僕は君を壊したくて。
壊したくて、壊したくて、壊したくなくて。
何度も何度も囁くんだ。
何度も何度も呟くんだ。
何度も何度も叫ぶんだ。
何度も何度も誓うんだ。
何度も何度も何度も。
言うんだ。伝えるんだ。
君に。
「Ich liebe dich」
あたたかい紅茶が注がれる、上品な陶器は黒と白の地に、金の獅子の彫刻。
テーブルに用意されたダージリンを、シュミットは引き寄せて口に含んだ。
緩く息を吐いて、それを淹れた親友を紫の瞳に映す。
見慣れた微笑がアメジストの中で輝く。
カチャリ、4枚目のソーサーにカップが収まる。
「ありがと、エーリッヒ」
飲み物のカップを持ったまま、ミハエルはエーリッヒに笑いかける。
「どういたしまして」
エーリッヒは柔らかに応える。
琥珀色の液体から、湯気がゆっくりと立ち上り、拡散していく。
シュミットは何も言わず、喉を潤す。
アドルフ、ヘスラーの分の紅茶を淹れて、それから自分のぶんを淹れて。
お茶請けに買ってきたパイを人数分切り、小皿に取り分ける。
チャリ、チャリ、銀のナイフが白い皿に当たる、どこか涼やかな澄んだ音。
すべてが終了してから、エーリッヒは初めてシュミットの隣に座る。
流れるような一連の所作には、完全な慣れと習性。
彼は、いつも、自分を一番後回しにする。
「エーリッヒって、優しいけど、優しすぎるよ」
エーリッヒは苦笑して、そうですか、と言う。
─そうだよ。自分の事なんて、ちっとも考えていないんでしょ。
─そんなこと無いですよ。僕だって、自分のことも考えます。
─どうせ、その他のことをすべて考え終わってからなんでしょ。そんなの、自分のこと考えてるなんて言わないよ──
シュミットは、何も言わず、何もせず。
当然のような空気を流す。
彼にとっては当然なのだ。
親友はいつも傍に居る。何も言わずとも傍に居る。それはそれは傲慢な。
思い込みではないのか。
ミハエルは両翡翠を二人に向ける。
「僕、エーリッヒの淹れるお茶が、いちばん好きだよ」
「光栄ですね」
エーリッヒは。
青い瞳で笑っている。
変わらずに寄り添う二人。
其処に見えるは油断と、寂寥。
「ねぇ、シュミット」
ミハエルは提出用の書類を見せに来たシュミットを呼ぶ。
「何ですか」
部屋の中には2人だけ。他の3人はパソコンに向かって、膨大なヨーロッパレースのデータ整理に終われている。
もうすぐ始まるオーロラカップのために、アイゼンヴォルフの面々は忙殺されていた。
その為に、息抜きのティータイムは本当に心安らげる時間になっている。
その中で、シュミットは。
親友に。恋人に。
一声も。一言も。
「君、少し油断しすぎじゃないの?」
変声期前の少年の声に、形のいい唇はつり上がり、小馬鹿にしたような笑みが秀麗な顔に浮かぶ。
艶々とした栗色の髪が、さらりと揺れた。
「私には、油断している自覚はありませんが? この忙しい時期に、油断している暇など有りませんよ」
「それが油断だって言うんだよ」
長い黄金(きん)が流れる。
緩く暖房の音が耳障りだ。
木目美しい机に、数枚の書類が置かれた。
細く白い指が、ミハエルがサインすべき場所を指し示す。
ミハエルはそれを横目で一瞥して、下からシュミットの目を睨み込む。
「自分が忙しくて疲れてたら、エーリッヒには何も言わなくて良いの? 何も伝えなくても良いの?」
シュミットは無言で空欄(ブランク)を指し示す。
ミハエルはペンを取り、黒い無機質な文字を刻む。
「………伝えないつもりなど」
吐き出すような小さな声は、毛足の深い絨毯に落ちて消える。
葡萄(えび)色の絨毯の中へ。
言葉は消える。
カサカサ、小さな手が紙を捲る。
「伝えなくても、君の親友は判ってくれるんだ? それだけの時間を共有してきたから」
机の上を、紙一枚隔ててペンが滑る。ザリザリ、独特の音が時計の秒針と重なる。
伝えない想いは伝わらない。
当たり前。
「ちゃんと言葉にしないと、いくらエーリッヒでも傷つくよ」
優しい言葉を。
トントン、端をそろえる。数枚の書類へのサインは終わった。
優しい言葉を?
「そういう意味では、君よりも僕の方がエーリッヒには優しいからね」
言葉を。
─ありがとう
─エーリッヒって優しいね
─おいしい。
─大丈夫?
─エーリッヒと居ると癒されるよ
─大好きだよ─
そんな言葉で。
エーリッヒを幸せにできるのなら。
書類を受け取り、部屋を出る。
足音はせず、ドアの閉まる音だけが響く。
バタン。
すべてを終えて部屋に戻ると、すでに短針は−60度の位置にあった。
大きく息を吐き出して、ユニフォームを脱ぐ。
冷えた部屋の空気の中で、シュルシュル、衣擦れの音。
コツコツコツコツ。
ノック4回で返事を聞かずにドアを開ける。それではノックの意味がない。
「あ、悪い」
そんなに悪いとは思っていない。
別に構わない。
今更。
視線は逸らされない。
夕闇色の瞳を睨む。
蛍光灯の下の薄い笑み。
蛍光灯の下の褐色の肌。
ドアを閉める。ガチャリ、鍵の音。
我が物顔で部屋の中へ。ベッドに腰掛ける。
机とベッドとクローゼット。鏡と本棚とノートパソコン。カーテンと時計と、黄色いボールペン。
小さな部屋にはエーリッヒの匂い。
腕を後ろについて喉を反らすと、ギッ、ベッドが軋んだ。黒いベッドヘッドには銀色の金具。
「…何か言えってさ」
「は?」
臆面もなくシュミットの前で服を脱いでいたエーリッヒの表情が、怪訝に歪んだ。
シュミットは面白そうにそれを見ている。
「何か言えと、ミハエルに言われた」
「何を?」
寝間着に使っている白いシャツを羽織って、濁った透明なボタンを留めていく。
指先の動きは見とれるほどに滑らか。
「伝えなければならないこと」
「貴方が、僕に?」
「そう」
「今更?」
くすくす。
笑い声に皮肉の音調。
余裕の中に見え隠れする焦燥と哀愁。
エーリッヒはいつも、冷静で情熱的で、泣きそうな顔をする。
今にも消える炎のような。不安が見える。
「優しい言葉を掛けてやれと。あの人は言う。お前を気遣ってやれと」
シュミットは余裕のある笑みで、親友の動きを捕らえている。
壊れ物を扱うように?
こいつはガラス細工なんかじゃない。
もっと強かで、もっと脆い。
「エーリッヒ」
シュミットは、疲労の濃い彼の名を呼ぶ。
響きが好き。
だから、幾度となく呼ぶ。
意味もなく呼ぶ。
「何ですか、シュミット」
響きが好き。
だから、意味もなく応える。
その時間が好き。
冷えた空気が、パリパリ、どこかで音をたてる。
「それを、お前は望むのか?」
もしもその言葉が、その響きが、エーリッヒを幸せにすると言うのなら、いくらでも麗句を上げ連ねることはできる。
優しい言葉を掛ける事なんて、単純すぎて難しいくらいで。
手間やプライドや、そんなものをエーリッヒの前で。今更惜しむつもりなんてない。
それでも。
「…いいえ」
ゆっくりと、エーリッヒは首を振る。
言葉に変えられる思いなどあまりにも少なく。言葉にしてしまえばいかにもちゃちなものもあり。
二人の関係は言葉で変えられるものではなく。
ただ、少しかなしそうに笑う。
それがエーリッヒ。
言えばいい。
言葉が欲しいのなら、言えばいい。
そんなことまで我慢するから──彼は大莫迦者。
シュミットは知っている。
掛けたばかりの白いボタン。
眠いんですけど。エーリッヒはシュミットに近づく。
正確には、自分のベッドに。
眠ればいいだろう? シュミットは笑っている。
アナログ時計からは時を刻む音。カチ、カチ、カチ、カチ。
見慣れた窓の外には何も見えない。真っ黒の鏡の中で、二人の少年が向き合っている。
「…貴方の事なんて、今更訊かれずとも判っているんです。言葉にされなくとも。貴方が僕のことを
疎かになんて思っていないことくらい」
どんな忙しいときでも、忘れたりしていない。
自分がそうなように。
シュミットはにやりと笑う。
嬉しそうに。悪戯っぽい笑顔は幼い頃から変わらない。
「だから、言葉なんて、要りませんよ」
本音と建て前。知っているよ。
エーリッヒの腕を掴む。
整えられた白いシーツの上に、褐色の長身を引き倒す。
睨んでくる、春の空色の瞳。
関係ない。
細い躰にのし掛かる。
白いベッドが軋む。
抵抗は弱い。
「…Ich liebe dich」
そっと耳元で囁いた。
知っているよ。
伝えなければいけない想いはこのひとつだけ。
「…シュミ、」
目を見開き。息を止めた。恋人。
一呼吸置いて。穏やかに、笑う。
唇を重ねる。柔らかく。
離す。
薄く色づく頬。
エーリッヒの腕がシュミットの首に絡む。
引き寄せる。
重なる。
「Ich liebe dich」
ストレートな愛の告白に弱い恋人は、少し照れながら瞬間安心して。
彼は未来を信じない。だから刹那をこんなに愛す。
未来を信じない彼は言葉を愛す。
だから彼は嘘を吐いている。
冗談でもいいから優しい言葉を。
机の上の本から覗く、薄緑の栞。
嘘でもいいから暖かな安らぎを。
ハンガーに掛けられた、赤のユニフォーム。
シュミットは言葉を信じない。それは言ってすぐに覆される可能性のあるものだから。
だから、言葉以外を求めて。
だから、強く強く抱き締めて。
痛みとあたたかさで安心させて。
花弁のように唇を食む。
食む。
生きていく。
何度も何度も確かめるように。相手の温もりを。呼吸を。心音を。
そうしていつの間にか意識を失う。
外見が似ている、銀の猫。内面が似ている、栗色の猫。身を寄せて眠る、二匹の猫。
目が覚めたらまた笑って。
「Guten Morgen」と。
おはようのキスをするのだろう。
エーリッヒの穏やかな寝顔に。
シュミットは心の中で誓う。
ケルン大聖堂の完成までに要した時間と同じだけ、
これからも彼を愛し続けていくことを。
とくん、とくん、とくん、とくん、
とくん、とくん、とくん、とくん。
【了】
「音」と「色」による描写に挑戦、失敗。(捧げモノを実験台にするのは止めて下さい)
楽しかったのは「食む」という言葉の意味と音を存分に発揮できたことです☆★☆
しかし………これ…シュミット様格好良いか…??(駄目ぢゃん)
これじゃあお詫びになりませんね? 御免なさいあきらさん……ッッ!!!
モドル
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