零落


「ん…」

 閉じた瞼の裏に赤い光が射すのを感じて、エーリッヒは薄く目を開けた。
 ベッドの中から、机に向かっている後姿が見える。カチャカチャというプラスチックの触れ合う音がしているところからしても、マシンメンテナンスでもしているのだろう。

 …ライバルチームのメンバーが同じ部屋にいるっていうのに、無防備だな…。

 呆れたようにそう思うと、エーリッヒはシーツの下で何も身に着けていない体を伸ばした。
 汗と精液に濡れた体はべたべたしていて気持ちが悪い。

「…シャワー、借りますよ」

 寝起きの声で断り、カルロの返事を待たずにベッドから降りてシャワールームに入る。
 温い目のお湯で体を綺麗にすると、ぼんやりしていた意識は覚醒に向かっていく。ただ、体のだるさは全くと言っていいほど取れておらず、肉体的な疲労からももう暫く眠っていたい気分だった。
 シャワールームから出て、床に散らばっていた衣服の中から自分のズボンを探し出して履いた。
 エーリッヒが出てきても一向にマシンを触ることを止めようとしないカルロに一瞥を投げて、ベッドに再び倒れこむ。

「…余裕ですか? 僕の目の前でメンテなんて」

 カルロは何も応えなかった。
 エーリッヒが卑劣な真似、例えばここでカルロのマシンの状態を盗み見て帰ることなどするはずがない。カルロはそれを知っていた。また、そんなことをせずとも勝てるという自信が、エーリッヒにはあった。一軍到着からこっち、アイゼンヴォルフの躍進は凄まじい。
 反応しない背中に、わざと不満げな声をぶつける。

「恋人がいるのに、マシンにばかり構うんですね。…僕とマシンと、どっちが大切なんですか」
「マシン」

 エーリッヒの言葉が言い終わるか言い終わらないかのうちの即答に、エーリッヒはくすくすと忍び笑いを漏らした。

「不満かよ」
「大満足ですよ」

 カルロは見えないように口元に笑みを浮かべた。
 随分エーリッヒも下らない言葉遊びが得意になった。恋人、なんて安っぽい言葉、なかなか口にしなかったのに。
恋人という甘い関係などではないから尚更に。
 自分よりマシンが大切で当然だ。エーリッヒだって尋ねられたら迷うことなくベルクカイザーを選択する。
そんな関係だから上手くやってこれたのだ。
 煩わしくならないギリギリのライン。
 いつでも切り離せる最低の繋がり。
 エーリッヒのいる場所はカルロの腕の中ではなく、カルロの帰る場所はエーリッヒの腕の中ではない。

「…自分のマシンはそんなに大切にするくせに…」

 ぼそりと呟かれた言葉に、カルロは聞こえるように舌打ちした。

「お説教は止めろよ」
「愚痴です。たまには聞いてください」

 そのくらいは許されるだろう、というふうに唇を尖らせるエーリッヒに、カルロはまた口を噤んだ。
 もともとエーリッヒは自分の置かれている環境に対する愚痴などなかなか口にしない。明らかに自分に向かってのものだとは判っているが、聞き流す程度に聞いてやってもいいかもしれない。
 エーリッヒは襲ってきた眠気に逆らわず、枕に頭を埋めた。

「…自分のマシンを大切だと思う心を、どうして他の人たちのマシンにも持てないんでしょうね…?」
「いいこちゃんの走りをしたら、テメェが養ってくれんのかよ?」

 顔を上げる。
 椅子を少しだけ回転させて、カルロがエーリッヒの方を睨んでいた。

「…お金、貰っているんですか?」

 …そういえば、話したこと無かったか。

「勝った時だけな」
「…それは、負けられませんね」

 生活がかかっているのなら。
 レースに掛けるハングリー精神が違うわけだ。
 だけれど。

「…でも、アディオダンツァなんてなくても、貴方なら勝てるでしょう?」

 俺だけならな、とカルロは言った。
 WGPはチーム戦だ、確かにカルロなら反則技など使わなくとも大抵のレーサーには負けないだろう。だが、チーム戦となると一人の戦力ばかりが秀でていても仕方が無い。アイゼンヴォルフのようにレーサーが粒揃いならいいが、シルバーフォックスのように、リーダーだけが抜きん出ているというチームもある。ロッソストラーダは、シルバーフォックス寄りのチームだった。カルロ以外は、言ってしまえばたいした実力は無い。確実に勝とうと思えばそれなりのことをせねばならない。
 それに。
 あの技を使ったとき、カルロへの利点はもう一つあった。
 椅子から立ち上がり、カルロは視線だけを上げて自分の行動を見ているエーリッヒに近づいた。
 ベッドに肩膝をかけ、エーリッヒの顎を掴んで顔を上向かせる。

「それにな、ノー天気なおぼっちゃん達の自信に満ちた顔を泣き顔に変えるのが堪らなくおもしれェンだよ」

 きちんとメンテナンスをしたはずのマシンが、内部メカの故障によってリタイヤ。その理不尽な敗戦理由に唇を噛む、何の苦労も知らずにミニ四駆を楽しんでいた奴らの顔は、カルロたちには見物だった。

「…趣味の悪い…」

 呆れるように口にしたエーリッヒに、カルロは乱暴に口付けた。
 一瞬驚いたように引かれかけた頭は、すぐに大人しくなった。そっと唇を開き、カルロの舌を招き入れる。強く吸われて、くらりと頭の芯が麻痺する。

「…ん、っ…」

 カルロの手が胸をまさぐってくる感触に、エーリッヒはびくりと身を震わせた。

「…貴方、…何回したら気が済むんですか…?」

 さっきすでに数回肌を合わせたというのに、まだ求めてくる気配を見せるカルロに、エーリッヒは離れた唇の下から非難がましく言う。
 カルロはその声を無視して、エーリッヒの首筋に唇を這わせる。
 エーリッヒは、よっぽどのことが無い限りカルロの欲求をすべて受け入れた。

「…この大会は」

 敏感になっている体を這い回る指に翻弄され、熱い吐息を吐きながら、エーリッヒは目を瞑る。

「どれだけの人に利益をもたらしているのでしょうね」

 ふと、カルロはエーリッヒの顔を見るために視線を上げた。
 エーリッヒはやはり目を閉じて、唇だけが言葉を作るために動いていた。

「…僕らミニ四レーサーにはもちろん、最高のレースが。大人たちは、新素材のテスト、市場の拡大、国際交流…」
「…あと、一部の人間には莫大な儲けをな」

 ぴくん、とエーリッヒの体が震えた。

「どういうことです?」

 瞼が持ち上がり、空色の瞳がカルロを映す。
 
…知らねェのか、コイツも。

「テメェ、まさかこの大会がFIMAだけで成り立ってると思ってねェよな?」

 表の、清い世界だけで成り立ってると思っているんじゃねェだろうな。
 眉間に皺を寄せたエーリッヒに、この男は本当に何も知らないのだと溜め息をつく。

「…たかが子供のおもちゃでこんなデカイ大会開いて、どこから運営資金が流れてると思ってんだテメェは」

 この大会に懸かっているのは、各国の威信だけではない。

「頭のイイテメェなら解ンだろ、この大会の裏でどんだけでけェ金が動いてるか」

 レースで勝った時、イタリアチームのメンバーに報酬が支払われるのは、オーナーにはそれ以上の収入があるからだ。各国が競って優秀なレーサーを育てようとしているのは、競馬の馬主が馬を育てることと同じ。
 子供は所詮、大人の駒でしかない。

「…僕らのレースは、大人たちの食い物だと…貴方はそう言いたいんですか」
「俺が言いたいんじゃねェ、実際にそうだって言ってんだ」

 エーリッヒが信じたくない気持ちは、カルロには解らなかった。何が裏で起こっていようと、楽しめばいいではないか。所詮この世界では、どんな状況であろうとも楽しんだ者の勝ちだ。
 どうしてそれが解らない?
 こんな莫迦莫迦しい関係を楽しめるお前が。

「テメェらには関係ねェとは思うなよ。ドイツだって間違いなく加担してるぜ、あの無能な監督がなんとしてでも勝とうとしたのも、上から圧力がかかったからだろうよ」
「………」

 エーリッヒは唇を引き結び、腕を伸ばしてカルロの首にしがみついた。

「…おい」
「ショックを受けてるんです。慰めてください」
「…莫迦じゃねェの、テメェ」

 しかし、身体だけでも、という意味のエーリッヒの誘惑をはねつける理由は、カルロにはどこにもなかった。
 シャワーを浴びたばかりの滑らかな肌に、ゆっくりと唇と舌を這わせる。
 頭の上から聞こえてくる息遣いは、すでに熱を帯びていた。
 ときおり肌を震わせ、引き攣らせ、カルロの愛撫に素直に反応を返してくる


「…っ…んっ…」

 カルロが膝を乗せると、ギシ、とベッドのスプリングが軋んだ。
 エーリッヒのズボンに手を掛けながら、カルロは舌打ちする。

「…何着てんだよテメェ」
「…もう、終わったと…思ったんです…」

 再び脱がすことが手間だと思ったのだろう、興ざめした様子でカルロは身体を離した。
 煽られるだけ煽られていたエーリッヒはカルロの背を睨む。
 再び机に向かいながら、カルロは声だけをエーリッヒに寄越した。

「俺の部屋では何も着るンじゃねェよ、莫迦野郎」
「…そんなの、変態みたいじゃないですか」


 呟き、カルロからこれ以上してもらうのを諦める。痺れるような感覚の脚を引きずりながらベッドを降り、自分のシャツをつかんで、再びシャワールームへと向かう。カラダの中で燻る熱をおさめる為に。
 今度は冷たい水流を浴びた。

「…本当は、僕は貴方ほど強くは…ないんですよ」

 呟く。
 薄々感づいてはいた。何でも金儲けの道具にしてしまうような時代の娯楽。オリンピックでさえ賭けの対象になるというのに、WGPがそうでないはずがない。
 でも、…信じていたかったのだ。
 そんな薄暗い世界とは無縁の、光の舞台を。

 …自分から望んで、暗い方の世界に足を踏み入れたくせに。

 カルロの傍に居る、ということは、そういうことだった。彼の近くにいれば、嫌でも金や暴力に絡んだものが見えてくる。
 だが、目を逸らすわけには行かない。目を閉じるわけにはいかない。
 それが、カルロの生きる場所ならば。
 この執着が、彼にとってはうざったい種類のものでしかないことを、それでもエーリッヒは知っていた。だから彼が望む以上は近づこうとはしなかった。

 一定の距離と時間を保った接触は、自分たちの関係を長く続かせる為の刺激に他ならない。
 それに、エーリッヒにはチームがあった。自分の身を心配してくれる仲間がいた。だから、長くカルロといるわけにはいかなかった。

 …今日はもう、帰ろう。

 明日はアイゼンヴォルフもロッソストラーダもオフなので泊まるつもりで来たが(というか泊まるしかない状態にさせられてしまうのが常なのだが)、身体は何とか自由になるし、第一、終わったという言葉を発してしまったのは自分だ。終わったからには、自分の巣に帰らねばならない。
 ここは自分の居場所ではないのだから。
 シャワールームを出てズボンとシャツを着る。襟元まできっちりとボタンをはめると、エーリッヒはシャワールームから出た。

「…っ!」

 途端、襟首を掴まれてその場に引きずり倒される。
 エーリッヒの首を締め付ける格好で見下ろすカルロの目には、危険な欲望の炎が見えた。

「…っ……」

 ああ、何て綺麗なのだろう。

「何も着んなって、言ってンだろ?」

 命令が聞こえる。
 しっかりと着込んだシャツが、破れる音がした。
 ボタンが弾けて、落ちる音がした。
 エーリッヒは微かに笑う。

「…なた、の……命令、などに…従う義理は…り、ません、から…」

 彼の最も望むであろう答えを口にしながら、けして本気で締めてこない力加減を、エーリッヒは心のどこかでほんの少し、残念に思う。

「上等だ」

 
カルロは残酷に口辺を歪める。
 それを見て、エーリッヒは、ああ、また今夜も眠れない、と思う。




 くだらない。ことばあそびがすきなのです。
 まるで。なにもしらない。こどものような。
 やみのなかでも。つづけていられる。
 ひどくようちなあそびが。ぼくらのかんけいには。
 なくせないのです。


関係が少しでも前進(発展?)すればこんな風に甘くなってもいいと思う
(お前のカルエリはこれで甘いのか)。
本当はコピー本「孤狼」に入るはずだった話だという。


モドレ