STAY WITH ME TONIGHT




 だれにだって、あると思う。
 いろんなことを思い出して、眠れない夜とか。
 それが例えば、大切な大切なひとのことだったりしたらなおさら。


 僕らがきっと間違った道に進んでいると知っていたりしたら。







 星も月も見えない、深い闇の夜。
 窓の外はすでに肌寒い気候の中で、シュミットはふと目を醒ました。
 暖かいシーツの中で穏やかに微睡んでいた筈なのに、その覚醒はひどく急激にやってきた。
 まるで誰かに呼ばれているような、そんな感覚で身を起こす。
 時計を見れば、時刻はすでに夜半を廻っていた。
 きょろ、と暗い自室を一度見回してから、ベッドを降りる。
暖房は切れたばかりなのか、部屋の中は微かに暖かかった。
 上着を羽織って、部屋を出ようとドアを引く。

「うわ…っ?!」

 途端に倒れ込んできた体を、シュミットは驚いて見下ろした。
 座って、ドアにもたれ掛かっていたのであろう親友に、シュミットは呆れた声で尋ねる。

「…何、やってるんだお前」 
「……ええ、ちょっと」

 上から覗き込んでくる紫色の瞳に、エーリッヒは倒れたまま曖昧に微笑んだ。
 手を貸してやって、シュミットはエーリッヒを起きあがらせる。
 そして、その格好にますます呆れを募らせた。だが、呆れよりももっと、憤りで苦しくなる。
 エーリッヒは、室内のシュミットと同じ格好だったのだから。
 苛々を顔に表し、シュミットは眉間に皺を寄せた。

「いつから廊下にいたんだ」
「え…っと…」

 言いよどむのは、覚えていないからでなく、言いたくないからだろう。
 つまり、かなりの時間パジャマの上に薄い上着を羽織っただけの格好で廊下に座り込んでいたということだ。

「他人には風邪を引くだとか、体を壊すだとか言ってる割に、お前は自分のことには本当に無頓着だな!」

 怒鳴りつけると、エーリッヒはびくりと肩を震わせる。
自分の行いに非があると充分に判っているから、反論もできない。
 だが、本当は知っている。
 怒っているシュミットが、どれだけ自分の身を案じてくれているのか。
 だから、エーリッヒはますますうなだれて小さくなってしまう。

「…ごめんなさい…」

 呟くように謝るエーリッヒに、一つ溜め息をつく。

「莫迦だな。私に謝ったって、どうなるものでもないだろう」
「あっ…、いいです、すぐに戻りますから」

 ベッドサイドに置いてあるリモコンで暖房をつけようとしたシュミットを、エーリッヒは制した。 
 そうか、と言って、シュミットはリモコンを元の位置に戻す。
そうして、代わりにとでも言うように、恋人の細い体を抱き締めた。

「ちょっ…、シュミット…?」
「変な時間に起こされて、眠いし、寒い。少しくらい許せ。…どうせ、すぐ戻るんだろう?」
「……はい…」

 歯切れの悪い答えに、シュミットは心の中で首を傾げた。
 腕の中の体は冷えきっている。
冷たい空気の中で、自分の部屋の前に座り込んでいた彼の真意を、
シュミットはまだ聞いていないことを思いだした。

「エーリッヒ。私に何か、用があったんだろう? なんだ?」
「たいしたことじゃないんです。だから、あの、もう…」
「たいしたことない? たいしたこともないのに、お前はこんなに冷たくなるまで私の部屋の前にいたのか」

 ぎゅう、とエーリッヒを抱く腕に力を込める。
 力を抜いて、エーリッヒはシュミットに全てを預けるように目を閉じた。
シュミットの肩に、エーリッヒの頭の重みがかかってくる。

「…ごめんなさい」

 エーリッヒの反応がいつもと全く違うことに、正直シュミットは戸惑っていた。
 恋人という関係になってから、半年近くが経とうとしている。
キス以上の進展を望むシュミットにとって、今の
エーリッヒの態度は心臓の早鐘を打たせるには充分だ。
 自分の中にある正直な欲望で、シュミットは体が熱を持ってくるのを意識していた。
 このままエーリッヒを抱いていたら、きっとエーリッヒを傷付けてしまう。
だが、離れることを望まない恋人を、シュミットに引き離せるはずがなかった。

「…エーリッヒ…」

 熱を持った声で、シュミットはエーリッヒに囁きかける。
 エーリッヒは何も応えずに、ただシュミットに甘えるように身を寄せていた。

「本当に、何をしに来たんだ、エーリッヒ。
…このままじゃ、抑えが効きそうにない。
お前をベッドに連れ込みそうで恐いよ…」

 ふ、とエーリッヒが顔をあげた。そうして、柔らかく静かな微笑みをシュミットに向ける。
 暗闇の中でも判るその表情に、シュミットは一瞬息を止めた。
 エーリッヒはそっと、シュミットに頬をすり寄せた。

 小さい子供のように。

 久しぶりに会った友達同士の、挨拶のように。



「…一緒に寝ようって、言いに来たんです、シュミット」   



 だけれど、思い立った時間が遅くて。
 きっと彼は寝ていると思ったけど、部屋に帰ってもおそらく寝られない。
 だから、ほんの少しの期待を抱いて、シュミットの部屋の前にいることを選んだ。

「……小さい頃のように」

 親友だった頃のように。

「一緒に寝させて下さい、シュミット」
「お前が後悔しないって言うのなら」
「…後悔、」

 しているのかもしれない。
 彼との関係を、バランスを、崩したことを。
 シュミットは抱擁を解いて、エーリッヒをベッドへと導く。
 シュミットの温もりの残るシーツの中に二人で潜り込んで、
そうして何故だか、二人顔を見合わせて笑った。
 どこかがくすぐったい気持ちを抱えて。
 エーリッヒが身じろいで、シュミットに縋り付いてくる。

「どうしたんだ、今日は随分甘えん坊なんだな」

 抱き寄せて腕の中に閉じこめながら、シュミットはくすくす笑った。
普段は見られそうもないエーリッヒの幼い仕草が見られて、嬉しいのだ。

「…ゆめを、見たんです」
「夢?」 
「そう、夢です」

 シュミットの匂いに包まれて安心したのか、エーリッヒは長い息を吐きながら話し始めた。

「どんな夢?」
「…いろんな夢。小さい頃の夢とか。………貴方が結婚する夢とか」

 ぴくりと、シュミットの肩が揺れた。
 エーリッヒの掌が、ぎゅっとシュミットのシャツを握りしめている。

「…ははっ。莫迦みたいですよね。
…貴方と恋人の関係になることを、承諾したのは僕なのに。
僕が望んだことなのに。
 ……やっぱり恐いと思うなんて。
貴方を失う悪夢で、目が覚めてしまうなんて」







 親友という関係の、一番の利益は、例えば貴方が未来に結婚したとしても、
そのポジションを失わずにいられることです。
 ……恋人という関係では、そうはいかない。







 未来を予想するのは、正しい生き方。
 だけれど、それで不安になって、動き出せないとしたらそれは愚かな生き方。

 不安にさせたくない相手を一番不安に陥れるのは自分なのか?

「…そんな莫迦な夢、忘れてしまえ。私はお前をずっと…」
「言わないで!」

 がばっと、エーリッヒが起きあがる。
 その、淡い青の瞳が恐怖に彩られて見開かれていることに、シュミットは苦々しさすら感じた。

「エーリッヒ」
「お願いです、嘘をつかないで下さい。うそをつかないで…!」
「嘘? 誰がお前に嘘をついたんだ? 私は嘘など吐かない」

 エーリッヒの腕を掴んで、ベッドの中に引き戻す。
 エーリッヒは堅く目を閉じていた。

「…言い直します、嘘になるかもしれないようなことを言わないで下さい。未来に保証はありません。
だから、未来のことを言わないで。
そんな言葉で、そんな安い言葉を積み重ねないで下さい。
人の気持ちに絶対もずっともない。知っているから」
「ああ、知っているさ。だが、私は嘘は吐かない。嘘にはしない。だから聞け、エーリッヒ」


 ずっとお前を愛していくって。
 誓うから。
 他の誰でもない、お前に誓うから。


「嫌です! あなたは解ってない。僕も貴方も、今の気持ちが本当か嘘かなんて…」
「本当か、嘘か。そんなことを気にしてお前を逃がすくらいなら、
嘘でも私は今の気持ちに素直である方を選ぶ。
 後悔なんてその後でいい。
何もしない先から未来の後悔に怯えて何もしないなんて、そんなのはもうまっぴらだ」


 強く掴んだ腕が、熱い。

 どうしたら判って貰えるのだろう。
 真っ直ぐに正直な自分の気持ち。

「…どうして、僕は…」

 選んだのだろう。
 一番不安定で危険で、恐怖に怯える道。
 どうして求めたのだろう。
 傍にいるだけで良かったはずの相手へ、それ以上の接近を。

 エーリッヒは嘲笑を隠すように、下唇を噛んだ。

 理想とのギャップも、知らない部分を知ることへの不安も、何もない二人だった。
 だからこそ、近づきすぎると恐くなる。

 幼い頃から同じ笑顔をする、この人はいつでも本気だと知ってはいるけれど。



 いっそ嫌いになれたら、楽になれるのに。



 嘘か、本当か。
 現在の気持ちが嘘でないことくらい、知っている。
 だけれど。
 未来には嘘になっているかもしれない。
 だから、安っぽく嘘にしないなんて誓わないで欲しかった。
 その言葉すら嘘になったとき、それでは悲しすぎるから。

 シュミットは柔らかく、エーリッヒの額にキスを落とした。
 銀の細い髪に、指を通す。

「…お前は、私を好きだと言ってくれた。なぁ、あの言葉は嘘か?」
「いいえ。嘘じゃない、貴方が好きです。好きじゃなかったら、こんなに、失うことに怯えません…」
「お前の気持ちは分かるよ、ほんの少しだけど。だけど、なぁ、もっと我が儘になっても良いよ。
お前の体が冷えないように、真夜中でも私を叩き起こせば良いよ。
受け止めてやれる。だから、隠さないで。
お前の本当の気持ちも、欲望も、隠さないで私の前にさらけ出してくれ。
…お前は、なぁ、私に何を望む?」
「…傍に、居ることを」

 エーリッヒが、震える言葉を紡ぎ出す。
 シュミットは優しく溜め息をついて、そっと唇に触れるだけのキスをする。
 途端に頬を染めたエーリッヒを、シュミットは慈愛を含んだ瞳で見つめていた。

「お前は数学が苦手なくせに、方程式は好きなんだな。
答えのないもの、理屈のないものはそんなに信用に値しないか?」

 抱き寄せる腕も、触れてくる唇も、拒絶できないから不安になる。
 このまま、この甘い夢の中にいつまでいられるの?



 子供の頃に戻りたい。



「…好きも愛してるも、本当は言い訳だよ、きっと。誰でも、欲しくてたまらない相手にそう言うんだ。
自分と相手への言い訳のために。
……私だってそうなんだ。
…お前は、どうだ?」

 矛盾していると思う。
 だけれど、二人で居ることの不安を、二人の安心に変えていきたいんだ。

「判りません。でも、きっと、多分……」







 恐いよ。
 触らないで。
 だけど、傍にいてほしいなんて。


 矛盾だろう。


 愛してるとか愛してないとか、そんなの。
 理屈じゃない。
 だからこそ、怯えながら、手探りで愛して。


 微妙にサーフィスの黄色いCD(ROOT)の8曲目。


モドル