我慢の旗矛
「…シュミット。」
エーリッヒは、自分の背後でただ自分を見つめる親友に向かって声をかけた。
こめかみ辺りが引きつっているのは、シュミットが自分を黙って見ているという時間がもう15分も続いているせいだろう。
他に誰もいない、図書館の本棚を辿っていた視線をくるりと反転させて、エーリッヒはシュミットを睨んだ。
「なんなんですか、さっきから。言いたいことがあるならはっきり言って下さい。」
誰もいなくても声を抑え気味にしながら、エーリッヒは溜まったストレスを吐き出すようにそう言った。
もともと、図書館に行くと言ったエーリッヒに付き合うと言いだしたのはシュミットだ。時間がかかるかもしれないと断っても、それでも良いと言ったのもシュミットだ。
だから、今の状況に不満を抱くことなどお門違いだ。シュミットがエーリッヒに、これほど視線を送ってくる理由などどこにもないはずなのだった。
「…別に。気にするな。」
ポーカーフェイスを崩すことなく、シュミットはそう言い捨てた。
…気にするなという方が無理だ。
じっとりと、絡みつくような視線を送られていてはおちおち本を探すこともできない。
閲覧用机の椅子に座っているシュミットの正面に、エーリッヒも席を取った。
図書館のある建物に入る前に見た、冬の空は冷たく晴れ渡っていた。
風の入らない建物の中は、暖房器具のせいでひどく暖かい。
エーリッヒは、溜め息をついて親友の整った顔を正面から見た。
「別にって事はないでしょう。退屈なら退屈だと言ったらいいじゃないですか。僕は、貴方にここにいることを強制する気はありませんよ?」
頬杖をついていたシュミットは、口の端を少しつり上げた。
「退屈なことはない。私がここにいたいから居るだけだ。気にするな」
………、だから、
「こんな風にじろじろ見られて、気にしないでいられるほど神経図太くないんですよ僕は。」
一時として自分から逸らされない視線に、エーリッヒの方が耐えられなくて顔を背ける。
だけれど、熱視線は止むことを知らない。
エーリッヒは溜め息をついて、机に身を乗り出して腕を伸ばした。片手の平で、シュミットの両眼を覆う。
「…何のつもりかな、エーリッヒ?」
愉快そうに歪んだ口元に、エーリッヒは何も答えなかった。
無駄のような時間が、室内の空気を暖めた。
「お前が見えないと淋しいんだが。」
1、2分が経過したところで、シュミットが口を開いた。
「もう充分見たでしょう。」
自分でも、何をしてるんだろう、と思いながら、エーリッヒは手を外さない。
頬杖をついている腕とは逆の手が、エーリッヒの腕を掴んだ。力任せに目隠しを解いて、シュミットはにこりと綺麗に笑って見せた。
「まさか。見飽きるわけも見足りることもあるはずがないだろう。許されるなら一日でも一ヶ月でも一年でも一生でも、ずっとお前を見ていたいんだからな。」
さらりと言われた口説き文句に、エーリッヒは眉根を寄せた。
体温を上げた顔を見られたくなくて、もう勝手にして下さい、と言って席を立つ。
再び本棚に戻っていく後ろ姿を、シュミットはただ見ていた。
…我慢が効かなくなりそうだな。
“触れないでいる”こと。
“見ているだけ”の状況。
目を逸らせないのに、見ていれば見ているだけ、体の中で欲望は膨らんだ。
触れたい。泣かせたい。壊したい。
誰もいないということが、爆弾の導火線を短くしている。
獣でもあるまいにと、シュミットは自嘲する。
エーリッヒの姿が、奥の本棚に隠れて見えなくなった。
シュミットは椅子から立ち上がって、音をたてずにエーリッヒに近づく。
本の背表紙を真剣に目で追っている、エーリッヒはシュミットの接近に気が付かなかった。
充分に近づき、シュミットは周囲に人の目がないことを確認してからエーリッヒの名を呼んだ。
びっくりして振り向いたエーリッヒの唇を、シュミットは瞬間的に塞ぐ。
「んっ…!?」
突然のことに思考が付いていかないらしい、エーリッヒの体を反転させて本棚に押さえつける。
やっと抵抗をしようと動いた、エーリッヒの両腕をシュミットは強く掴んだ。
「ぅ、んふっ…!」
苦しさで歪められた、エーリッヒの顔は無視して舌を絡める。
膝を割って体を潜り込ませ、力の抜けた腕を放して、エーリッヒの細い体のラインをなぞる。
ぞくりと背筋を走る感覚に、エーリッヒは目を見開いた。
離されない唇が、エーリッヒの思考力を奪っていく。
とん、とシュミットの肩を拳で叩くが、全くといっていいほど意味はない。
思うようにエーリッヒの口腔内を荒らしてから、シュミットはエーリッヒを解放した。
はぁ、はぁと荒い息を吐き出しながら、エーリッヒの唇が何を、と言葉を紡いだ。
シュミットは、意地悪に笑った。
「勝手にしているだけだよ。」
「…かって、に…?」
先刻自分が言った、「勝手にして下さい」が思い浮かんだ。
「…ばかじゃないんですか貴方…。」
「ばかとは手厳しいな。」
眼前の紫の瞳を睨みつけて、エーリッヒはそんなつもりで口にした言葉じゃない、と身を捩った。
モラリストのエーリッヒが図書館という場所を気にしていることを、シュミットは当然のように知っていた知った上で、彼は意地悪にも最愛の恋人の焦る顔が見たくて彼を本棚に縫い付けているのだった。
「放してください。」
「どうしようか。」
もう一度顔を近づけるシュミットに、エーリッヒはきゅっと目と口を閉じた。その態度が口調とは裏腹にひどく可愛らしくていとおしくて、シュミットはすこし背伸びをして彼の額にやわらかな唇を押し付けた。そうして唇といっしょに身体も離してやる。
「調べものは早めに済ませるべきだなエーリッヒ。でないと、また私の我慢の限界が来てしまうよ。」
その前に、早くふたりきりの部屋に戻ろう。ようやく瞼を上げたエーリッヒに、シュミットは「そういう意味」で笑みを見せた。
最低だ、と低く呟いたエーリッヒの顔は真っ赤で、ああやっぱりこいつは可愛いと、シュミットは心の底から思った。
裏用にと思っていたのですが、表でも晒せるくらい生温いものになりました。あっはっはっは(笑いごっちゃねぇ)。
モドル
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