アイゼンヴォルフのリビングに、一人の客が訪れていた。ハインツやオットー、リビングにいた二軍のメンバーは取り敢えずお茶を出したりしてもてなしてはいたが、烈は歓迎されていない雰囲気をひしひしとその身に感じていた。
だが、烈はそんなことが気にならないくらい、気持ちが不安定だった。主な理由は別に二つあったが、目的の人物がいなかったことも、烈の心に暗鬱とした雲を広げる事に一役買っていた。
どこか陰惨とした空気を漂わせるリビングに、一筋の光明のようなノックが響いた。
ラインハルトは駆け寄るようにドアを開ける。そうしてそこに、敬愛する一軍メンバーの顔を見つけて破顔した。
「Herr Klamenz…!(エーリッヒさん…!)」
明日への時間。
「Was? Was hast du gemacht?(どうした? 何かあったのか?)」
尋ねながら部屋に入ったエーリッヒは、「In der Tat….(それが…。)」と言い淀むラインハルトの説明より先に、ソファの客人を認めた。
そういうことか、と軽く溜息を吐く。
「こんにちは、レツ・セイバ。お待たせしてしまって申し訳ありません。」
「あ、ううん、僕が急に来たんだし。」
烈は笑って見せたが、どこか取り繕った様子が見える。
エーリッヒは烈が何かを話したくて来たのだろうと見当をつけた。
「レツさん。よろしければ、こちらへ。」
エーリッヒが一人で使っている部屋へと烈を手まねく。
それを見て、ハインツが思わず「Herr Klamenz!(エーリッヒさん!)」と声を掛けた。エーリッヒの元に寄ると、ちらりと烈を見る。
「Unser Aufsicht hat befahl uns, das ist ein Verbot von die Kommunikationen
fuer dem Mitglied von die andere Mannschaft…!(他チームのレーサーとの交流は禁止だと、監督が言っていたじゃないですか…!)」
早口にハインツが確認した禁止事項は、つい最近監督から言い渡されたものだった。レース以外での、他チームとの交流を禁ずる。それにいったい何の意味があるのか、エーリッヒには理解できなかった。ただ、二軍のリーダーという立場はエーリッヒに想像以上の重責を感じさせていた。その中で、他チームと関わらなくてはならないことは苦痛だった。戦績や順位を気にせずにはいられないからだ。特に、アメリカチームのリーダーとの交流を、エーリッヒは避けたかった。その為の隠れみのになるのなら、意味の判らない命令でも大歓迎だった。昨日のブレットとのやり取りを思い出して、エーリッヒは僅かに眉間に皺を寄せた。
「……Herr Klamenz?(……エーリッヒさん?)」
「Er hat zu mich einladen. Die alle Verantwortlichkeit trage fuer mich.
Wenn Unser Aufsicht vrehoeren dir, du antwortest auf solche Weise.(…彼は僕が招待した。全ての責任は僕にある。監督に何か言われたら、そう答えるんだ。)」
エーリッヒは強く言い切り、部屋のドアを閉めた。
「…僕、なにか迷惑だったかな?」
「いいえ。こちらの話なんです、どうか気になさらないでください。」
烈を安心させるように笑顔を見せて、エーリッヒは抱えていた資料のバインダーを机に降ろした。
「あ、適当に座って下さい。」
烈は頷き、ベッドに座った。綺麗に整頓された部屋をひとわたり見渡す間に、エーリッヒは烈に向き合うように机の椅子に座った。
「それで、何かご用でしょうか?」
エーリッヒの質問に、烈はまた頷く。
「……ねぇ、君たちは二軍なのか?」
驚いて目を見張ったエーリッヒの表情から、烈はそれが真実だということを悟った。
エーリッヒは、自分たちが二軍であることを知っているチームを頭の中に浮かべた。一度でもWGP以外のどこかで対戦したことのあるチーム。…イタリア、北欧、それに…アメリカ。わざわざ日本のチームに余計なことを吹き込み、その勝利に水を注すような不粋な真似をする馬鹿は。その可能性が一番高い男を思い出して、エーリッヒは強く目を閉じた。
「……どなたからお聞きに?」
「ブレット君。」
やはり。
エーリッヒは大仰な舌打ちをしたい気持ちを一心に押し止めた。
「…本当、なんだね?」
これ以上隠しても仕方がないと思ったのか、エーリッヒはええ、と答えた。
「…君も?」
「さすがに、察しがいいですね。……貴方の考えている通り、僕だけが一軍のメンバーです。」
エーリッヒの答えに、烈は胸を撫で下ろした。エーリッヒほどのレーサーが二軍であったとしたら、一軍に勝てる気がしなくなるからだった。
「…エーリッヒ君は、一軍で何番目?」
烈の質問に、エーリッヒは小さく笑った。
その質問には、答えることができない。二軍の守秘主義に反するのは気にしなくても構わないと思ったが、一軍の不利になるかもしれない事は口にはできない。
「…さあ。何番目に見えますか?」
烈は、俯いて淡く笑った。エーリッヒの反応は、返ってくる答としての範疇だったのだろう。
「……どうして、一軍の人達が来てないの?」
「…格式ある我がアイゼンヴォルフの、権威と威厳を守る為です。」
そう言って皮肉っぽく笑ったエーリッヒの表情から、烈はWGPにベストメンバーで出場できていないことがエーリッヒの本意ではないことを察した。
短いが伝統あるヨーロッパ選手権を優先させる人事を知った時、エーリッヒは呆れにも似た諦観を抱いた。強力なライバルチームは全てWGPへの参加を表明しているというのに、ヨーロッパ選手権など何の価値があろう。その決定は、EGPに参加させられる一軍メンバーたちへの侮辱にも感じた。
エーリッヒのそんな胸中を察したのは、長い付き合いのある親友だけだった。
「…この間一緒に遊びに行ったときに言ってたライバルって、一軍の人だったんだね。…君と同じくらい速い?」
エーリッヒは曖昧に笑った。
国を出る前には一秒もの差を付けられていたライバル。その差を埋める為にも志望した日本行きだったのに、レースを重ねる度に離されていっている気がした。
不安で堪らない。
「…レツさん。もう許して下さい。」
首を横に振りながら、エーリッヒは緩やかに烈を留める。
まだまだ尋ねたいことはあったが、エーリッヒが本当に困惑しているのが判る以上、烈には質問を続けることはできなかった。
「じゃあ、これが最後の質問。………どうして、僕に何も言ってくれなかったんだい?」
寂しそうに眉を寄せる烈に、エーリッヒは視線を逸らした。
「………すみません。」
答えになっていないのに、ずるい。と烈は思う。
答えられないのが、彼の責任ではないと判るから。彼の謝罪が重すぎるから。
「…謝らないで。そんな言葉が聞きたいんじゃないんだ。」
エーリッヒと自分の間の大きな溝。
対等ではないという感覚。
他人は知っているのに、自分には知らされないこと。
「……耐えられないよ。ブレット君は知ってるのに僕の知らないことがあるなんて。………ブレット君には言うのに、僕には言って貰えないことがあるなんて。ねぇ、シュミットって、誰だい?」
その名を聞いた途端、びくりとエーリッヒの身体が強張る。目をおおきく見開いて烈を凝視するエーリッヒに、烈は酷薄に笑う。
「盗み聞きするつもりはなかったんだ。でも……聞こえた。……聞こえなければよかったのに。」
昨日の対戦はアイゼンヴォルフ対小四駆走行団光蠍。ぎりぎりの戦いを演じて辛くも勝ちを奪い取ったアイゼンヴォルフに、強い不快感を持ったのは、エーリッヒではなかった。
レース後にトランスポーターの前で待っていたブレットに捕まったエーリッヒは、仕方なしに二軍のメンバーを監督と共に先に帰した。レース後の反省会がエーリッヒだけ次の日、つまり今日になったのはそのためだった。
ブレットはご丁寧にもドイツ語で、エーリッヒに詰め寄った。情けないレースはするな、と。エーリッヒは何を言われても全て甘受し、ただ黙っていた。
ブレットが、エーリッヒの幼なじみの名を出すまでは。
彼の名を出された時、彼と比べられたと感じたとき、エーリッヒは思わず反論していたのだ。
『貴方などに言われずとも、判っています。僕たちでは実力不足だということも、時間稼ぎに過ぎないことも。でも、僕以外にはできないんだ。今、この時は……!』
苦しくても倒れられなくて、もたれ掛からせてくれる人もいなくて。
エーリッヒが母国語で響かせた食いしばるような声は、まるで悲鳴のようだった。
溢れ出す気持ちを抑えるように、俯いて手で目を覆うエーリッヒに肩を竦め、ブレットは皮肉っぽく笑った。
『ま、せいぜい頑張るがいいさ。ヨーロッパなんかで燻っている、あいつらの為に、な。』
バイザーの奥に見える嘲笑の瞳を、せめて睨み据えるつもりで上げた顔は、相手が余りにも至近距離にいた為に強張った。
『………Viel, Glueck.』
左の頬に手を添えられて、すこしだけ頭を下げさせられ。額に小さなキスが与えられて初めて、エーリッヒは慰められたことを知った。
冗談じゃない、とブレットから身を離し、エーリッヒは額を袖で擦った。
ブレットは笑いながら、ひらりと余裕で片手を上げて、去って行った。
暫く、悔しさと情けなさに彼の背中を睨んでいたが、やがて両手を組合せて、うなだれた額に当てた。それは祈りの姿勢だったが、エーリッヒが口にしたのは神の名ではなかった。
『………シュミット……。』
「……親友の、名前ですよ。」
目を閉じ、少しの間回想に耽っていたエーリッヒは、ゆっくりと目を開いて、答えた。
諦めたような弱々しい微笑みが痛くて、烈は一瞬、尋ねたことを後悔した。
烈の表情から何を読み取ったのか、エーリッヒはふと、寂しそうに表情を曇らせる。
「…レツさん。貴方は以前、僕のことを知りたいとおっしゃってくれました。僕も、全てを貴方に打ち明けられたら楽だと思います。でも……、そんなことは不可能なんです。今の僕には。……アイゼンヴォルフの、エーリッヒには。」
烈は、下唇を噛みながら頷いた。仕方がないことだと理解はしたが、納得はできない。
エーリッヒが、ひどく遠い人間に感じた。
エーリッヒはいつかと同じように、烈の頭を撫でた。それは小さな子供にする慰めの仕草。
エーリッヒにとって、烈は弟と同じ位置にいるのだろうか。
「………ねえ、エーリッヒ君。ブレット君のこと…好きなのかい?」
「質問は最後ではなかったのですか?」
「それとこれとは別さ。」
烈の答えにくすくす笑い、エーリッヒは少し、考えるそぶりを見せた。
「……嫌い、ですね。」
最初から決まっていた答えを勿体振って答えるのは、たいてい本音と建前の境界を決めかねているからだ。
エーリッヒは、こんなことを隠しても仕方がない、というように、綺麗に微笑みながら答える。
「おせっかいで性格がひねくれてて、恰好つけで自慢げでキザったらしいから、嫌いです。」
「…………以外と、毒舌だね。」
ブレットの欠点をさらさらと読み上げるように答えていくエーリッヒに、烈は頬を引き攣らせる。
「本当のことですから。でも、どうしてそんなことを?」
「……ブレット君、エーリッヒ君に……き、キスしてたみたいに…見えた、から。」
ああ、とエーリッヒは頷く。確かにされた。された、が。
「貴方には、僕が喜んでいるように見えましたか?」
「……ううん、嫌がってたみたいに見えた…けど。でも、じゃあブレット君が君のこと好きなのか?」
エーリッヒは眉を寄せた。
「………それはぜひ、遠慮したいですね。……レツさん、勘違いしないで下さい。僕たちにとっては、あの程度のキスは挨拶の意味しか持ちません。そういう習慣のない、この国では珍しいのかも知れませんが…。」
エーリッヒは苦笑したが、烈は納得しなかった。エーリッヒがブレットを嫌いなのは真実かもしれないが、ブレットの心中は判らない。
ブレットがエーリッヒのことを好いている可能性は、否定できない。
「……ね、挨拶でキスをするのが君たちの習慣なら、」
烈は言いながら立ち上がる。椅子に座るエーリッヒと同じ位の目線。烈はエーリッヒの頬を両手で挟み、ブレットのしたのと同じように、少しだけ頭を下げさせて唇を額に押し付けた。エーリッヒの肌は僅かに弾力を持ち、温かかった。
だが、その感触をしっかりと確かめるだけの余裕は烈にはなく、慌てて身を離す。
心臓の音が、耳の奥で煩く反響している。
ぱちくり、目をしばたたいているエーリッヒに、名前を呼ばれるより一瞬早く、烈は無理矢理口を開いた。
「ぼ、僕でも、してもいいんだよね。」
頬を真っ赤にしながら言った烈に、エーリッヒは一瞬遅れて、くすくす笑い出した。
なにかおかしなことをしてしまったのかと目を見開く烈に、エーリッヒはすみません、と言った。
この小さな国の小さなリーダーは、負けず嫌いでひどく可愛い。
エーリッヒは、烈に懐かれるのに悪い気はしなかった。小さくなってしまっている烈を見つめて、そういえば、自分によく懐いてくれた金髪の少年も、彼と同い年だったと思い出す。ブレットをシュミットに、烈をミハエルに置き換えると、今の状況は祖国での日常に似過ぎていて、思わず涙が零れそうになった。
「エーリッヒ君?」
喉の奥の引き攣るような痛みを飲み込んで、エーリッヒは何でもありません、と言った。無理矢理に笑ってみせるエーリッヒが痛くて、烈はそのまま、エーリッヒを抱きしめた。
「……レツさん?」
「笑わなくていいよ。僕にまで無理して笑わないでくれ。…そんな顔、……僕の方が辛いよ……。」
エーリッヒは強く口元を引き結んで、烈のちいさな身体を抱きしめ返した。強すぎる力が痛みを与えたが、烈は黙って受け止めた。
「………貴方は、優しい人ですね。…残酷な程に………。」
それでも、エーリッヒの瞳から涙が零れ落ちることはなかった。
<続く>
烈兄貴の口調を原作(アニメ)に近づけてみた。同人で見かけるよりかなり男的な喋り方してるんですよって話。
シュミエリ、ミハエリ、ブレエリのにおいをちらりと感じた人は、そいつぁ気のせいだと割り切ってください(笑)。
時間軸的には、猛特訓TRFvsアスレン戦4トップレースの後くらいだと思ってください。
モドル
|
|