情緒不安定期と重なる君の思い出



「どうかしたの?」
「えっ?」

 会って早々に尋ねられて、エーリッヒは慌てた。普段と変わらぬ振る舞いを
していたはずなのに、いともあっさりとそれが虚勢だと見破られたからだ。しかも、

「恋煩いとか?」

 ズバリ言い当てられた。
 エーリッヒは苦笑して、目の前でジュースの缶を握る赤髪の少年を見た。


 練習用コースにマシンの調整に来たエーリッヒは、そこで偶然にも烈に会った。
ちょうどベンチで休憩していた烈が、冒頭の台詞をエーリッヒに言ったのは、
エーリッヒが烈の前を通り過ぎようとしたまさにその時だったのである。

 WGPの最初のレースで顔合わせをして以来、烈とエーリッヒはかなり親しくなって
いた。お互いに、お互いを認めあえる実力を持っているし、相手から学ぶところも多い。
…それと、同じような性格をしているせいかもしれない。

 烈は、こくんと喉をならしてジュースを飲み干すと、じいっとエーリッヒのブルーグレイの
瞳を見つめた。

 …この可愛らしい少年は、ときどきとんでもなく鋭い。

 エーリッヒは観念したように、烈の隣に腰を下ろした。

「どうして判ったんですか? 僕がいつもと違うと」

 烈の問いには答えずに尋ねると、烈は小首を傾げる。

「んー…、なんとなく。無理してるみたいに見えたんだ」

 その台詞に、いつも何も言わずに自分の心理状態を理解してくれた親友の姿を思い出す。

 …末期かな。

 エーリッヒは目頭を押さえるような仕草をした。この場にいないその人物の像を、
自らの瞼の裏から追い出すために。

「大丈夫?」

 気分でも悪くなったのか、と心配して聞いてくる烈に、エーリッヒはとりあえず笑顔を作って、
大丈夫です、と言う。

 …それが痛々しくて見てられないんだけどなぁ。

 烈はいったん立ち上がり、空き缶をゴミ箱に入れる。
 からん、という音がして、エーリッヒはさらに強く目を閉じた。
 何をしていても、どんな音を聞いても、それは確実にエーリッヒの中で一人の少年と
結びついてしまう。
 どれだけ追い出そうとしても、彼は確実にエーリッヒの中で息づいていて。
 忘れることなど出来るはずもなく。
 逢えないという状況が、さらにエーリッヒを苦しめるのだった。

 初めのうちはレースの報告やらなにやらで多忙な毎日を送っていて、寂しいと感じることも
なかったのに。日本に来て2ヶ月、最近、ようやく慣れはじめた生活に余裕が出来てから、急に
苦しくなってしまった。痛いと感じた。
 彼を思い出させるもの全てに腹が立った。
 こんな思いをしなくて済む全てのものを羨んだ。

 …確実に、情緒不安定だと思った。

「……参ったな…」

 弱々しい声に、烈は狼狽した。エーリッヒは、いつも強く前を見つめている人だと
思っていたからだ。こんな姿をいきなり見せられては、驚いてしまう。

「エーリッヒ君…、あの、さ」

 どう声をかけていいかも判らず、烈は濁すように言葉を綴る。

「…電話とか、してみたら?」
「そういうわけにはいかないんです」

 エーリッヒは苦笑を漏らした。
 今、声を聞いてしまったら。
 エーリッヒには、確実に自分を抑えきれなくなるという確信があった。
今以上に逢いたくなるような状況を自分で作り出してどうするのか。

 ……そうでしょう?

 だから、エーリッヒは仕事以外でドイツと連絡を取ることはなかった。メールしか使わないのも、
万一彼が電話に出たときのことを考えてしまうから。

 自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。日常的なことでも何でも一人でこなせるつもりだった。
 でも、現実は違う。
 自分は、彼がいないとあまりにも弱く。
 レースで負けを重ねるたびに、彼らの、彼の偉大さを再認識した。自分では駄目なのだ、と。

「レツさんには、逢いたい人はいますか?」

 心配の色に瞳を染めて自分を見つめる鮮やかな赤の少年に尋ねると、烈は驚いた顔をした。
それからふっと俯いて。

「…分かんない。逢いたいって思う前に、会いに来てくれるから」

 …自分が彼を愛しているのかいないのか、判断する前に抱きしめてくれる腕は、暖かいけれど
本当の居場所だとは思えない。彼の優しさに、あたたかさに答えるには、烈はまだ自分の感情を
理解できていなさすぎた。

「そうですか」

 あのアメリカ人は、今は多少、愛を押しつけているのだろう。ただ、烈は愛されるだけで満足する
ような少年でないことは理解しているつもりだった。いつの日か、それがブレットに向けてか他の誰かに
向けてかは判らないが、愛すという行動に出るのだろう。

「…片思いなの?」

 遠慮がちに尋ねる少年に、エーリッヒは再び苦笑した。

「どうでしょうね」

 烈は少し悲しそうに眉を寄せて、息を吐いた。

「相手の気持ちが分からないの?」
「あの人の行動も言葉も、予想が付いてしまうんです」

 だから、余計に苦しいんです。

「その人は、好きなの? エーリッヒ君のこと」
「いえ。でも……」

 優しい彼は、自分を労る言葉をいくつくれただろう。そして、自分はそれにどれだけ返せたのだろう。
嫌いならば拒絶されている。彼は、中途半端な優しさは持たない人だから。傍にいられたのは、
彼が自分を認めてくれていたからだ。

 親友として。
 優しい彼は。
 傍に、いることを許してくれている。

「どうして告白しないの?」
「…できませんよ」  

 幼なじみで親友で、ライバルでチームメイトで。上げればきりがないほどに、彼と自分の関係を
言い表す言葉はある。
 だけれど、絶対に世間に認められはしないのだから。
 受け入れてはもらえないのだから。
 これ以上近づいてはいけない。
 距離を置かなくてはいけない。
 だから、日本行きに反対しなかった。
 …抱きしめる彼の腕を拒絶することもしななかったけれど。

「あのさ、そういうのって僕よく判らないけれど、口出しするのもどうかと思うんだけれど。
……僕には、逃げてるみたいに見えるよ」

 …逃げている?
 同姓だと理由を付けて。
 判らないと言って。
 状況を打破する術を知っているくせに。
 全てを何かのせいにして。

「そうですね。…多分僕は、逃げているんだ」

 後半の言葉は烈に向けられたものではない。
 エーリッヒは、練習コースのある部屋の、白い壁を見つめた。

 逃げているんだ。
 彼から。
 自分の気持ちから。
 逃げるから、目を背けることしかできない。
 それでも。
 僕はやっぱり逃げるだろう。
 その方が彼のためになると、言い訳しながら。
                                     【了】

 葛藤編…みたいな。
 長い間、同じように信じ続ける事なんてできないと思うのです。
 それが、特定できない感情ならなおさら。
 ああ、もうわけが判ってません(ダメダメ)。
 しかも、微妙にブレレツなんですか?(だから訊くなッつーの)


モドル