心たちの弱点





 エーリッヒが倒れたのは、ドイツに帰って間もなくだった。
 彼は、2軍の、あの時のメンバーに謝りに行くと言って、1軍の部屋を後にした。
 その、ほんの5分ほど後のことだった。
 オットーがあわてふためいた様子で、1軍用のリビングに駆け込んできたのは。

「エーリッヒさんが……!!!」

 その言葉にいち早く反応したのは、やはりシュミットだった。
 練習用コースのある、広い屋内レース場の端のベンチに、エーリッヒは寝かされていた。

「エーリッヒ…」

 シュミットはそっと、血の気の引いた頬に指を滑らせた。
 その時、エーリッヒは何と言ったか。
 意識を失ってなお、彼は自分のすべきことを覚えていたのか。
それとも、ミハエル率いるアイゼンヴォルフ一軍の期待に、答えられなかったことをずっと悔やんでいたのか。
もしくは、……、どれだけ想ってくれているか知っている、
親友に対してのものだったのか。
 エーリッヒは、うなされながら。

「………ごめん、なさい…………」

 シュミットだけに、聞こえるような声で。

 シュミットは、その言葉が、この状況下では自分にしか向けられないものだということを知っていた。




 取り敢えず、エーリッヒは医務室に運ばれた。
 診断の結果は、疲労と睡眠不足、それに軽い栄養不足だということだった。
 しっかり眠って、しっかり食べれば回復すると、医務員は言った。

 …そうだ。良く、眠ればいい。
 そうして、何もかも、忘れてしまえばいい。
 お前は、多くのものを背負いすぎなんだ。

「シュミット、エーリッヒの傍にいてあげなよ。僕たち、先に部屋に戻ってるからさ」

 ミハエルはそう言って。
 本気で、シュミットとエーリッヒを医務室に残したまま、出ていった。
 ベッドサイドの椅子に腰掛けて、じっとエーリッヒの寝顔を見つめる。
 …こうやって、彼の寝顔を見るのはいつ以来だろうか。
 幼なじみの横顔は、半年と少し前よりも、大分やつれて見えた。

「…エーリッヒ…」

 見た目よりもずっと柔らかい銀の髪に指を滑らせる。
 さらりと指から零れた細い銀糸が、まるで彼の心のようで。

 無理矢理にでも自分のものにすることもできた。
 きっと、彼は拒まなかった。
 だけれど。
 きっと、私に向ける笑顔は作り物になる。
 …それだけは、耐えられない。

「お前が何を望んでいるのか、私は理解しているつもりなのにな…」

 なのに、傷付けそうで恐いよ。
 お前の全てを手に入れたいんだ。

 私の気持ちを知りながら、お前は綺麗に身をかわすから。
 酷く残酷な衝動が、時々身体の奥で疼く。

「……壊してしまいそうだ…」
「…シュミット…?」

 言葉の方が先に零れて、その後で瞼が持ち上げられる。
 そうしてエーリッヒは、ゆっくりとした瞬きを一つ、した。

「済まない、起こしたか?」

 状況の把握できないエーリッヒは、ぱちぱちと何度か瞬きをした。

「…あの、僕…?」

 上半身を起こそうとしたエーリッヒの肩を、シュミットは優しく掴んでベッドに戻した。

「まだ寝ていろ。…お前は、倒れたんだ。覚えていないか?」
「…倒れた? 僕が…?」
「ああ。全く、お前は何時も一人で無茶をするから…」
「無茶なんて、してませんよ…」
「なら、何故ここでこうやっているんだ?」

 状況証拠だ、とでも言わんばかりに、シュミットはぽんぽんとシーツを叩いた。
 その言葉に、エーリッヒは居心地が悪そうに顔を壁の方に向けた。




「…済みませんでした」

 少しして、エーリッヒは顔を背けたまま呟いた。

「また、迷惑を掛けてしまいましたね…」

 シュミットが、そんなことはどうでもいい、と言う前に、エーリッヒはさらに言葉を続けた。

「ハインツ達の練習も、止めてしまったのでしょうし…」

 他人のことを、一番に気にする。
 自分のことより、他人のことを優先する。
 お前は優しい。
 優しいから、………苛々する。

「エーリッヒ」
「はい…?」

 親友に名を呼ばれて、エーリッヒは振り返る。
 瞬間、視線が、強く深い感情を宿した瞳とぶつかる。
 エーリッヒは、微かに息を呑んだ。
 ゆっくりと伸ばされたシュミットの右手が、エーリッヒの左頬に触れた。
 びくり、とエーリッヒが大きく反応する。
 それが、日本で再会した夜の彼の反応に酷似していて、シュミットは微かに笑った。
 だが今度は、腕を引くことをしなかった。
 輪郭をなぞるシュミットの指の動きを意識しながら、エーリッヒは不安を湛えた瞳でシュミットを見上げている。

「…エーリッヒ、好きだ」

 真っ直ぐにブルーグレイの瞳を捉えて、シュミットは言った。
 エーリッヒは一瞬だけ、目を見開いたが、すぐに微苦笑の仮面を纏う。

「シュミット。その冗談は…」
「冗談じゃない」

 先日と同じ科白を綴ろうとしたエーリッヒの言葉に、かぶせるように強く言いきった。

「冗談なんかじゃない。冗談にするな…!」

 エーリッヒの顎を掴んで固定し、強引に唇を奪う。

「んっ……!」

 大きく見開かれた瞳が、不安と恐怖に揺れた。
 それを見ないように、シュミットは目を閉じている。
 表面的に擦れ合わせていた唇をそっと放すと、エーリッヒは息を吐こうと薄く唇を開いた。
それを逃さず、するりと舌を滑り込ませる。

「んぅっ……!!」

 頭を引いて逃げようとするエーリッヒを、片手でベッドに縫いつける。
 エーリッヒの口腔内を思うように荒らしてから、唇を離す。
 はっ、と息を吐いた途端に、エーリッヒの瞳から涙が零れた。

「…、や…」

 薄い枕の上で、エーリッヒは首を横に振った。
 シュミットは嘲笑的な笑みを浮かべる。

「どうして? お前だって、私のことが好きだと言ったじゃないか」
「ち、が…。あれは、こんな意味じゃ…」
「嘘吐き」

 意地の悪い笑みを浮かべて、シュミットは、つ、と指をエーリッヒの喉元へ滑らせる。

 何がしたい?
 何がしたい?
 何がしたい?
 判らない。

 ただ、手に入れたいだけ。

 でも、笑っていて欲しい。

 矛盾してる。

 矛盾している。

 知ってる、そんなこと。


 シュミットが指に力を込めると、エーリッヒは苦しそうに顔を歪めた。
 堰き止められた声で、エーリッヒは懇願するように言った。

「…シュミット………。僕らの、関係は…、壊しては、いけない…。
でも、…一度、壊さなければならないのかも、しれません。
一度、始めなければ、終われないのかもしれません……」

 ジョーが言っていたように。

 シュミットは起きあがって指を離し、大きくかぶりを振った。
 そして、辛そうに目を細める。

「違う。始めたら、終われない。私には、終わらせる自信がない」

 手に入れてしまえば、きっと二度と手放すことなど出来ない。
 彼が、もう嫌だと泣き叫んで私を拒絶したとしても。
 …いや。

 もう、手遅れなのかもしれない。

「……ジョーさんは、始めなければ終われないと教えてくれた…。
貴方は、始めたら終われないと言う。
 ……どうすれば、いい?」

 エーリッヒは天井を見つめながら、声にならない声で呟いた。

「…………どうすれば、いい……?」



「…終わるまで、続けることは出来ないのか…?」



 解らない言葉。
 始まりと終わりの間にあるもの。
 その時間を抜いて、エーリッヒは考えてる。
 辛い結末だけ。
 悲しい未来だけ。
 私達が歩いているのは、歩かなければならないのは現在以外に有り得ないのに。

 エーリッヒは目を細めて、シュミットを見た。
 心の底を見透かそうとするかのように。

「…恐いです」
「恐い…?」
「親友という関係の、一番の利益は、例えば貴方が未来に結婚したとしても、
そのポジションを失わずにいられることです。
……恋人という関係では、そうはいかない。だから、僕は……」

 未来に保証はない。
 知ってる。
 成長した私達が、どうなるかなんて判らない。
 人の心は変わりやすいから、判らない。
 …だからって。
 だからって、今の自分に嘘をつくのは………。






 本気で言ってるんだ? エーリッヒが何も望んでないなんて。






「…お前は、自分にすらも嘘をついている。
…それが、一番辛いよ。私にとっても、お前にとっても」

 シュミットは、青い瞳を覗き込んだ。
 凍った湖面の底で、心が痛みを訴えていた。

「ウソなんか…」
「吐いてる。お前は、お前の本当の望みを抑え込んで、自分に納得させている」
「望み。違う。僕の望みは、貴方が動かないことでしか叶えられません。
あと半歩の、この距離を埋めないで下さい」
「それも嘘だ。本当は、お前も、この緊張状態を抜け出したいはずだ」
「違う、違う! 僕が本当に恐れているのは、貴方を失うことです。だから、だから動けないんです。
不安定なままバランスを保ってしまった、この関係を崩さないで下さい。
貴方が僕を突き放せる距離に、僕は入りたくない…!!」

「離さない」

 エーリッヒの腕を掴んで強く引き、上半身を引き寄せた。
 そのまま背中に腕を回して、抱き締める。
 エーリッヒの体が、硬直する。
 シュミットは、痛いだろうと思うほど強く、エーリッヒを抱いた。

「離さない。絶対に離さない。お前が私に飽きるまで、…いや、飽きたとしても。
私はお前を離さない。…離せない」

 …震えているのは、どっちだったのだろう。
 シュミットが気が付いたときには、エーリッヒは泣いていて。
 シュミットにしがみついて泣いていて。
 その彼が、あまりに小さく見えて。
 …小さく見えて。

「……エーリッヒ、私は、ずっとお前のことを見てきたんだ。…知っていたんだろう?」

 微かに、エーリッヒは頷いたようだった。

「そして、お前も。私が気付いていたことを、知っていた。
私の想いに答えられないのが自分の我が儘だってことすらも理解していて、
だから、余計に苦しんでいた。…だからといって、私が動けば、お前が耐えてきた全てを無駄に
 してしまうことになる。…どうしていいか判らなかった。
どうすることが、正しいことなのか…、全く見当が付かなかった」

 間違っているのかもしれない。
 後悔するのかもしれない。
 …でも、それでも、諦めるよりは救いがあると思った。

「ごめんな、エーリッヒ。
…結局、私は私の本能に勝てなかった、情けないことだけれど。
…きっと私は、昔からお前を手に入れたくて仕方なかったんだ。
ずっと、ずっとそうだった」

 悲しむばかりならば、動かなかった。
 本当に望まないのならば、始めようなんて思わなかった。
 関係が凍ってしまうならば、告げなかった。

 永遠に好きでいられる保証なんてない。
 ないけれど。
 ないからこそ。

「……好き」

 震えながら、エーリッヒは呟いた。
 シュミットに聞こえるように。

「…好きです。好き…。…いつからか、解らないけれど。貴方のことが、好きです。
傍にいたかったんです、どんな形ででもいいから。
…ごめんなさい、僕に、もっと勇気があれば、貴方を傷付けなくても済んだのに。
貴方を悲しませなくても済んだのに…」

 くす、とエーリッヒは微かに笑った。
 まだ、瞳からは涙が零れていたけれど。

「…以前、貴方は僕に聴きましたよね。“お前は私のすることをどこまで容認できるか”と…。
…結局、僕は、貴方に何も許せなかった。貴方の望みを聴くことすら、恐くて出来なかった」

 望まれれば、きっと受け入れていただろうけれど。
 …いいや、それは嘘、だ。
 壊れそうな関係を維持したかった自分が、彼の望みを聞けたはずがない。

「…貴方は、どうして、こんな僕を好きでいてくれるのですか?
 貴方の想いに気付きながら、ずっと無視し続けてきた、こんな僕を…」

 シュミットは、腕の力を緩めて、エーリッヒの目を覗き込む。

「なら、お前はどうして私を好きでいられた?
 お前に苦労をかけて、倒れるほど無理をさせてきたのに。
お前が困ると知っていて、無茶なことを言ってきたのに」

 不安げに揺れる紫の瞳が、おそらく今の自分と同じ感情を宿しているのだろうと知って、
エーリッヒは目を伏せた。

「………貴方が本当は誰よりも優しいことを知っていたから。
強くて、でも、弱い場所も知っていたから…。
……よく、解らないけれど。
これが、勘違いで、“好き”を受け取り間違えているのかもしれないけれど」
「私も同じ。お前と同じ気持ちだよ」

 言って、シュミットは、エーリッヒの頬に柔らかくキスした。
 それから、ふと、悪戯げに笑って。

「…エーリッヒ」
「…はい…?」
「キスしたい?」
「な…!? 何を言って…?」

 シュミットの体を引き離し、エーリッヒが慌てるのを見て、シュミットはくすくす、楽しそうに笑う。

「“好き”の種類を確かめる方法として、最も手っ取り早いと思うんだ」

 自分の唇に人差し指を当てて、エーリッヒに囁く。

「したいなら、して。…お前から、な?」

 そう言って目を閉じてしまったシュミットに、エーリッヒは耳まで真っ赤にして困惑していた。が。
 やがて、諦めたように溜め息をついた。
 …その顔は、優しい微笑を浮かべていたけれど。



 ゆっくりと、顔を近づけながら。
 …あと半歩の距離を埋めることが、間違いでありませんように。

 貴方に誓って、今は貴方を愛しているから。


 終わったんだか終わってないんだか(ヲイ)。
 そろそろバレているかもしれませんが、私はそれ以上の身体的接触(…)よりも、ちゅーとか
ぎゅーの方が好きです。あと、髪触らせるのも。
 結末が強引に思えるのは、180°結末を逆転させたからに他なりません(ヲイ)。



モドル