事前に外出届けを監督に提出したエーリッヒは、日曜日の朝9時45分にアイゼンヴォルフの部屋を後にした。
 ゆっくりと階段を降りても、10分と少し前には約束の場所に着ける。烈は早めに行動するタイプだと考えていたエーリッヒは、十分に余裕を取っていた。
 だが、フロントに降りたエーリッヒは、玄関のウインドウの向こうに鮮やかな赤い髪の少年を見つけて驚いた。
 慌てて自動ドアを潜ると、植え込みの側に立っている烈に駆け寄る。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「あ、違うよ。僕が早く来過ぎちゃったんだ。」

 気にしないで、と烈は明るく笑ってみせた。
 昨日の夜、興奮してなかなか寝付けなかっただけでなく、朝ずいぶん早くに目が覚めてしまって、烈は時間を持て余して困ったのだった。
 遠足の前の日でも、こんなに期待に胸を膨らませたことはない。

 ――恋だね。

 俄かにJの言葉が耳の中に蘇る。烈は首を横に振った。

「…レツさん?」
「な、何でもない。行こう!」

 予定の時間より少し早かったが、烈は足を前に踏み出した。



ロ 



 遊園地はエーリッヒが思っていたよりずっと大きいものだった。
 海上に造られた星形の大型テーマパークは、たくさんの親子連れやカップル、友達連れで賑わっていた。
 多少当惑ぎみのエーリッヒをひっぱるようにして、烈はさまざまなアトラクションを回った。勿論、お化け屋敷はパスだった。藤吉に招待される形で何度か来たことがあるので、地形や面白いアトラクションの場所は把握している。

「日本のアトラクションは、時間が短いんですね。」

 めぼしいアトラクションの半分ほどを回った後、敷地内のレストランでお昼ご飯を食べながら、エーリッヒが言った。

「そう? 物足りない?」

 烈の問いに、少しだけエーリッヒは考える素振りを見せた。

「…そうですね、少し。でも、きっとレツさんが僕たちの国の乗り物に乗ったら、途中で「もういい。」と言われると思います。」
「……そんなに長いの?」
「ええ、これでもかという程に。僕たちの国は、加減というものを知らないんです。」

 日本とは逆ですね。
 エーリッヒの言葉に、烈は首を傾げた。

「そうかな?」
「ええ。日本には、謙譲の美徳、というものがあるでしょう? 僕たちの国にはそれがない。あればあるだけ良いんです。」

 ふうん、と烈は頷き、水を呑んだ。
 エーリッヒの、僅かに伏せられた睫毛を見つめる。
 エーリッヒはどちらかというと格好いいタイプの顔をしているが、褐色の瞼を縁取る銀の睫は思ったより長く、烈の視線を奪った。
 
「…でも、エーリッヒ君にはあるんだね。謙譲の美徳。」
「え?」
「エーリッヒ君は、凄く控え目だと思う。レースの時はそりゃ、目立ってるけど。」
「そう…ですか?」

 レースでは、チームリーダーとして皆を引っ張るスピードを披露しているが、日常生活の中ではエーリッヒはむしろ控え目な方だ。
 烈は半日遊んでみて、それを強く感じた。アトラクション選びにしても、エーリッヒは烈の希望を優先的に叶えようとする。「エーリッヒくんは乗りたいものないの?」と尋ねても、さりげなく「レツさんのお勧めはどれですか?」など聞かれて、次へ、次へ。
 烈は充分楽しんでいたが、エーリッヒが本当に楽しんでいるのか、烈には判らなかった。
 レストランの外に目線を移すと、芝生の上に設置されたミニ四駆のコースで、幾人かの子供たちがスピードを競っていた。

「…そういえば、エーリッヒ君のマシンってさ、コーナリング重視、それとも直線重視?」

 マシンの話に、エーリッヒは俄かに身を硬くした。だが、窓の外を見つめる烈の視線を追ってその質問の意味を捉らえたエーリッヒは、僅かに口元を緩める。

「レツさんはコーナー重視ですよね。この間のレースでも…コーナーが得意だとおっしゃっていましたし。」

 この間のレース。
 対戦相手だったのは目の前にいる彼がリーダーのアイゼンヴォルフ。
 烈は彼らに勝ったレースを思い出して、どきりとした。
 そっとエーリッヒを伺うと、気にしたそぶりも見せずに微笑んでいた。

「そして、弟であるゴー・セイバは極端なストレート重視。対称的ですね。ご兄弟でレースなさったりはするんですか?」
「え、あ、うん。よくするけど。」
「戦績は?」

 烈はスプーンで空中にくるりと円を描いた。

「ソニックの方が速いよ。マグナムはすぐコースアウトだからさ。」

 自信を含んだ物言い。それは、公正な目で見た判断ではないだろうと、エーリッヒは察した。烈は兄であるし、自分のマシンが一番だという自負とプライドもある。豪に負けたことなど他人に簡単に告げられるはずがない。
 そうですか、と笑い、エーリッヒは話を逸らした。

「やはり、コーナリング性能が良い方が、マシンは速くなりますか?」
「当然だよ。そりゃ、ある程度のスピードだって必要だけどさ。コースアウトじゃ意味ないし、スピード改造には限界があるでしょ。他のレーサーに差を付けるのはやっぱりスムーズなコーナリングだよ。」

 そこまで熱弁をふるい、ふと烈はエーリッヒの様子がおかしいことに気付く。
 エーリッヒは口元を押さえて、微かに身を震わせていた。
 烈の視線に気付くと、すみません、と謝る。

「昔、まったく同じ言葉を聞いたことがありまして。つい。」

 当然それはドイツ語で、しかも烈に比べればずいぶん高圧的ではあったけれど。

「……エーリッヒ君のマシンって、もしかしてストレート重視?」

 ようやく、自分の一番最初の質問を思い出し、烈は改めて尋ねた。
 エーリッヒはええ、と頷く。

「じゃ、僕と同じことを言った人って、エーリッヒ君のライバル?」
「そうです。最大のライバルで、同時に最高の親友です。……レツさんとゴーさんと、同じですよ。」
「止めてよ。豪はちっとも親友なんかじゃないよ。」

 唇をへの字にした烈に、エーリッヒは首を振る。

「でも、彼がいるから上を見上げることができるでしょう? 傍にいるのが当たり前すぎて今は気が付かないかもしれませんが、少し離れると判りますよ。彼の存在がどれだけ…、自分が自分であるために必要なのか。」

 少しだけ寂しそうな表情をしたエーリッヒに、烈はなぜか胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
 エーリッヒはすぐに笑顔に戻ったが、その苦しさは烈の中に残った。

「出ましょうか、レツさん。」

 広い遊園地はまだまだたくさんのアトラクションを抱えている。時間を無駄にしない方がいい、と烈は頭を切り替えて、うん、と頷いた。





 烈が気付いたときには、すでに日は半分沈みかけていた。慌てて時間を確認し、ごめん、とエーリッヒに謝る。
 エーリッヒもふと時計を見、苦笑する。

「時間のことを忘れていましたね。」

 烈にはなぜか、エーリッヒのその言葉が嘘だと感じた。烈が負い目を感じないように、最後まで楽しめるように、彼も時間を忘れていたふりをしてくれたのだと。
 そう感じると、なぜそこまで他人に優しくできるのだろう、と悲しくなる。
 エーリッヒの優しさはおそらく、誰にも等しく、無償で与えられるのだ。彼の傍にいる人になら、誰でも。

「……エーリッヒ君、最後にさ、あれ乗ろう?」

 ライトアップされ始めた観覧車を指差して、烈は言った。
 エーリッヒはこともなく頷き、二人は今日最後のアトラクションに乗り込んだ。
 ゆっくりとゴンドラが地上から離れていく。海の上に建てられたミクニ・ファイブ・スター・ランドは色とりどりのアトラクションを色とりどりのライトで光り輝かせている。
 まるで夢の国だ、と烈は観覧車の窓から外を見て、思った。
 今自分の目の前に座っている彼も、夢の国の人。WGPという夢が終われば会えなくなってしまう。一年開催のこの大掛かりなレースの終わりはまだまだ先だが、でも過ぎって仕舞えば恐らく、驚くほどに短い時間に違いない。

「……今日はありがとう、付き合ってくれて。」

 エーリッヒは小さな異国の少年の礼儀正しさに、笑った。

「いいえ、こちらこそ。とても楽しかったです。…ゴーさんの代わりには、なれなかったと思いますが。」
「あ……。」

 烈は、エーリッヒに吐いた嘘の言い訳を思い出す。その嘘の中では、烈は豪とここへ来るのは豪のはずだった。

「違うよ。僕はエーリッヒ君を、豪の代わりにしたかったんじゃない。」

 最初から、エーリッヒくんと遊びたかったんだ。エーリッヒくんの為のチケットだったんだ。
 喉元まで出かかった言葉を、烈は飲み込んだ。
 それは自分の嘘を認めることになる。エーリッヒに嘘を吐いたことを、烈は知られたくなかった。
 悲しそうに言葉を探すふうの烈に、エーリッヒはそっと手を延ばした。トレードマークの緑の帽子の上から頭を撫でる。

「すみません。…貴方を悲しませるつもりはありませんでした。」

 重ねて、すみません、と言ったエーリッヒに、烈は耐え切れなくなって叫んだ。

「違う! 悪いのは僕だ、全部僕だ。エーリッヒ君は何も悪くない! 豪のことなんか嘘だよ、僕がエーリッヒ君と遊びたかったから嘘を吐いたんだ!!」

 一気に言い、息を切らす。エーリッヒを向く縋るような瞳に、エーリッヒは座席を移動して烈の隣に座った。
 小さな子供を慰めるようにぽんぽん、と背中を叩きながら、穏やかな低い声で問う。

「……何故、嘘を?」
「…………エーリッヒ君と、遊びたかったんだ…。」

 少し落ち着いたのか、烈はちいさく呟く。

「…嘘を吐く必要などなかったのに。」
「……うん。でも、…いきなり誘ったら変かなと思って。だから……。」

 ふふ、とエーリッヒは笑い声を漏らした。
 不思議そうに見上げてくる赤い瞳に、エーリッヒは知っていましたよ、と言った。

「…知っ……?」
「ええ。初戦で対戦して、僕に興味を持って下さったんでしょう。僕のことが知りたくて、チケットを手に入れて誘って下さったんですよね?」

 エーリッヒが烈の心を読んだかのように言い当てていくのを、烈は目を丸くして聞いていた。
 どうして、と言う呟きを聞き取り、エーリッヒはにっこりと笑う。

「お誘いいただいた日にご自分でおっしゃっていましたよ?」

 烈には覚えがなかったが、もしかしたら口を滑らせたのかもしれない。そうでなければ、こんなに全て、見通されているはずがない。
 ………だとしたら、最初から。

「………人が悪いよ。」

 烈に睨まれても、エーリッヒは笑顔を失わない。

「そうですか? WGPレーサーとして日々生活している間に、少し性格が曲がったかもしれませんね。」

 平然とそう言い退けるエーリッヒに、烈は身体の力が抜けるのを自覚した。
 ……敵わないかも、しれない。
 烈がそう感じたとき、ゴンドラは一番地上に近いところまで降りて来た。





 帰りの電車に揺られながら、烈は目の前に立つエーリッヒを見上げた。
 一つ前の駅から乗って来た妊婦に席を譲った彼は、烈の視線に気付いて優しく笑った。

「…疲れましたか?」
「うん、ちょっとね。」
「眠っていても構いませんよ? 起こしてあげますから。」

 ううん、と烈は首を横に降った。
 眠ってしまうより、エーリッヒをもっと見ていたいと、烈は強く思っていた。
 二人とも疲れていて口数は少なかったが、烈にはその沈黙はどこか心地よかった。
 窓の外の過ぎ行く景色を見るともなしに見ているエーリッヒに、口を開く。

「…ねえ、また遊ぼう。」
「ええ、良いですね。まだ僕は日本のことがよく判らないので、案内して頂けると嬉しいです」
「うん、僕の知っているところならどこでも連れて行ってあげるよ。」

 とはいえ、小学生の行動範囲がそう広いわけでもない。WGP開催に伴っていろんな土地へ行ったりもするが、基本は烈たちの住む風鈴町だ。
 エーリッヒはそれを理解していた。

「知らないところへでも、行けますよ。きちんと計画を立てれば、どこへでも。もう少し時間が経って、僕にも貴方にももっと余裕ができたら、日本のことを知るために、一緒にどこかへ遊びに行ってくれますか?」

 エーリッヒのその誘いが嬉しくて、烈は顔を輝かせた。

「勿論。きっと、どこへでも付いて行くよ。僕は、エーリッヒくんのことをもっともっと知りたいんだ。エーリッヒ君が日本のことを知りたいって思ってるよりずっとずっと、僕は僕の知らないところなんてないくらい、エーリッヒくんのすべてが知りたい。」

 無邪気な笑顔と共に、烈は言った。
 それは烈の正直な気持ちだったのだが、エーリッヒその言葉に僅かに頬を染めた。
 何も含むもののない純粋な言葉だからこそ、それは最上の口説き文句になる。

「…エーリッヒ君?」
「あ…、何…ですか?」

 ワンテンポ遅れて帰って来た返事に、初めて烈は、エーリッヒに対して「可愛い」という感想を抱いた。
 そして、そう感じてしまった自分に慌てる。自分より顔一つぶん以上も大きい男子に対して、可愛い、はないだろう、と。

「…ううん、なんでも…ない。」

 二人で口を閉じ、電車に揺られる。
 また、烈の心臓が大きな音を立て始める。
 あれだけ見つめていたいと思っていたエーリッヒの方を向く勇気が今の烈には沸かなかった。
 集中するもののなくなった疲れた身体に、電車は抗うことを許さない睡魔を運んでくる。
 かくり、と烈の頭が落ちたことに気付いて、エーリッヒはくすりと笑みを零した。
 …もしも貴方が望むならば、いつか僕は貴方に全てを教えてしまうかもしれない。
 一つ違いの少年のあどけない寝顔を見つめ、エーリッヒは心の中で呟いた。
 烈の降車駅まで、あと5駅。

                                       <続く>


 口説き文句ひとつめ使用終了☆
 上手くリードを取っていたはずのエーリッヒさんが、いつのまにか烈よりも先に烈の気持ちに気付いてあたふたし始めればいいと思う。
 烈エリはなんかWGP本編で適当に絡んでくれたので捏造しやすいというか…ネタが浮かびやすいというか(笑)。
 暫く書き続けます(いや、更新は他のCPもしますよ!)。

モドル