VERANLASSUNG
5「1996年7月8日(月) ドイツ・ベルリン(晴) 10:14」
ベルリン郊外にある、レンツェン学校には、いくつかの地点に案内板がある。
それは、あまりに広大な敷地のために迷子になる者が続出するからだった。
グルントシューレ基礎学校 、コオペラティブ協力的ゲザムトシューレ総合学校
(ハウプトシューレ[本科学校]、レアルシューレ[実科学校]、ギムナジウムの3つが、
従来の種別が保たれたまままとめられている学校)、ウニヴェルズィテート[総合大学]
を抱えるこの学校の敷地は、その付属施設を合わせると、およそ71hにもなる。
その中を、去年からギムナジウムに上がったシュミットとエーリッヒはゆっくりと移動していた。
3時間目と4時間目の間にある休み時間は、残り17分。普通は休み時間がないため、
教室は近いところにある。前半3時間の授業の疲れを少しでも癒そうと、
二人は広い学校をのんびりと歩いているところだった。いたるところに
緑の木々が植えられている構内は、放課後に利用する者も多い。
「次の授業は、宗教ですよね」
「ああ」
隣を歩く親友に視線を移して、エーリッヒはにこりと笑った。
「でも、まさか貴方がカトリックを受けるとは思いませんでした。
てっきり、レーベンスクンデ[道徳]にするか、受講拒否にすると思っていたのに」
「興味があっただけだ」
シュミットは空を振り仰いだ。所々に白い雲が点在する、絵に描いたような天気だった。
「お前が信じる『神』の事に」
相変わらずですね、と苦笑したエーリッヒの瞳が、アウラ[講堂]の前にある案内板の前に、
見知った顔を発見した。
「…リーダー?」
「なに?」
シュミットも、エーリッヒの視線を追う。
確かに、そこには金の髪の若き指導者の姿があった。
真っ直ぐに案内板を見つめている視線から、慣れない校内で迷っているらしいことは
すぐに察しが付いた。
エーリッヒは迷わなかった。
「どうかしたんですか?」
早足に真っ直ぐミハエルに近づいて、声をかけた。
くるりと振り返った緑の瞳は幼さの影を消した。
「ああ、うん…、ちょっとね」
「何かお役に立てることがあれば、言って下さい」
にこりと笑う。
ミハエルは視線を逸らした。
「何でもないよ、大丈夫…」
「そうですか?」
「エーリッヒ、お前もたいがい懲りないな」
あとからゆっくりと歩いてきたシュミットは、呆れたようにエーリッヒを見た。
「この間無責任に迷子を拾って、自分が迷子になって半べそかいたのを忘れたのか?」
「…泣いてませんよ」
にやにや笑いながら自分をからかってくるシュミットを、エーリッヒは睨んだ。
「そうだったか?」
ミハエルは、二人のやりとりを見ていた。
…もしかしたら。
もしかしたら、自分がリーダーじゃなくても彼は親切にしてくれたのかもしれない。
リーダーだから、声をかけたんじゃないかもしれない。
ミハエルは、エーリッヒの手を握った。
「え?」
驚いて向けられた青い目。
ミハエルは、まだ俯き加減だった。
「…連れてって、グルントシューレ」
「ものの頼み方を知らないのですね」
前髪をかき上げ、溜め息をついたシュミットを、今度はエーリッヒが呆れた目で見た。
「貴方は人のことを言えないでしょう…」
シュミットの尊大なものの頼み方(むしろ命令)に比べれば、ミハエルのそれはまだ可愛らしい。
シュミットは、エーリッヒのぼやきを軽く無視した。
「まぁ、グルントなら迷子になることはないだろうな、つい最近まで使ってたんだし。なぁエーリッヒ?」
「しつこいですよ、シュミット!」
ミイラ取りがミイラになったのは、確かにエーリッヒには珍しい失態だった。
そのことを思ってか、エーリッヒは頬に血を上らせて怒った。
シュミットは不遜に笑っている。
「まぁそう怒るな。今回は私も一緒に行ってやるからな」
ぽんぽん、と頭を叩かれて、エーリッヒは溜め息をついた。
この人は、昨日、泣くのを堪えてこの腕の中で震えていた人と同一人物だろうか?
先に立って歩きだすシュミットに付いて、エーリッヒと、その手を握っているミハエルも移動を始める。
少し歩いてから、エーリッヒがミハエルに話しかけた。
「そう言えば、リーダーはニュルンベルクの方に住んでいたとザックスに聞きましたけれど」
「うん」
「どうして、こちらアイゼンヴォルフに?」
ミハエルは真っ直ぐ、前方を見ていた。
…ザックスが居たから。そういう理由もあるけれど。
「僕は、ミニ四駆を走らせたかった。それだけだから。どこでもよかったんだ、別に…」
「…どこでも?」
ぴたりと、エーリッヒの足が止まる。
疑問を感じて顔をあげたミハエルの肩を、エーリッヒは突然掴んだ。
「痛いよ、何するんだ!」
ぎゅっと強い力で掴まれている肩に、ミハエルが悲鳴をあげる。
後ろの異常に気付いて、すぐにシュミットがエーリッヒを止めに入る。
「エーリッヒ!」
エーリッヒの肩を掴んでミハエルから引き離そうとするが、エーリッヒはそれでも、
手の力を緩めることができなかった。
「どこでも、よかった…? ふざけないで下さい。そんな…!」
エーリッヒの耳に、ザックスの声が蘇る。
──俺は、アイゼンヴォルフのザックス・フリードリヒだ。
アイゼンヴォルフの一員であることを、ザックスは誰よりも誇りにしている。
それなのに。
ザックスが走れなくなる代わりに、この少年が走ることが出来るというのに。
「そんなつもりなら、僕らのチームに入らないで下さい!
そんなつもりなら、ミニ四駆を走らせないで下さいっ!!」
感情にまかせて、エーリッヒは叫んだ。
「貴方のせいで、ザックスは…、ザックスが…!」
「止めろエーリッヒ!」
シュミットの声は、エーリッヒの声をかき消すことができなかった。
「12:27」
「ザックス!」
「ん?」
ばん! と勢いよくドアを開いてリビングに入ってきたのは、自分の3つ下の従弟だった。
ザックスは、新聞から視線を外す。
「どうしたんだ、ミハエル。昼飯は食ったのか?」
突然の来訪者に驚きを隠せない様子のアドルフを後目に、ザックスは笑って見せた。
ミハエルの顔は真剣だった。
ザックスの座っているソファに近づく。
「ザックス。ミニ四駆を止めるって…、ほんと?」
ザックスはおどけるように顔を引きつらせて見せた。エーリッヒだな、と誰にも聞こえないように呟く。
ミハエルは、顔を伏せた。
「……ごめんなさい。知らなかったんだ、僕…」
ザックスはゆっくりとソファから立ち上がると、項垂れているミハエルの頭をぽんぽん、と叩いた。
「判ってる。良いんだ、お前は知らなくてもよかった」
「なんで?! どうしてさ、知らなくていいわけないじゃない…!」
ザックスは、微笑を浮かべていた。
「俺がお前の代わりになるって知ってたら、お前はどうした?」
「望まなかったよ!」
ミハエルは大きくかぶりを振った。
そうだろう、と言って、ザックスはミハエルの頭を撫でた。そして、少し辛そうな目をした。
「だから、知らなくてよかったんだ」
「駄目だよそんなの! だって、ザックスが居なくなるなんて…!」
「お前が入るということは、誰かが抜けるということだ。そうだろ?」
でも、とさらに何かを言おうとしたミハエルを、ザックスは止めた。
そうして、肩を掴んで少し屈み、ミハエルと視線を合わせる。
「ミハエル。お前はアイゼンヴォルフを強くしてくれる。それは、俺じゃできない。
だから、…これでいいんだ」
よくない、とミハエルは蚊の鳴くような声で言った。
ぐっ、と噛み締めた唇と、微かに震える拳がやるせなさを物語っていた。
「…引退する前々リーダーとして頼む、ミハエル。アイゼンヴォルフを世界最速にしてくれ」
ミハエルと、シュミットと、エーリッヒと、アドルフと、ヘスラーと。
このメンバーなら、絶対に叶う。絶対に、負けない。
「お前は、前だけを見て走ればいいから。他のメンバーが、支えてくれるから」
「……うん…」
小さく、ミハエルは頷いた。
いい子だ、とザックスは言った。
「うん、喉乾いたし、俺なんか買ってくるわ。ミハエル、アドルフ、何かいるか?」
唐突な言葉に、ミハエルは目をぱちくりさせた。
「いらねーの? 折角俺がパシってやろうってのに」
爽快に笑いながら、ザックスは二人にひらひらと手を振った。
廊下に出て、部屋の中からは見えない位置でザックスは立ち止まった。
リビングの扉に隠れるようにして、立ちつくしていたのは銀髪の少年だった。
ふ、と息を吐いて、ザックスは親指で向こうへ行こう、と示した。
エーリッヒは黙ってそれに従う。
飲料の自販機とソファの置いてある、休憩スペースでザックスは立ち止まった。
冷たいオレンジジュースを二つ買って、片方をエーリッヒに投げてよこす。
「……済みません、僕…、余計なことを…」
プシュッ、とザックスがプルタブを引くのを聞いて、エーリッヒは重い口を開いた。
ザックスは、ジュースを一口飲んで、
「悪いと思うなら、走ってくれよ」
に、と笑った。
エーリッヒが驚くくらいに晴れやかなその笑顔は、エーリッヒを完全に沈黙させてしまった。
そんなエーリッヒを面白そうに見て、ザックスは器用に片目を閉じて見せた。
「走りたくとも走れない、俺達のために」
6「1996年7月21日(日) ドイツ・ベルリン(曇) 10:07」
突然現れ、今からリーダーだと名乗った少年を皆に受け入れさせるには、
彼の速さを見せつけるしかない。そうした判断から、今年のアイゼンヴォルフ実力査定レースは、
毎年より1ヶ月ほど早く行われることになった。本来ならば8月に行われるはずのこのレースは、
慣習ならば入団テストも兼ねる。だが、現リーダーが敗れた相手が入団することを決めた以上、
それを繰り上げて行わなければならないのは確定的だった。
入団志望者の予選は、二週間ほど前から始まっている。上層部の大人達もバタバタしていたが、
現アイゼンヴォルフの面々も同じかそれ以上に慌ただしい1週間を送っていた。
ミハエルは、このレースをお披露目にするために、この2週間レースをさせてもらっていない。
タイム取りはしているが、それでも他のメンバーと一緒に走ることはしていなかった。
ミハエルには、どうでもいいことだったかもしれないけれど。
入団テストも最終日の今日は、一軍・二軍を決める為に、入団テストで最終選考まで残った
メンバーと、現アイゼンヴォルフのメンバーでレースをする。
シュミットとエーリッヒの特別の措置によって、メンバー選考には関係のないものの、
ザックスもレースに参加することになっていた。
「…なんか、いろいろ悪い、な」
ベルクマッセの調整を終えたザックスが、シュミットとエーリッヒに言った。
本戦用のコースとは別に用意された、調整用のコースを走らせていた二人は、少し顔を見合わせ、
それからザックスに向き直った。
「悪い? 何のことを言っているんだ。私達が勝手にやったことだぞ?」
「そうですよ。引っ越しの用意とかで忙しい貴方のスケジュールを、
無理に割いて貰ったのは僕達なんですから」
そうして、二人は、に、と強気に笑った。
「手加減はしないからな」
「僕もです。負けませんよ」
「おいおい、三人で盛り上がらないでくれよ。俺達だって、負ける気はないんだからな」
振り返ると、アドルフとヘスラーが自信いっぱいで笑っていた。
「ははは、やる気満々だな。…ミハエル、お前も来いよ!」
ザックスが呼ぶと、少し離れたところで一人で立っていたミハエルが、ふと顔を上げた。
その手に握られたベルクマッセが、静かにスタートを待っていた。
ミハエルが動かないのを見て取って、ザックスは肩を竦める。
「…警戒してるんだろ。友達って呼べる知り合いがいない奴だから」
そう言ったザックスの表情は、暗かった。
最も、苦笑に隠したその表情を読みとれた者が何人いたかは、判らないが。
「さて、と…、レースは15分からだったよな。そろそろ放送が入るかな」
『間もなく、アイゼンヴォルフ入団テスト最終レースのスタートです。
選手の皆さんはスタート位置について下さい』
始まる。
皆の間に、一様に緊張が走った。
今日のレースは、アイゼンヴォルフ選手寄宿舎の周りに巡らされた
コーナー・高速複合コースを5周して行われる。
一見単純だが、その実セッティングを誤ると一瞬にしてコースアウトしかねない、
ギリギリの計算の元に造られているコースだった。
毎回、エーリッヒはコースを見て、その計算の緻密さに驚かされる。
コース設計部の連中は、相当暇なのだろう。
スイッチを入れる音が、静かになったレース会場に響いた。
モーターが、強敵を求めて唸っている。
『レディー…、ゴーッ!!』
シグナルが変わる。
マシン達はいっせいに、コースに飛び出していった。
スタート直後、トップを取ったのは、エーリッヒのマシンだった。
トルク重視のエーリッヒのマシンは、立ち上がりの加速なら他のどのマシンにも負けはしない。
そのマシンに、すぐに追い付いてきたのはアドルフ、ヘスラーのマシンだった。
スタート後の直線を駆け抜け、第一コーナーへ。エーリッヒはインを取って、
その高速コーナーを抜けた。ちらりと、後ろを見る。
その瞬間に、エーリッヒにすっと追い付いた影があった。
「ザックス」
「コースアウトしないぜ。今日はな」
にぃ、と笑って、ザックスは先へと走っていった。
エーリッヒは口元に笑みを浮かべた。楽しそうに。
もう一度後ろを向くと、いつの間にアドルフとヘスラーをパスしたのか、
すぐ後ろでシュミットも同じ表情を浮かべていた。
…リーダーは?
ヘスラーの後ろだ。
2軍と新入員をぐんぐん引き離す、一軍についてきている。
そして、その顔には余裕の笑み。
「…そろそろかな」
ちらりと、自分の傍らを走るベルクマッセに視線を送る。
逆らうことを許さない、支配者の瞳で。
ミハエルのマシンがスピードを上げた。
タイヤもマシンも、充分に温まった。
「なっ…!?」
あっという間にアドルフとヘスラーを抜かし、呆然としているその横を走っていく。
先頭のマシンは3周目のホームストレートだった。
そのマシンを操っているのは、シュミット。
エーリッヒとザックスがそれに続く。
三番手に後退したザックスの、頬を冷や汗が伝った。
「お先に、ザックス」
ふわりと、まるで草原を駆け抜ける風のようにミハエルがザックスを追い抜いた。
速い。
想像以上。
ミハエルはそのまま、エーリッヒのマシンをも追い越した。
そのマシンの、ストレートでの伸びに、エーリッヒは愕然とした。
テクニカルコーナーセクションでも、その差は取り返せない。
これが、実力の差か。
ぎっ、とエーリッヒは奥歯を噛み締めた。
ミハエルに追いつけないのは、恐らくと予想していた。
だが。
自分は、それ以前にシュミットに追いつけていない。
自分と、シュミットの今の差は?
約0.5秒。
2ヶ月半前には隣を走れていたのに?
シュミットは怖ろしいスピードで成長している。
そのシュミットに、ミハエルは並んだ。
ファイナルラップ。
「楽しかったよ、シュミット。でも…、僕の敵じゃない」
鮮やかとしか言いようのないほど綺麗に、コーナーでミハエルのマシンはアウトから
シュミットのマシンを抜いた。
シュミットは、苦々しい思いでその背を見送っていた。
高く、高く、チェッカーフラッグが振られた。
「11:23」
レースの結果を告げる電光掲示板の表示を見て、ザックスは大きく肩を竦めた。
「誰がどう言おうと、ぶっちゃけ完敗。文句の付けようもなしだな。
アイゼンヴォルフの一軍は、間違いなくお前らだ」
Saxの名は、掲示板の6番目にあった。
それは、彼が6位でレースを終えたことを示していた。
…古いものは、もういらない。
「これからは、お前らの時代だ」
ザックスは、風に翻るアイゼンヴォルフの旗を見た。
その旗が、全世界のミニ四レーサーの前に掲揚される日も、遠くないだろうと思った。
7「1996年8月3日(土) ドイツ・ベルリン(晴) 10:47」
「次はフォーメーションツェーだ!」
「Ja!」
ミハエルの声に従って、ベルクマッセが生き物のように動く。
カーブを、見事な隊列のままでクリアすると、
また一本のラインのように一列になってコースを走っていく。
「よーしストップ。休憩するよ!」
屈んで自分のマシンを受け止めると、ミハエルは飲み物の置いてあるコーナーへと向かった。
…見事だな。
シュミットは自分のマシンを手に持って、ミハエルの後ろ姿を見つめていた。
GPチップを積んで、フォーメーションを記憶させることを第一としている今の練習走行の中で、
ミハエルの指示はすべて的確で理想的だった。これなら、GPチップを搭載しての初めての
レースとなるドイツグランプリはアイゼンヴォルフの呆気ないほどの圧勝で幕を閉じるだろう。
GPチップの搭載で、ますます「チーム」の重要性は高まってくる。
今まではチームとは言っても、せいぜいがスリップストリームの利用か
ブロック程度に限られていた。
だが、これからは違う。マシンが自分でコースや状況を理解し、走っていける物になった以上、
チームフォーメーションのバリエーションは無限にあると言ってもいい。
指導者如何によって、今まで弱小チームだったものが思わぬ強敵になることにも、
最強と唄われたチームが地に落ちることにもなりかねない。
それで言うと、ミハエルは天下一流の指導者だった。
コース分析もそれに合ったフォーメーションも、
相手の戦力でさえ瞬時に見抜いて作戦をたてる。
なんという判断力と理解力だろう。
シュミットも、悪い指導者ではないと自負しているが、彼と比べた時、
自分は所詮凡夫でしかないことを思い知らされるのだった。
「やはり凄いですね。貴方が推挙した理由が判ります」
ドリンクを両手に持って来たエーリッヒが、シュミットにその片方を渡しながら言った。
受け取って、シュミットはそうだろう、と言った。
「ドイツグランプリは我々が頂く。ヨーロッパグランプリの前哨戦だからな」
ドイツグランプリで三位以内に入賞したチームが、ヨーロッパグランプリ予選の
出場権を手にすることができる。いわばヨーロッパ最速の称号を手にするための
足がかりでしかないレースで、躓くつもりなど毛頭ない。
「しかし、今年のEGPは面白いのでしょうか。すでに、イタリアはロッソストラーダを
WGPに投入することを表明しています。また、北欧もオーディンズを
ヨーロッパグランプリに欠場させるようです。おそらくはこちらも、」
「世界グランプリ出場のため…か」
「はい。スペインはどうでしょうね。噂によると、ボリゾンテが新マシンを手に入れたらしいですが」
「GPチップの調整如何だろうな」
「ええ」
…そうだ、GPチップの。
「…より一層のチーム戦が始まるな」
「はい」
グランプリはチーム戦。
全てのチームがきっちりとGPチップの調整を合わせてくるのはおそらくWGP、
EGPになるだろうが、それまでにも数度、グランプリレースは開催される。
チーム戦なのだ。
リーダーを中心に、一丸とならねばならない。
それには、自分の胸にあるこの感情は…邪魔だ。
ふぅ、とシュミットは息を吐き出した。
「…エーリッヒ。あとで話がある」
判りました、とエーリッヒが答えるのと時を同じくして、ミハエルの声が練習再開を告げた。
「17:08」
「私は、あの人の才能に嫉妬している」
「…はい」
シュミットの部屋で突然告げられた言葉に、エーリッヒは頷いた。
エーリッヒは彼のベッドに、シュミットはその正面に机の椅子を引いてきて座っていた。
「リーダーとしての指導力も、一レーサーとしての実力も遠く及ばない。悔しいよ」
「はい」
「…私は自分から迎え入れたくせに、まだあの人をリーダーと認めたくないんだ」
「はい」
「…エーリッヒ。真面目に話しているんだ、少しは真面目に聞け」
同じ言葉しか返さないエーリッヒにいらつきを覚えて、シュミットは顔を上げて親友を睨み付けた。
エーリッヒは至極落ち着いた、真剣な顔をしていた。
「聞いていますよ」
「だったらもう少しマシな答えを返せ」
シュミットの言葉に、エーリッヒは挑戦的な微笑した。
「貴方は、明確な答えを必要としているのですか?」
「…なに?」
ぴくりとシュミットの眉が動く。
エーリッヒは臆面もなく、紫の瞳を見つめた。
他の人ならまだしも、シュミットは自分の感情を整理して名前をつけることが得意だ。
「貴方に必要なのはアドバイザーじゃないでしょう。
ただ話を聞いてくれる存在が、今貴方の必要としているものでしょう?」
ただしその存在は、シュミットが全幅の信頼を置くものでないとならないが。
気をおけない相手にすべてを打ち明けることでしか、シュミットの気持ちが
落ち着かないことを、エーリッヒは直観的に悟っていた。
「…貴方に言わせれば滑稽かもしれませんが、僕に言わせてもらえば、
貴方の言葉は立派な懺悔ですよ」
神を信じないシュミットは、あからさまに気分を害した顔をした。
だが、エーリッヒはシュミットに言わなければならない言葉を知っている。
たとえ、それがシュミットの気に食わないことであったとしても。
「言葉にすることは、感情を認識することです。悪いことじゃありません。
どうぞ、しっかりと聞いていますから続けてください」
神父の役割を演じることが自分には役不足であったとしても、
シュミットの懺悔を聞くことが出来るのは自分しかいない。
シュミットは片手で視界を覆いながら顔を上向けた。
「…最近私はお前に格好悪いところばかり見せているな」
くすりと、エーリッヒは笑った。
「どうせ僕にしか見せられないのでしょう? 大丈夫ですよ。言ったでしょう、僕は貴方の味方だと」
手の下から目を覗かせてエーリッヒを視界に入れたシュミットは、
軽く肩を竦めるリアクションをしてみせた。
「…それはどうもアリガトウゴザイマス」
シュミットの仕草とその口調に、エーリッヒは軽く声を立てて笑った。
つられて、シュミットからも笑みが零れる。
…久しく、笑っていなかった気がする。
笑いが納まってから、シュミットは大きくため息を付いた。
「…私はあの人と上手くやっていく自信がない。
上辺だけの付き合いならまだしも、…そうはいかない気がするんだ」
「はい」
「…これは同族嫌悪というものだろうな。あの人と私は良く似ている。…才能は段違いだが」
「はい」
「解ってはいるんだ。あの人ほどリーダーとして相応しい人はいない。頭では認めているのにな…」
それを態度に表せる程、シュミットは柔軟ではない。
元もと高いプライドも、そこには関係していた。頭では認めていても、
彼に対する嫉妬をどうすることもできなければ、
よそよそしく従順な「部下」を演じる以外の道を発見することができない。
こういうところだけ、不器用なのだ。この人は。
「取り敢えずは、」
微笑を浮かべながら、ふ、と息をついて、エーリッヒは立ち上がった。
「その他人行儀な呼び方から改正していってみてはいかがです?」
ぴくり、と反応してエーリッヒの方を向いた怪訝な表情を見ると、
どうやら気付いていないらしい。
今度は呆れたような溜息が零れた。
「貴方、ミハエルのことを「あの人」か「リーダー」としか呼んでないでしょう」
かく言うエーリッヒも、ミハエルを直接呼んだことはない。だが、こんな風な
会話の中ですらミハエルの名を呼ばないなどというのは、確かに異常だった。
名指しすることすらどこかで避けているのだとしたら、
この緊張状態を抜け出すことなどまず不可能だ。
シュミットは弱々しい苦笑を浮かべた。
「…努力しよう」
「素晴らしい。では、僕は部屋に戻らせて頂きますね」
「ああ、エーリッヒ」
ドアに手を掛けた親友を、シュミットはふと呼び止めた。
「なんですか?」
「その前にコーヒーを淹れていけ」
「…Ja」
7.は「VERANLASSUNG」補足「VERANRAGUNG」より編集です。
「LASSUNG」をお持ちの方で「RAGUNG」を持っていない方は、
イベント会場でSOSにその旨伝えていただけると、
「RAGUNG」の方は無料で差し上げております。
ウェブとの差異は、縦書き・横書きの違いと、
10ページほどの漫画の有無かな。
モドル