責任
「…先ほどは、済みませんでした」
エーリッヒは深く頭を下げた。
「けっ。きたねー真似しやがって」
豪の言葉に、大袈裟なものはなかった。
レースでどうしても勝ちを奪いたかった、
無能な監督の下した命令。
それは、相手のミスを誘って勝ちを狙うという、
最低なやり口。
レース中、偶発的なミスならば構わないが、
そのために嘘の情報まで相手に流した。
最も、他チームのミーティングを覗いた
豪と藤吉の行為もどうかとは思うが。
正々堂々と戦うことを信条としている
TRFビクトリーズの面々にとって、
今回アイゼンヴォルフがとった行動が
いかに怒りを煽ったか。
察してしかるべきである。
だから、エーリッヒは単独で謝りに来たのだ。
チームの一員として。
だが、一レーサーとして謝りたかったのも確かだ。
一時とはいえ、あの命令に従ってしまった者として。
「…君の意志じゃなかったんだろ?」
烈の言葉に、エーリッヒははっと顔をあげた。
「もしもエーリッヒ君もあの作戦に乗っていたのなら、
多分僕らは勝てなかったと思う」
エーリッヒが、監督の命令に背いても
自分の走りをまっとうしようとしなかったなら、
相手にブロックされたままのレース展開は
TRFの敗北を意味していた。
エーリッヒがこの作戦に乗り気などではなかったと、
彼の走りがフォーメーションから
はずれたときに気が付いた。
エーリッヒとかなり親しくなっていた烈は、
彼の性格も他のメンバーよりは把握していた。
「烈兄貴はあめーよっ!」
「勝てたんだからいいじゃないか」
抗議の声を上げる弟に、烈は明るく言った。
そう言われると、豪はそうだけどよ…、
と呟きながら引き下がるしかない。
「でも、卑怯な真似をしたのは事実でげすよ」
「ああ」
豪と同意見なのは藤吉とリョウだ。
三人とも、むこうの思惑にまんまと
引っかかった者達である。
エーリッヒは俯いていた。
どんなに言葉で謝っても、
過去の罪が消えるわけではない。
どれだけ罵られようと、
甘んじてそれを受け入れようと思っていた。
だけれど。
「…どのように謝罪しても、
謝りきれないのは判っています。
ですが、これだけは知っていて下さい。
あれは…」
「あれは我々の本来の走り方ではない」
エーリッヒとも、日本チームの誰とも違う声が
場に響いた。
声のした方へ視線を滑らすと、
一人の少年を捉えることができた。
鮮やかな赤のユニフォームは、
ドイツチームアイゼンヴォルフのものである。
だが、烈達が見たことのない人物だった。
ゆっくりとこっちに歩み寄ってくるその少年は、
深い茶色の髪とアメジストのように澄んだ
紫の瞳を持っている。
整った顔立ちからは、気品というものが
見て取れるようだった。
「………ッ…」
エーリッヒは目を見開いていた。
視界に彼を認めた瞬間から。
喉がカラカラに渇いて、声が出なかった。
視線も外せない。
全神経が彼に魅入ってしまったように、動けなかった。
どうして…。
さっき、先に寄宿舎へ帰ったと思ったのに。
「我が軍の非礼は詫びよう。
だが、これからはあのようなことはない」
その人物は、烈達に向かって言った。
「…誰だよ、お前」
豪が不信の声を漏らす。
それに気付いた少年は、にっこりと人当たりの
いい笑顔を浮かべる。
「失礼。
私はアイゼンヴォルフ一軍メンバーの一人で、
シュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハと
いう。以後お見知り置きを」
「一軍…、ということは、お前は…」
リョウが声を漏らすと、
シュミットはエーリッヒの隣に立つ。
「そう。
これから君達の相手をさせてもらうことになる」
「けっ、やぁっと一軍の登場かよ!
待ちくたびれたぜっ!」
「ご、豪君…」
誰に対しても態度を崩さない豪に、
Jは窘めるように声を掛ける。
が、効果は期待できない。
「おう! どんな手を使ってきても、
絶対ぶっちぎってやるからなっ!」
案の定、大声で宣戦布告(?)する豪に、
シュミットはやはり静かに笑いかけた。
「我々が到着した以上、
あんな無様な真似をして勝ちを狙う必要はないんだ。
…実力で充分勝てるからね」
…外向きの言葉遣い。
「上等だ。また勝ってやるぜ!」
「楽しみにしておくよ。…行くぞ、エーリッヒ」
適当なところで話を切り上げ、
踵を返すシュミットに、エーリッヒは慌てて従った。
途中で振り返り、TRFに一礼することは忘れずに。
「…戻ってきたんですか?」
「ミハエルが連れて帰ってこいとうるさくてな」
探るように発された声に、
シュミットはエーリッヒの方は向かずに答える。
そうですか、となんとか笑うエーリッヒの心境は、
複雑だった。
…嘘でもいいから、“会いに来た”と言ってくれれば、
どれだけ救われるか判らない。
でも、同時にきっと泣き出してしまう。
そして、耐えられなくなるに決まっている。
なら、このまま。
業務的な態度のまま接してくれればいい。
だけれど、不安定な心はそれ以上を欲し。
背中を見つめるだけでは不十分なのだと、
視線を合わせてしまえばどうなるか判らないのに。
そうして、彼と自分とは恋人同士でもないのに、
と自嘲する自分がどこかにいる。
「エーリッヒ君!!」
高い声に突然後ろから呼び止められて、
エーリッヒは振り返った。
シュミットも足を止める。
後ろから駆けてきたのは、金髪に青い目の少年、
Jだった。
「あの…、大丈夫ですか?」
ぜぇぜぇと荒い息を繰り返すJに、
エーリッヒは優しく声を掛ける。
「うん。…ごめんなさい」
「え?」
Jの発した言葉の意味が分からず、
エーリッヒは聞き返した。
「…ひどいことを…僕、言ったから…、ごめんなさい」
レース中に、エーリッヒに浴びせられた言葉。
そんなことを謝るために、追いかけてきたのだろうか? この少年は。
「いえ。言われても仕方のないことを
してしまったのは、こちらですから。
気にしないで下さい」
「うん。でも、謝りたかったから」
やっと笑ったJに、エーリッヒも笑顔を返す。
「エーリッヒ! 行くぞ!」
「あ、ああ、はい。では、済みませんが、また」
「うん。さようなら」
語調の強まったシュミットに、
エーリッヒは彼を待たせてしまったことに気付く。
Jに別れを告げて、さっさと歩いて行ってしまう彼を追いかけた。
先を行くシュミットは、多少ならず苛々していた。
…私の知らない人間。私の知らない事情。私の知らない笑顔?
さっきの金髪の少年も、赤い髪の少年も、
人目を十分に引くような顔立ちをしていて。
エーリッヒと交わす言葉が気になって、
ミハエルに言付けてレース会場に引き返した。
こんなふうに邪推する自分を、莫迦だと笑い飛ばせればいいのに。
莫迦みたいな独占欲だけが、心の中で渦巻いている。
恋人でもない親友に抱く、なんて浅ましい想い。
「…ヨーロッパ選手権は…?」
沈黙に耐えられなくなったエーリッヒが口を開く。
「聞かなくても分かるだろう?」
素っ気ない返事に、エーリッヒの胸はズキリと痛んだ。
怒っている?
あんな、レースをしたことに?
それとも。
結果を出せなかったことに?
…約束は、自分が果たさないと守ってもらえないのだろうか。
「お帰りっ! エーリッヒ!!」
寄宿舎の、アイゼンヴォルフの部屋に着くと、
エーリッヒは明るい声に迎えられた。
「ミハエル…」
ギュッと抱きつかれて、息が詰まる。
ミハエルとしては、一番のお気に入りである彼に
再会できたことが嬉しくてたまらないのだ。
それを見て、シュミットはやっぱり面白くないと思ってしまう。
彼がいなければ気がつけなかった感情は、
彼がいるからこそ大きくなっていく。
自分が唯一認めた人物を、
一番嫉妬の対象にしなければならないなんて。
「今までのレースビデオとか、今日のレース見てて思ったんだけど、
WGPってヨーロッパ選手権なんかよりずっと面白そうだね」
ミハエルはエーリッヒを解放し、
その腕を取ってソファに導きながら言った。
「そうですか…?」
今日のレース、という言葉に、エーリッヒの瞳に寂しい色が浮かぶ。
「…今日は、済みませ…」
「なぁエーリッヒ。紅茶はどこにあるんだ??」
謝罪の言葉を紡ごうとした瞬間、それはアドルフに遮られた。
その手には、綺麗な柄のポットが握られている。
「ああ、僕が淹れますよ」
落ち着くことなく立ち上がったエーリッヒに、シュミットは思った。
彼は、自分だけのものではないのだと。
二人きりの時ならいざ知らず、こんなふうに皆と一緒にいるとき、
率先して仕事をかって出る彼は、皆のものなのだ。
そして、細かな気配りができる彼が皆に好かれないはずがない。
…自分だけのものではないのだ。
自分だけのものにすることなど、叶わないのだ。
たとえどれだけ愛していても。
彼は、皆のものなのだ…。
ミハエルと部屋を交代し、
シュミットとの二人部屋を割り振られたエーリッヒは、
諸々の雑用をこなしてから部屋へ戻った。
シュミットは一人机に向かい、調べものに明け暮れていた。
まだ来日したばかりだ。
頭に入れなければならないことは、山ほどある。
エーリッヒは自分のベッドに腰掛けて、その背を見つめた。
シュミットの背中は、ずっと見てきたはずなのに。
bRとして、彼の後ろを走り続けてきたエーリッヒは、
シュミットの後ろ姿を見守ることが多い。
だけれど。
今の彼の背中は、とても寂しそうに見えた。
いつも通りに振る舞っている、その言葉が、行動が、
無理をしているように見えて仕方がなかった。
そして、エーリッヒはそれが自分にも当てはまるのであろう事に
気付いて苦笑を漏らした。
…レツさんが心配するわけだ。
以前烈に、「逃げている」と言われたこと。
そして今も、確実に僕は逃げている。
エーリッヒが部屋に入ってきたことに気付いて、シュミットは言う。
「…成績はあまり芳しくないようだな」
エーリッヒは、はっと表情を堅くした。
芳しくないどころか、下位に入る成績。
それは、自分に寄せられていた期待を大きく裏切るものなのだと
教えられている。
ミハエルが自分に気を使って、
その話題を避けてくれていたのは気付いていた。
多分、彼から言わせるのが一番だとの判断から。
「…済みません」
約束したのに。最高の状態でチームを引き継がせると。
「お前のせいじゃないさ」
やっとエーリッヒの方を振り返ったシュミットは、
今まで見たこともないくらい
優しい瞳をしていた。
「無能な二軍と監督が悪い。
…お前がその分苦労しただろう?」
一番最初にTRFと当たった試合を思い出して、
エーリッヒは苦笑した。
確かにあの時、自分は相手の力量も測れない二軍の無能さを嘆いた。
でも、そんなのは自分も同等で。
二軍メンバーのせいになどできない。
…あなたがいないと駄目なんです。
そんな台詞は言えるはずもなく。
力無く俯いたエーリッヒを、シュミットは抱きしめようと腕を伸ばした。
だが、触れた途端エーリッヒはビクンと体を震わせた。
それが自分の腕を拒絶しているのだと判らないほど、
シュミットは愚鈍ではない。
「…済まない」
…痛みを知っているのは、自分だけじゃない。
中途半端な優しさが相手を苦しめることは、
自分がずっとそうだったから痛いほどに知っている。
「いいえ。…貴方は、約束通り優勝してくれたのに。……僕は…」
「お前のせいじゃない。だから、そんなに気に病むな」
「…はい」
エーリッヒは少し悲しそうに、優しく笑った。
以前と同じような、談笑。
同じ関係。
崩れてはいけない、崩してはいけない。
感情のままに突き進むことを恐れる、莫迦のように大人な子供達。
【了】 |
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