども
冷静で理知的だった。
「あいつは私のものではありませんから」
「そうなの?」
「ええ」
一マス、前進したポーンがシュミットの陣地に近づく。
シュミットは黒のクイーンを取り上げた。
「私はあいつを一人の人間として尊重したい。
だから、あいつが心からそれを望むなら。
……、ああ、いや、でも…」
突然、シュミットはくすくすと笑い出した。
ミハエルが眉間に皺を寄せると、
すみません、と正面から謝られる。
「…嘘ですね。離れられるはずがない。
どうしても離れるというなら、私はエーリッヒの後をついていくのでしょうね」
だからこそ今、こうやってミハエルと真剣に勝負をしている。
黒のクイーンでポーンを殺した瞬間、
白のクイーンが黒の息の根を止めにかかってくる。
「君らしくもない科白だね。
…チェックだよ、シュミット」
序盤にしたキャスリングを生かしてc6まで進めていたキングをまた、
ひとつ前に動かして、シュミットは赤い糸には、と言った。
「私たちの赤い糸はおそらく、長さが決まっています。
そうしてとても丈夫なその糸が、強く近く、お互いを縛り付けすぎて、
その手綱の緩め方すらもう判らない。
だから、私たちは離れられない。
少なくとも今は、その糸の長さがひどく短いから」
キザったらしい惚気とも取れるその言葉に、
ミハエルは頭を緩やかに左右に振った。
理解できないね、と聞こえてきそうだ。
シュミットは口元の笑みをそのままに、
目線を伏せた。
ミハエルが動かしたクイーンを最後まで手元に残しておいたビショップで捌く。
「ああ、ミハエル。
チェックだ」
「あっ!?」
いつの間にか、手駒3個のミハエルが2個まで減ってしまっていた
シュミットに追い詰められていた。
「ありえない、この僕が負けるなんて!」
逃げ場がないと見て取り、ミハエルが声を上げる。
「ありえないことではありませんよ、ミハエル。
私にエーリッヒのことで勝負を仕掛けた瞬間、
貴方の負けは確定していたんですからね」
自信たっぷりの笑みを悔しそうに睨みつける緑色の瞳に、
シュミットはチェックメイト、と言い放った。
繁華街の中ほどにある小さなケーキショップのドアを開ける。
店内に染み付いた甘い香りが、シュミットの鼻孔を刺激した。
小さな店内を見渡すこともなく、シュミットは一目で、
見慣れた後姿を見つけた。
つかつかとその席に歩み寄り、向かいの椅子に腰を下ろす。
シュミットの姿に驚くこともなく、逆ににこりと笑いかけた幼馴染を睨む。
「私に黙って外出なんて、随分と冷たいじゃないか?」
周りには判らぬよう日本語で言うと、エーリッヒもその言語を選んで応える。
「貴方があまりに気持ちよさそうに眠っていたので、
起こすのは可哀想だと思ったんですよ」
「お前の声で甘い眠りから醒めるのは最高の気分なんだがな」
「……、…なら、今度から起こしてあげますよ」
シュミットの科白にかすかに頬を染めながら、
店のメニューをシュミットに手渡しながら、エーリッヒは店員を呼んで
エスプレッソを頼んだ。
エーリッヒの前には既に、おかわり自由のエスプレッソが置かれている。
嬉しさ半分の溜め息を吐いて、シュミットがメニューを片そうとするのを
エーリッヒが留めた。
「せっかくですし、何か食べませんか?
おいしいですよ、ここのケーキ」
おごりますよ? と笑顔で尋ねられて、シュミットは困ったように
片眉を上げた。
「せっかくだが、既製のものは口に合わないんだ」
「せっかくですね」
「ああ」
くく、と二人で小さく笑っていると、シュミットの分のコーヒーが運ばれてきた。
店員が下がったのを確認し、シュミットはエーリッヒを手招きする。
すこしだけテーブルの方に身を乗り出した彼の耳元に、
首を伸ばして囁く。
「お前以外の甘いものは、この体にはもう受け付けないんだ」
低く甘く、囁いて一瞬耳朶に唇を落とし、シュミットは素早く元の席に戻った。
その2重の意味に気づいたエーリッヒが、真っ赤になって抗議しだす前に、
シュミットは余裕を見せ付けるようにコーヒーを口に運んだ。
お前以外は口には合わない。
だから何処へも逃がしたりしない。
お前だって、どうせ何処へも逃げられないくせに。
延長7回戦、この勝負、勝率119.9%。
<了>
シュミットお誕生日お目でとーウ☆ …シュミットをメインにしようと思ったら、
エーリッヒをなるべく排除するしかないことに気づいた(偏りすぎた愛が…)。
あ、これシュミットの誕生日の話ではなさそうですね!(死)
SOS、チェスはできますが強くないです。
頭使うゲームはとても弱いです(ゲーム全般弱いということですね?)
小説中の棋譜はテキトウデスヨー(過去の世界大会の棋譜とか
参考にしようと思ったんですが、読み方が頭に入らなくて読めませんでしたー/最低)。
ちょっとだけ、SURFACEの「君の声で君のすべてで…」の影響が見える(いやモロ)。
ハハハ、離れることがないなんて楽観視、本当はできませんけどね。
モドル
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