焦燥感
…僕がいなくても。
パソコンのメールチェックをして、祖国からの報告に目を通して溜め息をついた。
今のところ、全勝。
このままいけばきっと、彼らは輝かしい全勝優勝をしてくれるだろう。
それは、最高。
最高のことの、筈なのに。
いたたまれない気持ちになって、僕は今のチームメイト達に一声かけて、宿舎を出た。
この国の春は早くて、あたたかさと優しさを孕んだ風が僕をなでていく。
地理感はあるから、もうこのあたりで迷うことはないだろう。それでも、なんだか迷いたい気分になって、
始めての道を辿ってみた。迷子になればそれなりにチームの皆にも迷惑をかけることになるから、
僕は迷子にはなれないだろうけれど。
ときどき角を曲がりながら、知らない方へ、現実よりもずっと、遠いところへ。
自分で自分がさっぱり判らない。
…違う。判らないふりをしているだけだ。
本当はすべてを知っていて、知っているからこそ。
なんて嫌なコドモだろう。
でも、知っていて知らないふりをするのは子供だからこそなのかもしれない。
大人を喜ばせるために、子供は知らないふりをする。
だけれど、僕の場合は違う。
僕は僕自身を騙すために、知らないふりをしている。
焦燥感が胸を焦がす。
この焦燥感の正体さえ、僕は知っているくせに。
焦燥感のその裏には、虚無感や寂寥感が伴っている。
一人なわけじゃない。
仮初めとはいえ、仲間がいる。レースでは戦うとはいえ、友人も数多くできた。
それなのに、あまりにも贅沢で我が儘な寂寥感。
レースでも日常でも、自分の隣が空いているという、ただそれだけのことで。
今まであの人がいてくれた、その場所が空いているというだけのことで。
それが、今の僕にとっては“ただそれだけ”のことなんかじゃないということが、
僕にはあまりにも怖ろしい。そこまであの人の存在が僕の中で大きくなっているなんて。
判ってはいた。
彼が僕を日本に行かせないと言ったときに、僕は彼に自分の胸中を話した。
……話したように、見せかけた。
一人で日本に行くなんて不安で、嫌で。
……本当に?
二軍を連れて一足早くこの国の大地を踏むことを、承諾したのは自分。自分の意志。
嫌じゃなかった。むしろ、それを僕は甘受した。
表向きの理由は、僕がそこで必要とされていると思ったから。彼は僕がいなくても
大丈夫だけれど、こっちにはそれなりの実力を持った誰かが必要だから。
…裏は? ただ、彼から逃げたかっただけ。けして叶わないくせに、日増しに大きく
なっていくその感情から目を背けたかっただけだ。
忘れられるはずがないことも、離れればそれだけ大きくなることも判っていた。判っていたけれど、
すこし離れたかった。あれ以上彼の傍にいれば、抑えられなくなりそうだったから。
付き合いたいとか、そんなわけじゃない。ただ、好き。本当に、それだけ。
望みがあるとしたら、ずっと側にいたい、と。あまりにも幼稚な、だけれどきっと、誰も莫迦にできないようなことしか思いつけない。
だからこそ、苦しいんだ。
傍にいたいからこそ、吐き出せない想い。
出発前に抱きしめてくれた腕の温度を、今でも忘れることができないなんて。
幼なじみの彼は、僕の不安を知って抱きしめてくれた。抱きしめられる行為に抗わなかったのは、僕だ。
後からその行為がどれだけ、自分を苦しめるか知っていて、僕は抵抗しなかった。
…なんて、莫迦なんだろう。
自分を縛りつけているのは良識や道徳心。それを放り出してしまえればどれだけ楽だろう。
でも、僕にはそれは出来ない。そして、彼をこんな醜い感情の中に巻き込むことも出来はしない。
この感情を告げたら、彼はきっと静かに笑って、「そうか」と言ってくれるだろう。
そうして、自分にはお前を愛すことはできないけれど、親友でいて欲しいと言ってくれるだろう。
周りには傍若無人で高慢だと思われていがちな彼は、その実とても繊細で優しい人。
プライドが高いから、あまり他人に打ち解けようともしない。それに、どうも彼自身で自分の傍に置く
者を限定している気がする。特に、レベルにおいて。彼は自分よりも劣る者を側に置くことを極端に
嫌う。そういえば彼はドイツの学校で、その意味で一人でいることが多かった。
そんな彼の傍にあり続けられたことが、僕には嬉しくて仕方なかった。
彼に『選ばれた』者として、彼と共に成長して来られた、それだけで幸せだった。
…幸せだった、筈なのに。
一体いつからだろう、彼に親友以上の想いを抱くようになったのは。
いや、僕は未だ判っていないのだと思う、この感情の正体を。
本当に『恋』なのかなんて、判っちゃいないんだ。
とは言っても、きっと、世の中のほとんどの人はわけの判らないこういう感情を『恋』って
名付けて自分自身を納得させているのだろうけれど。
傍にいたいって、この感情は、彼を必要としている、僕の心のものなのだろうか。
それとも、
あまりにも長いこと傍にいすぎたために、横殴りの風に弱くなってしまった、僕の体のものなのだろうか。
随分とゆっくり歩いていたはずなのに、周りの景色はまったく見慣れないものになってしまった。
往路を覚えているからまだ大丈夫だけれど。
僕は通りかかった公園に入って、そこのブランコに腰掛けた。
ゆっくりとそれを揺らすと、キィ、キィと錆びついた寂しい音がした。
「…あなたは僕がいなくても、何でもできるのでしょう…?」
晴天に向かって呟く。
そう。
僕に依存していると言ってくれた彼は、僕がいなくとも走ることができる。…勝つことができる。
でも、僕にはできない。
必死に走っても、どんなに頑張っても、僕は彼がいないとなにもできない。
…それはきっと思い込みなのだろうけれど。
僕もきっと、あの人と同じように一人でも生きていける。
くすぶったままに僕を焦がす焦燥感は、燃え上がることをしないから余計に長く続いて。
熱いと悲鳴をあげることもできない温度のままに僕の中にあり続ける。
こんな僕が、いつまで彼の傍に居続けることができるのだろう。
彼が許してくれても、きっとそのうち僕自身が許せなくなるに違いない。
彼よりもずっと弱くて情けない自分が、彼の傍にあることを。
…彼はチームの今の順位を、僕の走りをどう思っているだろう。
仮にもアイゼンヴォルフの名を冠したチームが下位に低迷していることについて。
上層部も、まさか、こんなに苦戦する(裏返して言えば強豪チームが揃っている)とは
思わなかったのだろうけれど。
失望しているだろうか、僕を信じて一足先に送り出してくれたみんなは。…彼は。
「…あなたは変わらないのだろうけれど、僕はこんなにも変わってしまう。
シュミット、あなたがいないだけで…」
彼の隣で走れる自分を、今はまだ無くしたくない。
たとえ苦しくても、そのためには僕は戦い続けるしかない。
逢いたいけれど逢いたくない、微妙な感情を押し殺したままで。
…いつもの僕であるために。
【了】 |
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