La luna⇔der Mond
「…Lei sembra essere nella luna.」
呟かれたその言葉を捉えることができなくて、エーリッヒは視線を上げた。
ペットボトルのミネラルウォーターで喉を潤していたその男の瞳は、じっとエーリッヒに向けられていた。
ベッドの上で半身を起こしているエーリッヒは、再び視線を自分の腕に戻す。
先ほどまで、自分のものであるベルトで緊縛されていた腕は、痺れていた。そっと、その腕をなでてみる。
「……何、ですか?」
少ししてから、さんざん鳴かされて掠れた声で、エーリッヒは尋ねた。
部屋には光源はない。
ただ、夜半を過ぎた半月の光だけが、幻想的かつ背徳的に、部屋の中を照らしていた。
「…お前は、月みてぇだと思ってな」
短く答えて、カルロはまた、ぐいと水を煽った。
エーリッヒは、窓の外に冴え輝く月を、視界におさめた。
空には雲はなく、煌々と照る月が星の光を貪って、さながらそれは闇の中に、ただ独りで浮かんでいる
ように見えた。
「……」
無表情に外へと向けられていた青の瞳は、やがて部屋の中に戻された。
完全には脱がされなかった上着は、くしゃくしゃになっていた。だが、それでもエーリッヒの肩や腕は、
その白いシャツのなかだ。ただ、ボタンは全て外されて、完全に前をはだけられた状態ではあったが。
微かに、息を吐いて、エーリッヒはベッドの外に脱ぎ散らかされた衣服の中から自分のズボンと下着を拾い上げた。
それらを身につけようとして、エーリッヒは、人の気配が動いたことに気付いた。
すぐ傍で、ウルトラマリンの瞳が、エーリッヒを捉えている。
エーリッヒは、その視線を無視した。
が、次の瞬間、突然ベッドに押し倒され、強くキスされた。
声も出さず、エーリッヒはただ、静かにそれを受ける。ほんの十数分前に見ていたのと同じ、暗い天井を、
彼は意識するともなしに見ていた。
唇を割って、相手の舌と共に、生暖かい水が口腔内に入り込んでくる。微かに喉を鳴らして、エーリッヒは
その水を嚥下した。
くちゅくちゅと、舌が絡み合う淫猥な音を、耳が捉えている。
外の世界はあまりにも静寂で、二人の他にはこの世界には誰もいないんじゃないかと錯覚させるほどだった。
いや、実際、彼らにはお互いしか感じられていなかったのだろう。
やがて離れた唇に、エーリッヒは、はぁ、と息を吐いた。
カルロは、エーリッヒをベッドに押し倒したまま、耳元で囁く。
「……泊まって行けよ」
エーリッヒは、抵抗する素振りは見せなかった。
ただ、冷めた瞳で、天井を見つめていた。
「……どうして?」
「恋人を部屋に泊めんのに、恋人である以上の理由がいんのかよ?」
質問は、質問で返された。
「終わったのに、ですか?」
恋人を部屋に泊めるのは、性的快楽を得るためだろうと、エーリッヒは思っていた。だから、セックスを終えてしまった後、
カルロの部屋に留まることを、エーリッヒには無意味なことだと思っていた。
それに、エーリッヒは知っていた。カルロと自分は、別に恋人でも何でもないことを。ただ、肌を重ねる、それだけの
関係だということを。俗に言う、SF……セックスフレンドという関係。ならば、その目的を終えた今、カルロが自分を
その部屋に留め置く必要などどこにもない。
カルロは、微かに眉を寄せた。
「まだ足んねぇ」
言い訳のように、口を開く。
実際、いくらヤッたとしても、足りなかった。いつでも静かに笑っている、エーリッヒの全てが欲しい。セックスの
快楽の中、乱れていても、やはりエーリッヒはどこか、超然的な面で冷静だった。全てを知りたかった。全てを
知らせたかった。だから、抱き合っていたかった。
エーリッヒの首筋、さっき赤い痕を刻んだばかりのそこに、再び舌を這わせる。
「……帰りたい、です」
エーリッヒは、小さく、そう呟いた。
感じて上がる息が、言葉を聞き取りにくくしていた。
だが、エーリッヒはあくまで静かだった。呟かれたその言葉さえ、抵抗にはなっていない。
だからこそ、カルロは必要以上にエーリッヒを虐めた。自分の前に全てをさらけ出して欲しくて、いつも、酷く残酷な
方法でエーリッヒを抱いた。
だが、ただの一度も、エーリッヒがカルロに文句を言ったことはなかった。
それが、余計にカルロを苛立たせた。
「帰さねぇよ」
胸の突起に強めに歯を立てれば、エーリッヒの身体はびくんと跳ねた。
それが、痛みによる為なのか、快楽による為なのかは判らない。
ただ、カルロに判るのは、終わったはずの、エーリッヒにとってはとても辛い時間であるその行為が、再び行われようと
していること。そして、それをエーリッヒが望むはずもないこと。それでも、彼は一つも抵抗をしないこと。
諦めているのかもしれない。初めての、あの時、……彼を人気のない場所へ連れ込んで無理矢理犯したときですら、
彼は悲鳴をあげなかった。意味のない、甘く悲痛な喘ぎ声以外は。
エーリッヒの瞳に、カルロは自分に対する感情を読みとることが出来なかった。
その気になれば、彼は完全にカルロをシャットアウトすることもできたはずだ。どんなことをしても、彼はそれを
しなかったから、カルロにはエーリッヒが判らなかった。
どうせなら、恨んで憎んで、殺したいとでも思ってくれていればいいのに。それならば、まだ、対処の仕様がある。
さんざん調教して、服従させることだって出来た。悪役として、彼を支配し続けることもできた。また、ただ怯えて
抵抗するならば、いくらでも優しくなれたかもしれないし、慈しめたかもしれない。
結局、関心を寄せられていないというその現実------エーリッヒにとって、カルロなど取るに足りない存在だという
認識------が、カルロを頑なにさせていた。
「あっ……っあ……!」
性感帯を強く刺激されて、高い声が上がる。
エーリッヒは、それを、どこか遠いところで聴いていた。
カルロがキツク自分を抱く理由を、エーリッヒは知っていた。だから、エーリッヒは一言も彼に反抗しなかった。
そうすれば、彼が自分から離れていかないと、判っていたから。彼の与える嗜虐的な刺激に、ただ耐えさえすれば、
カルロが自分に拘泥することをはっきりと捉えていたから。彼を自分に束縛できる、そのことに比べれば、激痛も恐怖も、
些末なことに感じた。
だから、エーリッヒはいつでも、カルロに対して従順であり続けた。
ベッドが軋むたびに、思い知ることがある。
カルロにとって、自分がどういう存在であるのか------彼を満足させられる道具であるのか------というその問いの、
明確な答え。
だが、やはり、エーリッヒにはカルロは判らなかった。
月。
カルロは、エーリッヒは月のようだと言った。
「ど……し、て…」
「あ?」
「どう、して、…月を、側に置こうと、思うんですか…?」
切れるように鋭い月。寒々しく、自分達を見下ろす月。
そんなモノ、そんな冷たく暗いモノ、傍におこうなんて思わない。
「………置きたく、なるだろ…」
優しい光で道を照らす月。闇の中にあって、なお強く光り輝こうとする月。
何もかもを優しく包み込むような、その柔らかさが欲しいと思った。
「……なりませんよ…」
エーリッヒは微かに目を開いて、窓の外に浮かぶ月を見た。
悠然と輝くその衛生は、なにも言わずに夜の空を焦がしている。
ふと、カルロが顔をあげた。
普段なら逸らされるはずのない興味が他のものに移ったことで、エーリッヒはそっと頭を持ち上げた。
「………どうかしましたか?」
「…なんて言う?」
「え?」
「お前は月のようだって。お前の国では、どう言う…?」
「…Sie scheinen im Mond zu sein.………っ?!」
その事実に気が付いて、エーリッヒは目を見開いた。
違うんだ。
国が。
言語が。
気候が。
ものに対する捉え方すら。
月は優しい。
ギラギラ輝く昼の太陽と違って。
月は冷たい。
暖かく恵み深い昼の太陽と違って。
二人の視線は、遠い空に浮かぶ月に向いていた。
くすくす。
突然笑い出したエーリッヒに、カルロの視線が戻った。
「…なんだよ」
「貴方と僕の国は、近いのに、随分違うのだと思って」
判っていたはずだった。気候も言語も違う二つの国の人間が分かり合うことは、とても難しい。同じことを言っている
はずなのに、その言葉の意味が180度違うことがある。ものに対するイメージも、国によってもちろん違う。
だから、すれ違うことだってとても多いのに。
どうして、傍にいることを望んだのだろう?
どうして、こんな腐った関係を、続けたりしているのだろう?
つまらないことなのに。
何の意味もないことなのに。
……それでも、彼が、僕を求めてくれるというのなら。
たとえ、それが感情を伴わない行為だったとしても。
細い腕が、カルロの首に回された。
そのまま、引き寄せられるように唇を重ねる。
酷く優しく甘いそれは、二人の思考を痺れさせるには充分だった。
「…どうしたんだよ」
今まで、一度たりとも自分からはなにもしようとしなかったエーリッヒが、突然キスを強請ってきたことについて。
エーリッヒは、艶やかに目を細めた。
「……いけませんか?」
「んなことはねぇけど」
何考えてるかわかんなくて恐ぇ、と、カルロは呟いて、再びエーリッヒと唇を重ねる。
軽く、短く、何度も。
エーリッヒはうっとりと目を閉じている。強くカルロの首を引き寄せている腕が、もっともっとと雄弁に語っていた。
「…カルロ、ドイツ語出来ませんよね…?」
キスの合間に、尋ねてくる。
同じように、息をする瞬間に答えた。
「できねぇよ?」
「なら、どうして、気付いたんですか…」
「ん?」
「月が…」
さぁ、とカルロは曖昧に答えた。
「…ただ、お前が月を見る目が、ちっとも優しくなかったから」
優しい眼を、エーリッヒに向けて貰おうなんて思わない。最初に、そうして貰うだけの資格を手放したのは、カルロの
方だった。
身体だけでも、手に入ればいいと思った。
たとえそれが、お互いにどれだけ辛いことだったとしても。
「よく見てますね」
「ああ」
「飽きません?」
「飽きねぇ」
だって、全てを知りたいのだから。飽きるはずがない。愛しているのだから。
カルロは、エーリッヒの身体を抱きしめた。横になったままの身体を、シーツごと。愛しているという想いが、伝われば
いいと思って。自分の存在が、少しでもエーリッヒに影響を与えられるものに成れればいいと思って。
「…っ…」
エーリッヒは、微かに顔をしかめた。
性欲処理のための相手に、どうしてカルロはエーリッヒを選んだのだろう。そして、そういうふうな関係にするのならば、
中途半端に優しく扱って欲しくなかった。優しくされると、いたたまれなくなる。カルロに突き放されるような言葉が、口を
ついて出そうになる。
…愛していると、いう言葉が。
相手も自分を愛してくれていたら、こんな非生産的な、クダラナイ行為にも、少しは意味が出来るのに。
ドイツでは、暖かい太陽は女性名詞、冷たい月は男性名詞。
イタリアでは、激しい太陽は男性名詞、優しい月は女性名詞。
この違い、いっぺんネタとして使ってみたかったんですよvv
だから、確実に間違っていると思いつつもカルエリで…(腐れ)。
…で、なんで暗い話になってんのさ…??(泣)
モドル