VERANLASSUNG


3「1996年6月6日(木)  ドイツ・ニュルンベルク(快晴) 13:31」


「…私と、一対一の勝負をしろ」

 紫の視線が、敵を睨め付ける鋭い矢となって翡翠を射る。
 青の空が、高く高く澄み渡った日。
 その、小さな少年は微かに挑戦的な笑みを見せた。

「いいよ。そのかわり、君は全てを賭けて僕に挑まなきゃならない」
「当然だ」

 プライドも地位も誰かからの信頼も。
 何もかもを賭けて。
 そうでなければ、勝っても負けても同じこと。
 シュミットの目の前にいる少年は、公式戦に出たことはまだ無い。
 だが、その速さはすでに有名だ。全独中とはいかないまでも、少し大きなミニ四駆チームなら
 その名を聴いたことがあるくらいに。
 彼が、公式戦に出てきたら? アイゼンヴォルフは彼に勝てるか?
 否。…アイゼンヴォルフは勝ち続けなければならない。
 自分の代で泥を塗ることは出来ない。
 例えその為に、誰かの前にひれ伏すことを自分自身に許しても。



「13:55」

 空は、驚くくらいに晴れ渡っていた。昨日まで振っていた雨が、まるで嘘のようだ。
 シュミットは街を見下ろす小高い丘の中腹に作られた、ミニ四駆のコースの前に佇んでいた。
 手の中には、ベルクマッセ。
 先ほどの熱戦を思い起こさせるかのように、濃灰のマシンはボディを陽光に煌めかせていた。
 シュミットは、目を閉じていた。

 …ある程度予想はしていたが。こうやってレースをして、まざまざとそのスピードを見せつけられると。

「もう一回やる?」

 まだ変声期を迎えていない、高い少年の声が背後から聞こえる。
 ふと、シュミットは息を吐いた。

「…いいや、もう充分だ」

 一度走れば判る。今の自分では、けして、彼には勝てない。
 ゆっくりとシュミットは振り返った。
 空の青と地の碧の中で、眩い金の髪を白磁の肌に縁取らせたの少年が笑っていた。
 強く、強く。その笑顔には、万人を惹き付ける強い力があった。

 …彼になら。

「ミハエル・フリードリヒ」

 シュミットは少年の名を呼んだ。今の、チームのbRと同じファミリーネームを。
 美しく澄んだ翡翠色の瞳の少年が、首を傾げたのが判る。
 シュミットはその場に跪いた。

「我々、アイゼンヴォルフのリーダーになって下さい」

 風が、吹いた。
 草が波打つ。
 ミハエルは、人の上に立つことのできる笑顔でシュミットを見下ろしていた。

「やっぱり、君もそうなんだね。何回か来たよ、君みたいな人」

 シュミットは体勢はそのままで、顔をあげた。
 綺麗な緑の瞳には、迷いの色は見えなかった。

「アイゼンヴォルフか…、確か、この国の最高のチームだよね。僕、アトランティックカップテレビで見てたよ。
 この前のヨーロッパグランプリも。君も、君のチームメイトも速かったよ」

 少年はにこりと笑った。
 シュミットは微かに眉を寄せた。
 この、明るい雰囲気の少年は、ミニ四駆が大好きで、ミニ四レーサーにも憧れを持っているだろうに。
 なのに、先ほどの言葉は至極冷静だった。どれだけ幼くともミニ四レーサーなら共通の、
 レースを語るときの興奮が、この少年には見えない。
 興奮したのは本当だろうが、それは同年代の少年達よりもずっと大人びた観点からの感想のような気がする。
 それは、リーダーとして充分な資質だった。
 だが、…どこかに抑え込まれているはずのこの少年の情熱は、彼らしさは本当にそこにあるのだろうか?
 ミハエルは、きょろきょろと周囲を見回した。

「そういえば、君一人だったよね。カントクとか、そういう人いないの?」
「おりません。ここへは、私一人で来ました。すべて私の独断です。ですが、…誰にも反対させるつもりはありません」

 ミハエルは目を細めた。
 この、自分より2つ年上の男がここまで自信を持って言い切れるのは、おそらく自分の言うことに
 異を唱えるものがいないからだ。
 …少なくとも一人は、確実に自分についてくると信じている人がいるからだ。

「ふぅん。…結構自由があるんだね」
「貴方は、大人達に支配されるチームをお望みですか?」

 シュミットの顔に浮かんだ笑みには、そんなわけはないだろうと書いてあった。
 シュミットは、ミハエルに自分と同じような匂いを感じていた。大人に、何かに束縛されることを嫌う。
 気高いと言っても良いプライドが、そんなことを好みはしないのだ。
 ミハエルは、整然とした街並に続く草原を見た。

「…すぐには返事できないよ。時間をちょうだい?」
「ええ、もちろん返事はすぐにでなくて構いません。連絡先も宿舎の住所もすべて、お教えしますので、
 その気になっていただいたときに連絡を頂ければ」


 いつでも、お迎えにあがりますので。








4「1996年7月7日(日)  ドイツ・ベルリン(晴) 06:32」

 コンコンコン。

「…シュミット、朝ですよ。起きて下さい」

 すでに日課となった行為を、エーリッヒは今日もまた繰り返していた。
 6時30分までに起きてくる気配がなければ、シュミットの部屋に起こしに行く。
 最も、今まで起きてきたことなどなかったが。
 …6時40分。
 エーリッヒは溜め息をついて、銀色の鍵を取り出した。
 シュミットの部屋の鍵を、本人以外で持っているのはエーリッヒだけだ。
 こうやって毎朝起こしに来る彼のために、シュミットが渡したものだった。
 もらった当時には情けなさで泣けてきたが、エーリッヒも今ではすっかり馴染んでしまっていた。

「シュミット、朝です。起きて下さい」

 ドアを開けながら、エーリッヒは部屋の中に声をかけた。
 開かれたカーテンからの光は、室内を緩やかに浮かび上がらせていた。

「あれ…?」

 ドアのちょうど真向かいにあるシュミットのベッドは、すでにもぬけの空だった。
 珍しいこともあるものだ、とエーリッヒは首を傾げる。ここ数年間、シュミットが自分から
 起き出したことなど数えるほどしかない。
 シャワーでも浴びているのかと、部屋に備え付けのバスルームのドアをノックする。
 返事はない。

 …何処へ?

 エーリッヒはシュミットの部屋を出て、階段を下りた。
 一階まで降りると、正面玄関の受付の前に見慣れない少年が居るのが目に入った。
 綺麗な金色の髪と、緑色の瞳。逆光のせいでよくは判らなかったが、自分よりも二つ3つ年下だろう。
 少年は、エーリッヒに気がついてにこりと笑った。
 エーリッヒも、つられて笑い返す。

「おはようございます。あの…、アイゼンヴォルフに何か…?」
「ん? うん」

 エーリッヒは、少年の方に歩み寄った。
 そして、光の中で笑う少年がザックスによく似ていることに気付いて、はっと息を呑む。
 ひょっとして、いやおそらく、この少年がザックスに走ることを止めさせた── 。

「…ザックスを、迎えに来たのですか?」

 エーリッヒの眼光が鋭くなったのを察してか、ミハエルはピクリと眉を動かした。

「何の話?」
「…ザックスの…従弟の方…でしょう?」

 少年は、こくん、と頷いた。

「そうだよ。僕ミハエル」

 首筋を風が吹き抜けた。
 エーリッヒは、長い瞬きを一度、した。

「今日は、どういったご用件でこちらへ?」
「うん。入団希望かな」
「入団? アイゼンヴォルフに、ですか?」

 ザックスの代わりに?
 ミハエルとエーリッヒの間に降りた一瞬の沈黙のタイミングを計ったかのように、
 受付に繋がる事務室のドアが開いた。
 ドアから姿を現したのは、エーリッヒが何処へ行ったのかと疑問に思っていた問題の人物だった。

「シュミット?」
「ああ、エーリッヒ。Morgen」

 エーリッヒに気付いて、シュミットは朝の挨拶を述べた。
 Morgen、とエーリッヒが返すのも聞こえないように、シュミットはミハエルに数枚の書類を手渡す。

「こちらが入団手続きの書類で、こっちが確認表。あと、…これが」

 シュミットがちらりとエーリッヒを見た。その存在を意識している動作だった。
 だが、すぐにミハエルに向き直る。

「リーダーの委任状です。ここにサインをお願いします」
「───!?!」

 エーリッヒは大きく目を見開いた。
 シュミットは次の書類の説明に入っている。
 待って下さい、と言おうとして、エーリッヒは口を開いた。だが、思い直してもう一度閉じる。
 エーリッヒは、こんなに丁寧に他人に対応するシュミットを見たことがなかった。
 あの、プライドの高いシュミットが傅いている。
 それで、判る。
 シュミットが、どれだけこの小さな少年を認めているか。
 ザックスのことや、リーダーのことで尋ねたいことは山ほどあったが、エーリッヒはそれを
 一旦すべて胸の中にしまい込むことにした。

「健康診断表は、持参していただけましたか?」
「うん!」

 提げてきた鞄の中から、ミハエルは2枚綴りの紙を取り出した。

「エーリッヒ」

 シュミットはそれを受け取って、すぐにエーリッヒに回した。

「目を通しておけ」

 アイゼンヴォルフにおいて、シュミットは技術面の、エーリッヒは精神や健康面のサポートを
 重点的にカバーしている節があった。特に、シュミットは自分自身の健康にすら頓着しないため、
 エーリッヒやアドルフ、ヘスラーは他のメンバーの健康管理をする必要があった。
 最も、エーリッヒも時々自分を蔑ろにするので油断はできなかったが。
 喘息の傾向がある、という医師の診断書を読みながら、エーリッヒはふ、と溜め息を吐いた。

「…他にも色々、つもる話も他のメンバーに伝えることもあるでしょうが、
 取り敢えず朝食を取りに行きませんか? まずは腹ごしらえ、と言うことで」

 エーリッヒはにこりと笑った。
 時刻は、まもなく7時になろうとしていた。



「08:43」

 朝食を終えてすぐ、アイゼンヴォルフのメンバーは全員練習場に集められた。
 シュミットに連れられて、ミハエルもその場にはいた。
 ザックスによく似た金髪の少年は、事情を知らないメンバー達には大きな興味の対象だった。

「みんなに大切な話がある」

 全員が集まったのを確認して、シュミットが言った。
 誰も、何も言わない。シュミットの言葉を待っている。

「…みんなに、紹介したい人がいる」

 シュミットの視線を受けて、ミハエルが、皆の前に出た。

「こんにちは、初めまして。僕の名前はミハエル。新しくアイゼンヴォルフのリーダーになることになりました。
 よろしく」

 にこり、と笑顔を浮かべたその少年に、一瞬練習場は騒然となった。
 シュミットは目を逸らしていた。
 エーリッヒは、ミハエルの子供らしい笑顔の中に、油断の見えない何かを感じていた。
 事実が受け入れられなくて、アドルフは耳を疑った。

「おい、これどういうことだよ、シュミット!」

 澄んだ黄色の目が、シュミットを捜す。たった今まで、アイゼンヴォルフのリーダーであったはずの少年を。
 広い練習コースに、ミハエルという少年の声はよく響いた。

「これは、僕と前リーダー・シュミットの、レースの結果を踏まえた上での公式なリーダー交代だ。
 間違いないよね、シュミット」
「ええ」

 真っ直ぐに皆を見据えたまま、シュミットは答えた。穏やかですらある声音だった。

「正式なメンバー編成のレースは、後々行う。しかし、もしもリーダーに不服がある者があるのならば、
 まず私とレースをして貰おう。リーダーは確実に、私より速いのだから」

 アドルフは眉を寄せた。実際その目で見るまで、ミハエルがシュミットより速いとは思えない。

「シュミット、それじゃあ本当にお前よりもそいつの方が速いのか判らない。今、ここでレースをやろう」
「アドルフ。それは無理だ、リーダーはまだ、ベルクマッセを調整していない」

 いつも通りの表情で、シュミットがアドルフに応える。

「だけど!」
「アドルフ、」 

 ヘスラーが、アドルフを抑える。

「…僕なら良いよ。前に使ってたマシンで良ければ、レースしてあげる」

 僕、レースは嫌いじゃないよ、と言って、ミハエルは左手に下げていたレーサーズボックスを下ろした。

「リーダー。…貴方は長旅で疲れているはずです。無茶をして貰っては困ります」

 シュミットが、ボックスを開けてマシンを取り出そうとしているミハエルを窘めた。

「でも、ヘリで飛んできただけだよ。ちょっと早起きしたから眠いだけ。大丈夫だよ」
「おやめ下さい」

 はっきりと言われて、ミハエルはシュミットを一睨みしてレースを諦めた。

「報告は以上だ。本日の練習は、自由走行とする!」

 皆に言い渡してから、シュミットは、天井を見上げた。

「暗いな…」

 いくつか蛍光灯の切れた練習場に、シュミットの声が響くことはなかった。



「12:08」

 シュミットが、「少し留守にする」と言ったのは一カ月ほど前だった。
 精霊降臨祭の休学中の事だったから、間違いない。
 何処へ行くのかと尋ねたら、ちょっとニュルンベルクの方へ、と返ってきた。
 そのときから、本当は知っていた。
 こうなるというのは、予想以上に直感が教えた。
 だけれど、頭が知っているのと真実を教えられるのは違う。
 全体練習を終えた後、自室に戻るために廊下を歩きながら、

「驚きました」

 エーリッヒが素直に言った。
 前を歩くシュミットは背中で苦笑する。

「そうだろうな」
「…納得の上ですか」

 もっと落ち込んでいるかと思ったが、シュミットを見る限りそうでもないらしい。
 ただ、シュミットはエーリッヒ以上に感情を隠すのが上手いから、誤魔化されているのかも知れない。
 いや、エーリッヒは感情を隠すのは下手な部類だろう。微細とはいえ、すぐ顔に出る。

「ああ。リーダーは速いぞ。私よりも。それは、お前よりも速いと言うことなんだからな」

 ──ああ。

 わざわざ忠告してくる幼なじみに、エーリッヒはやはり、と思う。
 シュミットの中では、エーリッヒは未だに、隣を走り続けている。勝ったり負けたりしていた、あの時のまま。
 そんな時代は、もうとっくに過ぎているのに。

「…知っていますよね。彼が、ザックスの従弟だと」

 ザックスを退団させる元凶だと。

「知っているさ。だが、関係ない。チームのレベルアップには彼が必要だ」
「…………」

 どちらともなく無言になって、廊下を歩いた。階段を上がり、3階へ。
 シュミットの部屋が階段のすぐ前で、エーリッヒは東側の一番奥だ。

「では、また後で、シュミット」

 階段を上がったところで、エーリッヒはシュミットに言った。
 シュミットは応えなかった。

「…シュミット?」

 自分の部屋の前で、シュミットはドアを睨み付けていた。

「…もっと、はっきり言って良いぞエーリッヒ」
「え?」

 何を言われているのか判らなくて、エーリッヒは首を傾げた。
 シュミットは勢いよく振り返って、青い瞳を睨み上げた。

「『イラつく』とはっきり言ったらどうだ」

 何故?
 エーリッヒは顔をしかめたが、すぐにその理由に思い当たった。

「僕には、貴方のことを非難するつもりはありません」
「そうか? だが、目の前にいられたらムカつくだろう? ミニ四レーサーなら!
 一度レースで負けたからと言って簡単に屈服するなど! 相手の力量を認めたとはいえ、
諦めがよすぎるだろう?! こんなのは──ただの臆病者だ!!」

 涙と同じで、言葉も一度堰を切ったら止まらないらしかった。
 シュミットは、大きくかぶりを振った。

「簡単にアイゼンヴォルフのリーダーの座を、しかも独断で明け渡した事だって、
 お前には気に入らないはずだ! 私はお前に何も相談しなかった! しかも、
 私とあの人以外には証人もいない草レースでだ!! アイゼンヴォルフの恥さらしだと、
 言えばいいだろうエーリッ…」

 まだ何かを言おうとする、伝えようとするシュミットを、エーリッヒは抱き締めていた。
 ぎゅうと抱き締めて、その背中をぽんぽん、と優しく叩く。

「…何のつもりだ」

 エーリッヒの腕の中で、大人しくなったシュミットが不機嫌な声で尋ねてくる。

「…安心しました」

 シュミットの意に反してそう言うと、エーリッヒは穏やかに、ゆっくりと言葉を続けた。

「苛ついてはいませんでしたが、正直に言うと…心配でした。負けたのに、
 貴方が全く平然としていたから。…また、隠されるのかと思いました」

 貴方の感情を。
 シュミットは己を偽るのが上手いから。
 シュミットが自分一人で、ミハエルに会いに行ったことは正直に言って悲しかった。
 そんな大切なことを秘密にされるような、その程度の付き合いだったのだろうか?
 しかし、それは思い違いだとエーリッヒは思っていた。
 シュミットは、誰にも負ける姿など見られたくなかったのだろう。エーリッヒにさえ。
 いや、エーリッヒだからこそかもしれない。最大のライバルに、
 …たとえ同時に負けたとしても痴態を晒したくはないだろう。
 それに、…ひょっとしたら恐かったのかもしれない。
 エーリッヒが自分を見限るかもしれないことが。

「大丈夫ですよ。大丈夫。僕は…貴方の味方です。他の誰が貴方をどんな風に言おうと、
 僕は傍にいますから。貴方は、間違っていない」

 ぎゅうと、シュミットはエーリッヒに抱き付いた。
 小刻みに震える肩は、それでも必死に歯を食いしばり、涙を堪えていた。

「お疲れさまでした、シュミット。本当に、ご苦労様…」

 すべてを、自分のプライドと名誉を傷付けることで治めようとしていたのだ、この親友は。
 アイゼンヴォルフの歴史を守るために。
 なんと立派なリーダーだろう。

「僕は、貴方の親友であることを誇りに思いますよ」

 この人を非難する人がいるならば、僕はその人と戦おう。
 この人を、守る堤防になろう。
 それが、守られてきた僕に今できる最大のこと。



「12:09」

「よォ、ミハエル」

 シュミットに教えられた部屋に行くために階段を昇っていたミハエルは、名を呼ばれて振り返った。
 真っ黒な長い髪をした少年が、階段の下で手を振っていた。

「ザックス。久しぶりだね!」

 ミハエルはぱっと顔を輝かせた。
 ぱたぱたと、一度昇った階段を駆け下りる。

「おいおい! 走るなよ危ない!」

 ザックスが注意した瞬間、ミハエルは階段の滑り止めに足を取られた。

「うわ…!」
「ミハエルっ!!」

 下から5段目からダイブしてきたミハエルを、ザックスはかろうじて受け止めた。
 どすん、とその場に尻餅をつく。

「いっ…てぇー…」
「ご、ごめんザックス! 大丈夫!?」

 気を付けろよな、と言って、ザックスはミハエルを立ち上がらせて、自分も立ち上がった。

「お前、元もと体弱いんだからな」

 ぽんぽん、と頭を優しく叩くと、ミハエルはうん、と言った。

「ザックス、前のアトランティックカップ見たよ。凄かったね! 僕、どきどきしたよ」

 少し興奮した様子で話すミハエルに、ザックスは凄かっただろ、と胸を張って見せた。

「あんな凄いレースはなかなか見れないぜぇー? やっぱ大陸間での大会は迫力も実力も違うっつーか」

 あはは、と笑うミハエルを、ザックスは限りない慈愛を含んだ目で見ていた。

「しっかし、驚いたな。お前がミニ四駆やってるなんて」

 ベッドにふせって、羨ましそうに窓の外を眺めている姿をよく知っているザックスにとっては、
 ミハエルは、野外を走り回るような遊びからはほど遠い存在だった。

「うん。…ザックス達みたいに走ってみたくて。…似合わないかな」

 照れたような笑いを浮かべたミハエルに、ザックスは首を振った。

「いや、すごく似合うぞ」

 長い金の髪をなびかせて、他のどのマシンよりも速くゴールに辿り着くミハエルの背中は、
 想像するだけでも輝いていた。
 ふと、ザックスは笑みを浮かべた。
 ミハエルの背中を見て走ることなど、恐らく自分には、ない。
 ミハエルがリーダーとなって走る公式レースの前に、自分はミュンヘンへと発たねばならないだろう。

「ザックス?」
「ぉう?」
「どうしたの? ぼーっとしてたよ」

 不思議そうに見上げてくるミハエルに、ザックスは明るく笑った。

「いや、何でもない。今日の夕飯のことを考えてた」

 ザックスの言動に怪しげな所を見いだして、ミハエルは澄んだ瞳でザックスを見つめた。
 何事をも見透かすようなその視線から、ザックスは逃げるように顔を背けた。

「……ザックスを迎えに来たのかって、言ってた」
「え?」

 呟かれた言葉に、ザックスは再びミハエルの方を見た。
 ミハエルは、顔を伏せていた。

「…あの、銀髪の人が。ザックスを迎えに来たのかって…、言ってた。
 どういうこと? ザックス、どこかへ行くの?」

 心配げなミハエルの肩を、ザックスはポンと叩いた。

「大丈夫だ。心配いらない」

 直接の答えをはぐらかすように、ザックスは言った。
 ミハエルは、ザックスがそれ以上を聞いて欲しくないことを悟って黙り込む。
 ザックスは、微かに口辺を弛めていた。

 …エーリッヒ達に、口止めしておかなきゃな。

 ミハエルはまだ、ザックスが後釜に選ばれたことを知らない。自分の我が儘のせいで、
 一人の少年からミニ四駆を取り上げようとしていることを知らない。
 それは、この、外で走る喜びを知って間もない少年に知らせるには残酷すぎる事実だ。
 我が儘を言って人を困らせることをよくするけれども、それでもミハエルは心の優しい少年だった。
 ザックスは、長年の付き合いからそれをよく知っていた。
 ミハエルが療養のためにニュルンベルクへ行ってからはあまり会わなかったが、
 それまではかなり頻繁にミハエルの見舞いに行っていた。お互いに一人っ子だったせいもあるだろう。
 まるで、お互いを本当の兄弟のように思っていたから。

「そう言えば、ミハエル。リーダー就任おめでとう、だな」
「まだ正式決定じゃないけどね」

 にこ、と嬉しそうに笑ったミハエルに、ザックスも笑った。
 シュミットは、ドイツ随一のレーサーだ。
 そのシュミットが負ける日が、まさか自分がアイゼンヴォルフにいる間に来ようとは思わなかった。
 ミハエルは、どのくらい速いのだろう。走ってみたい。
 このドイツの、いや、全世界のレーサー達と、走ってみたい。
 自分には、それは叶わない願いだけれども。
 それでも、

「アイゼンヴォルフは…、世界最速になれそうだな」


 エリシュミっぽい…(ご愛嬌)
 読みにくいところはクリッグドラッグの
 反転お願いします☆(解ってるならこの背景やめてよ…)



モドル