青空が深く高く、澄み渡った綺麗な日だった。 FIRST ANNIVERSARY WITH… シュミットはその日、久しぶりに本でも読もうという気分だった。 普段はミニ四駆にかかりきりなのに、時々そんな気分になることがある。 外で遊ぶことより、家の中にいることを望むような時が。 しかし、特に読みたい本があるという訳ではなく、この学校の図書館は7歳児には広すぎて、 好みの蔵書に行き着ける可能性は低い。 誰かにお薦めの本でも紹介して貰うのが、最も理想的だった。 シュミットは、そろそろ終わった頃だろうと、家庭科室に向かった。 本日、いつも一緒にいる同室者は“貸し出し中”である。 押しに弱く、フェミニストの傾向のあるエーリッヒは、 同じクラスの女子の頼みを断りきれなかっ た。 手先が器用でこまこま良く働く彼は、人渡りが上手いようでヘタだった。 自分から苦労を背負い込む癖は、人を捌くのが得意なシュミットには滑稽に見える。 エーリッヒがトラブルの渦中に巻き込まれていくのを傍観して笑っているのが、 シュミットのここ一年のお楽しみだった。 今日も、エーリッヒは女子と喋っていたときに、うっかり口を滑らせた。 姉の手伝いで、ケーキを焼いたことがある、と。 家庭科の先生に頼み込み、家庭科室を借りてお菓子作りを計画していた女子達は、 手伝いでやったことがあるだけですからと逃げようとしたエーリッヒに、それを許さなかった。 結果、エーリッヒは昼食後の一時間半を、マシンメンテナンスではなく、 お菓子作りに費やす事と相成ったのである。 宿舎から学校に入ったシュミットは、一階の突き当たりにある白いドアを開けて、 ひょいと中を覗き込む。 「あ、シュミット君!」 目ざとい女子の一人が、素早くシュミットの名を呼んだ。 学校からの借り物の、白い飾り気のないエプロンを付けたエーリッヒが、顔を上げる。 洗っていた泡立て器を置いて、水を止めた。 「どうかしたんですか、シュミット?」 甘い物が得意ではないシュミットは、滅多なことではお菓子作りをしている場所には近付かない。 もしや火急の知らせかと、エーリッヒは小走りでシュミットの方へと近付いた。 ケーキの焼き上がりを待ちながら、後片付けをしているようだった。 が、お喋りをしながら洗ったものを拭く係の2人より、 一人で洗っているエーリッヒの方が断然ペースが早い。 拭いた器具を片付けていく子も、作業スピードは極めて遅かった。 「いや、本を選ばせようと思って」 エーリッヒは、何度か目をぱちぱちさせた。 「本を? それだけのために来たんですか?」 「悪いか?」 エーリッヒの反応が気に食わなくて、 シュミットはエーリッヒを睨んだ。 家庭科室には甘く香ばしい香りが漂っている。 エーリッヒは慌てて首を振った。 「そんなことはありません。ただ、珍しいなぁと思って…」 苦笑いを浮かべるエーリッヒに、シュミットはふん、と言った。 チーン、と、ケーキの焼き上がりを知らせる音が響いた。 「できあがったな。じゃあ、図書館へ行こう」 エーリッヒの腕を引いてさっさと出ていこうとするシュミットを、エーリッヒは引き止めた。 「待ってください。まだ、あとかたづけが終わっていないんです」 「片付けくらい、あいつらにさせろ」 「そういうわけにはいきません」 ぎゅっと眉間に皺を寄せたエーリッヒを見て、シュミットもまた眉根を寄せた。 「はいはいはいはい、バカやってないで!」 睨み合ったまま動かなくなった二人の間に割って入ったのは、 ケーキ作りをしていた女子の一人だった。 彼女は、二人を引き離すと、くるりとエーリッヒに向き直った。 「今日はありがとう、エーリッヒ君。助かった。 後は私たちでもできるから、行ってくれていいよ」 にっこり笑うと、その子は、エーリッヒに焼き上がったばかりのケーキを一本、渡した。 綺麗なきつね色に焼き上がったケーキは、シュミットにはパンのように見えた。 「はい、エーリッヒ君のぶん。シュミット君と食べてね」 それを聞いて、シュミットはますます不機嫌な顔になる。 「私はケーキなど食べないぞ」 「なによ。私たちの作ったものが食べられないって言うの?」 二人の間の空気が、一瞬にして凍る。 あわや一触即発か、と危ぶんだエーリッヒの目の前で、 女子はクルリとシュミットに背中を見せた。 「なーんてね。それを作ったのはエーリッヒ君。私たちじゃないわ」 女の子達に手本を見せてと言われ、エーリッヒは結局ケーキを一本焼いたのだった。 シュミットは、エーリッヒに視線を移した。 エーリッヒは、にこりと微笑んでみせた。 その後、シュミットとエーリッヒは図書館に寄ってから、 のんびりと宿舎まで歩いて帰った。 部屋に帰る前に、給湯室に寄ると言ったエーリッヒに、シュミットは 「ああ、なら紅茶を入れて来い。前よりもむらし時間は短めでな」 と指示した。そして、自分は先に帰る、と付け足した。 エーリッヒは、僕は貴方の召使じゃないですよ!? と言おうとして止めた。 「そうだったのか?」と笑いながら返されるのがオチだ。 シュミットは、何かとエーリッヒを便利に使うことがあった。 付き合う人間を厳選する癖のあるシュミットにしてみれば、 我が儘を言えるような相手ができたのが嬉しくて仕方ないのかもしれない。 二人で隠した、上質のダージリン茶葉を取り出しながら、エーリッヒはふぅ、と溜め息をついた。 使われることには慣れているので、そう苦痛ではないし、 どうしても耐えられない愚痴があるならシュミットに直接も言っているので、 たいしたストレスは感じない。 僕が我が儘を言ったら、シュミットはどう思うだろうか? そんなつもりは全くないけれども。 自室に入り、シュミットは鞄を机の上に置いた。 エーリッヒに薦めてもらった本を取出し、ベッドに身を投げだす。 表紙に目を走らせてから、ページを捲った。 数ページを読んだところで、ノックの音を聞いた。 返事をすると、トレイを持ったエーリッヒが現われる。 「ずいぶんおぎょうぎがいいですね、シュミット」 ベッドに寝転んだままのシュミットに、エーリッヒは皮肉を呟いた。 シュミットは、生返事を返す。 エーリッヒは、自分の机にトレイを置いた。 トレイには、紅茶の用意と、先ほど焼いたケーキを切り分けたものが乗っていた。 「シュミット。紅茶、いれましたよ」 「んー…」 また生返事だ。 エーリッヒはため息を吐いて、ケーキを齧った。 シュミットは、本の世界に没入していた。話の流れが綺麗で、とても引き込まれる。 生き生きした文章とでも言うのだろうか。 シュミットは、夢中でページを捲っていた。 と、突然上着が引っ張られた。 「レースしましょう」 不機嫌に視線を投げたその先で、淡い青の瞳が笑っていた。 「…勝手にしろ。私は、今日は本を読みたい」 「逃げるんですかー? こんないいお天気なのにー?」 …いい天気は関係ない。 本に戻しかけていた視線を、シュミットは空中で止めた。 「…エーリッヒ?」 エーリッヒは、じっとシュミットを見つめていた。 常にはない、人の悪い笑みがその口元に浮かんでいる。 今のエーリッヒは、どこか…、おかしい。 「エーリッヒ、どうしたんだお前…」 「別に、どうもしてませんよー?」 間延びした返事が届く。 「それより、レースしましょうよ、レース」 「…だから、今日は そんな気分じゃないんだ」 言うと、エーリッヒはぷぅと頬を膨らませた。 「いっつもそうだ。シュミットばっかりわがまま言ってー。 たまには僕の言うことも聞けよー」 ぐいぐいと服を引っ張ってくるエーリッヒの言葉遣いさえ、常のものとは違った。 仄かに色付いた頬と、楽しそうに吊り上げられた唇が、それを物語っていた。 ふと、シュミットの瞳に、テーブルの上にあるものが映った。 自分がいれろと言った紅茶と、エーリッヒが作ったケーキ。 「…エーリッヒ、そこのケーキを一切れ、取ってくれないか」 今の状況を考慮に入れて、 いつもより丁寧に頼んでみる。 エーリッヒは、目を細めた。 「…食べたいの?」 「…ああ」 「じゃあ、「下さい」って言えよ」 ぴくん、とシュミットの眉が動いた。 プライドの高いシュミットに、エーリッヒの要求は厳しい。 「いい加減にしろ、エーリッヒ!」 怒鳴ると、エーリッヒはびくっと躰を竦ませた。 拍子に、シュミットの服から手が離れた。 「…ご、ごめんなさい…。僕…」 ふにゃっと下がった眉に、シュミットはぎくりとした。 エーリッヒの瞳が潤み、今にも泣きそうな様子を呈しだす。 シュミットはますます焦った。 「なっ…、泣くな!」 俯いてしゃくり上げ始めたエーリッヒに、シュミットは怒ったように言った。 だって…、と俯いたまま呟かれた言葉は、ひどくか細かった。 エーリッヒは、同年代の子供達と比べるととても大人びていた。 静かで落ち着いていて、ものの分別を弁えている。 だから、突然普通の子供と同じになられると困ってしまう。 よしよし、と取り敢えずエーリッヒの頭を撫でて、ご機嫌取りをしてみる。 「…、…シュミットぉ…」 涙声に、シュミットは、何だ、と言った。 「レースしましょう…?」 「何でそこでそうなる!?」 「ダメですかぁ…?」 再び泣きそうな気配を見せるエーリッヒに、シュミットは完全に気後れした。 「わ、判ったよ! レースでもなんでも、やってやる!」 「ほんとですか!?」 ぱっ、と顔を輝かせたエーリッヒには、泣いていた形跡はどこにもなかった。 「…エーリッヒ…、嘘泣きか…?」 剣呑さを含んだ声にも、エーリッヒは動じなかった。 「上手だったでしょう?」 得意げなエーリッヒの笑みに、シュミットはムカっぱらが立った。 しかし、そこですぐにキレてしまうほど、シュミットは考え浅くは無かった。 「…エーリッヒ、ケーキを取れ」 「取ってくださいー」 「…エーリッヒ様、ケーキを取っていただけませんでしょうか…?」 こめかみ辺りが引きつるのを感じつつ、シュミットは必要以上に丁寧に言った。その言葉に 満足したのか、エーリッヒはにーっこり笑って、ケーキを取った。 少し顔をしかめてから、シュミットはそのケーキを口に運んだ。 「あ…」 口の中に広がったのは、程よい、上品な甘さだった。 シュミットでも、食べられるような。 もぐもぐ、ケーキを味わって、飲み込んでから、シュミットはエーリッヒに向かった。 「エーリッヒ、お前、酔ってるだろう!」 シュミットが食べたケーキからは、ラム酒の風味がしたのだ。 大体、最初からおかしかったのだ。 エーリッヒが、例えレースがしたくとも、 読書に専念しているシュミットにそんなわがままを言うはずがない。 エーリッヒは、重たくなってきた目蓋をなんとか持ち上げていた。 「酔わないよー。僕、お酒には強いんですーだ」 「どこがだよ…」 呆れ果てた声が出た。 ラムケーキに使われるラム酒の量は、多く見積もったところで大さじ2、3杯だ。 その程度の量でここまでべろんべろんになるやつが、酒に強いハズがない。 エーリッヒはそれに頓着せず、シュミットのベッドに上がる。 そうして、座っているシュミットの横で、ころんと横になった。 「…何のつもりだ、エーリッヒ」 酔っていると判っているので、押さえた声で聞く。 「眠くなったのでー、寝ます」 「ここは私のベッドだぞ…」 目の前に自分のベッドがあるくせに、どうやらそこまでの移動さえも億劫になっているらしい。 「大丈夫だよー、広いし」 「そういう問題じゃないだろうが…」 眉間に深い皺を刻んだシュミットは、もう勝手にしろ、と呟いて再び本を開いた。 薄く目を開けて、エーリッヒはそれを見ていた。 「…シュミットぉ…」 今度は何だ、と思いつつ、シュミットは無視を決め込むことにした。 酔っ払いの相手は、しないに限るのだ。 「…怒ってる?」 つんつん、と上着の裾を引っ張る力の弱さに負けて、シュミットは首だけを後ろに振り向けた。 ちゅっ。 その瞬間、唇が柔らかいものに触れた。 「……な、っ…」 「機嫌、なおった?」 あまりの出来事に言葉をなくすシュミットを、エーリッヒはにこにこしながら見ていた。 「なっ…、何をするんだッ! なおるわけないだろう、男からのキスなんかで…!」 大声で抗議しだしたシュミットに、エーリッヒはえー? と首を傾げた。 「でも、マリーとか姉さんと喧嘩したときは、ごめんねってやるよー?」 「馬鹿者が!」 言って、シュミットはエーリッヒの頬に口付けた。 「仲直りのキスなら、ここだろう!?」 「…そっか」 少し考える素振りをしたエーリッヒは、嬉しそうに笑って、シュミットの頬にキスをした。 「…っ、だから何をするんだっ! やり直さなくていいんだよ!」 ばっ、とエーリッヒの躰を引き離して、シュミットは叫んだ。 エーリッヒは、めげずにがばっとシュミットに抱きついた。 「えへへ、シュミット大好き〜…」 完全に酔いきっているエーリッヒに、シュミットはため息をついた。 抱き締めてくるエーリッヒを、ベッドに押し倒す。 「もういいから寝ろ、この酔っ払い!」 「いーの…? シュミットのベッドだよ?」 「お前の相手させられるよりましだ!」 エーリッヒは幸せそうに微笑んだまま、快い眠りに落ちていった。 シュミットは大きくため息を吐いて、がっくりと肩を落とした。 そうして、二度とエーリッヒには酒を飲ませてはならないと思い知らされたのだった。 後日、エーリッヒは酒に強いと主張するエーリッヒの姉と、 弱いと言い張るシュミットの慎重な共同実験により、 エーリッヒは『大部分を麦と果実によって造られた酒には強い』ことが証明されることになる...。 〈了〉 サイト一周年記念、シュミット・エーリッヒ初キス小説(あほで済みませ…) |