空腹感
「…腹が、減ったな…」
ぼそりとそう呟いて、ベッドの上で寝返りをうった。
なんの予定もない、暇な休日。
いや…、実際には、暇なわけではない。やることならいくらでもあるし、
しなければならないことも抱えている。
ただ、やる気というものは0に等しかった。
そんな中で何かをしても芳しい結果が出るわけがない。その結論から、
今朝からずっとベッドの上でごろごろごろごろと時間を過ごしているのだが。
「…腹が、減った…」
もう一度、呟く。
朝食や昼食を食べなかったわけではない。
食べるものが周りにないわけでもない。
…そして、腹が空いているわけでもない。
それでも、満たされない。
…知っている。と、いうか、判っている。
自分の脳が、防衛のために空腹感に置き換えてしまっているその感情がなんであるのか。
…寂寥感。虚無感。
満たされないのは腹ではなくて。
レースで勝ち続けても、鬱積していくその感情。
無気力に鞭打ってレースに出て、勝つ。
優勝するのが当たり前の、ヨーロッパ選手権。
去年まではそれでも、優勝が嬉しかった。
正確には優勝するのが、ではなく、その後の祝賀会で見せる、
あいつのはにかんだような、嬉しそうな笑顔が。
まったく、と思う。
自分はこんなにも脆弱であったか。
たった一人が傍からいなくなってしまうだけで、何も手に着かなくなってしまうくらい。
もっとも私にとって彼は、“たった”というには大きすぎる存在なのだが。
今は遠いところにいる彼。
苦戦を強いられているだろう。世界の強豪が集まるWGPに、二軍では戦力不足は否めない。
よくてもアメリカの下で2位。悪ければ? さらにロシアやイタリアの下。疑問なのは、どうして
負けると判っていて一軍の中で一人だけを先に送ったのか。そんなことをすれば、苦しむのは
その人間だというのは自明。
…あいつは、それを判っていて一人で日本へ行ってしまった。
苦労を背負い込むのが好きなやつだなんて、出発のすこし前に笑ってやった。
そうしたら、彼は苦笑して、そうですね、と言った。
抱きしめることも、柔らかなキスさえも、私達の間ではただの挨拶で。
幼い頃から交遊して、兄弟みたいに育った私達の間では特別な意味を成さない。
手を伸ばせば届くところにいた彼を、手放したのは、手放すことに抵抗しなかったのは、
自分だ。
それを、今悔いても仕方がないのだ。
なにしろ、私はこの国に残され、彼はかの国にいる。その現実は、かわらないのだから。
私はぼんやりと天井を見上げた。
我が栄光のアイゼンヴォルフの為に割り当てられた、宿舎。
1人足りなくても、時は5人の時と変わらずに過ぎていく。
まったくセンチメンタルな気分にさせてくれる。
今の私を見たら、彼はさぞ驚くだろう。彼は私が一人で何でもできると思っている。
そう見せてきたのだから。彼の前で無様な醜態を晒すことを、私はずっと恐れてきた。そして、
おそらくこれからも恐れ続けるだろう。
他のところで“必要とされている”ことを理由にして私から離れた彼。
私もまた彼を“必要としている”ことに、きっと気付いてはいまい。
一度も告げていないから。
幼い頃からずっと一緒にいる、『幼なじみ』…『親友』という関係の彼。
いつだったろうか。そんな言葉では満足しなくなっていく貪欲な自分自身に気付いたのは。
『親友』のはずの人間に、浅ましい思いを抱く自分に気付いたのは。
最初のうちは気付かなかった。
気付いてすぐは焦った。
少ししたら、落ち着いた。
なぜなら、私は出会ったときから彼に対して想っていたのだろうから。
手に入れたい、と。
自分にはないものをたくさん持っているあいつを。
『親友』で満足していたのは、彼と自分の距離より近しいところには誰もいなかったからだ。
変わったのは。
私よりも彼に近しいところにいようとする人物が現れたとき。
その人物は私とは全然違っていた。
強いカリスマ性に、天才と呼ばれることが当然のような手腕を持っていて。
私よりも素直に彼に甘えることができる。
どうあがいても、私はその人には敵わない。
だけれど、彼だけは渡したくないと思った。
その人にだけじゃない、この世界の誰にも渡したくないと。
彼のことに関してだけは、あの人にすら負ける気はしなかった。
…そうか、あの時か。自分が自分に対してもひた隠しにしていた、この世界の
どんなものよりも醜く清らかな感情に気がついたのは。
彼の気持ちを最優先させていたように記憶している、都合のいい私の側頭葉。
本当は違う。
ただあいつに、避けられたくなかっただけ。
すべて私のエゴイズム。
今更この性格を変えようなんて、これっぽっちも思えないけれど。
空腹感が胸を穿つ。
「…腹が減ったんだ、エーリッヒ…」
あいつは優しい奴だから。
だからこそ、告げられやしないこの想い。
いつだって自分の気持ちを後回しにして他人を優先する彼にこんな気持ちを告げたら、
彼は自分の意志とは関係なく私を受け入れてくれるかもしれない。
我が儘な私はそれが嫌で、だからずっと自分の気持ちを抑え込んできた。
愛されたいと思うからこそ、伝えられない想いもあるのだと、そうして知った。
…だけれど、それもそろそろ限界だ。
もし、再会したときに抑えきれなくなっていたとしたら。
自業自得だと思えよ?
私は随分と、我慢したのだから…。 |
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