8「1996年8月4日(日) ドイツ・ベルリン(晴) 13:07」
中空に手を差し伸べると、一羽の小鳥がぱさりと舞い降りてくる。
右手の人差し指に感じる微かな重みと、小鳥の爪の優しい痛み。
優しい痛み。
アイゼンヴォルフのメンバーたちは、ミハエルのことを認めてくれていた。
それは、順位決定戦以来何度かこなした練習走行のためである。
実力主義のこのチームは、速い者を無条件で尊敬の対象とする。
だから、年下、という条件はミハエルにとって欠片も不利にならなかった。
リーダーとしての彼に、シュミット以下、皆が従う。
レース以外でも、皆はミハエルに良くしてくれた。さりげない心遣い、気配り。
ミハエルが振舞いやすいような雰囲気作り。
それは、ミハエルにこの小鳥の爪のような、優しい痛みを感じさせるものだった。
彼らは自分に優しくしてくれる。友達のように。
だけれどそれは、つくりものではないのか? 自分をこのチームに居させるための。
つくりものではないのか? 自分が、リーダーだから。
ふと、疑問に感じては自分に言い聞かせることがある。
自分がリーダーの間は、彼らは自分に逆らわない。
僕から、離れない。
ひとりぼっちだったミハエルにとって、アイゼンヴォルフのメンバーとの生活に
浴する事は喜びと、拭いきれない不安を孕んでいた。
心に浮かんだ不安はミハエルにかたくなな態度を取らせた。
警戒はいつでも続いていて、メンバーと寛いだ会話を交わした記憶すら、
そういえばみつからない。
知らず、顔に微苦笑が浮かぶ。
ふいに、背後で扉の開く音がした。
指の小鳥は飛び去っていく。
「リーダー。…ここにいたのですか」
振り返ると、濃い茶色の瞳がミハエルを捕らえていた。
ふい、とミハエルは視線を前方へと戻す。
アイゼンヴォルフ宿舎の屋上であるここからは、ベルリンの町と、
遠く丘や山が見渡せた。
「…シュミットが探していましたよ」
ミハエルに近づこうとはせず、ヘスラーはミハエルに用件を伝える。
ミハエルは動かなかった。
「気分が優れないと、伝えておきましょうか?」
「いいよ」
やっと返ってきた返事に、ヘスラーはひとまず安堵の息をついた。
ザックスが抜けた後のミハエルの態度は、はっきり言うと扱いにくいの一点だった。
シュミットに指示された業務はこなすが、それ以外はしようとしなかった。
自主的に動くことをほとんどしない。それこそ、100%しか動かないのだ。
挨拶をすれば返事は貰える。
だが、それ以上の会話を引き出そうとすれば、多少なり努力が必要になる。
それを、ヘスラーは今まで育ってきた環境のせいだろうと思っていた。
シュミットたちも、おそらくそう思っているはずだ。
だが、そうしたミハエルの態度が1軍以下のメンバーに不信感を持たせるのは目に見えていた。
いくらレース時の指示が完璧だとはいえ、普段のミハエルの態度がこのまま
改まらないのであれば、アイゼンヴォルフの内部崩壊をも招きかねない。
人間同士の関係は、いろいろと複雑だから。
何とかしたいのは山々だが、どうしていいかという具体策については、
まったくといってヘスラーには浮かばなかった。
結局、ミハエルの機嫌を損ねないように立ち回るしか、ヘスラーには思いつかなかったのだ。
そのうち、挨拶を返してくれるようになるかもしれない。
それには、ヘスラーがなんとなく、感じていることも関係していた。
ミハエルは、まるで殻に篭っているような感じがする。
日常生活を除けば、つまり、レース等に限定して言えば、ミハエルは完璧すぎるほど
完璧な“リーダー”だった。装っている、ような。ミハエルの視線は、観察者のそれだ。
シュミットやエーリッヒもよくそんな眼をするが、ミハエルのものはもっと冷たくて遠い。
いつでも自分を含めた全体を「物体」として捉えている。そうして、シュミットやエーリッヒの
それと違い、ミハエルの視線は四六時中変わらなかった。
シュミットたちの目線はどこかで、観察者のそれから当事者のそれに変わる。
そうしないと、精神が疲れて参ってしまうからだ。緊張の糸はどこかで弛緩させないと、
脆くも切れてしまう。彼らは、弛緩させることの出来る場所を持っているのだ、幸いにも。
だが、ミハエルには。
おそらく、ミハエルには未だ、緊張を緩めていい場所が見つからないのだろう。
誰かと一緒にいる限り、ミハエルの目線は観察者の位置を揺らがない。
だが、だからといってミハエルをずっと一人きりにしておいても、
問題の根本的解決にはならない。
ミハエルに、アイゼンヴォルフに居場所を作ってもらうしかなかった。
緊張を緩めてもらえる、「仲間」という意識と共に。
「ねぇ、君は僕の事をリーダーだと認めてる?」
突然くるりと振り返った小柄な少年は、口元に酷薄な微笑を浮かべながら、
ヘスラーに思いもよらない質問を投げかけてきた。
ヘスラーは多少の驚きと共に、勿論、と答える。
「貴方の実力は見ていますし、…何よりシュミットが認めたのだから、私も認めています」
その答えに、ミハエルはふぅん? と語尾を上げて目を細めた。
「シュミットを信頼してるんだね」
ヘスラーは、苦笑した。
後頭部をぼりぼりと掻きながら、信頼というか、と言葉を選んだ。
「シュミットは…見たとおり、プライドの高い奴だから、
間違っても自分より弱い人間に従おうなんてしませんからね」
「ふぅん、君はアドルフよりはオトナっていうわけだ。
でもさ、理解できても納得できない、ってことはあるんじゃない?」
…アドルフより?
アドルフとミハエルの間に何が起こったのかは解らないが、
ヘスラーは取り合えずそんなことは置いておいて、ミハエルの言葉を解読しようと試みた。
理解できても納得できない。
そんなことは世の中にごまんとある。
だが、ミハエルをリーダーに掲げる事に関しては、
ヘスラーには理解も納得も出来ることだった。
なぜそんなことを尋ねてくるのか、ミハエルの心情が図りかねる。
「…少なくとも私にとっては、」
ヘスラーは言葉を捜した。
普段から寡黙なヘスラーは、ハッキリ言って人を前に喋るのは苦手だった。
「貴方は尊敬すべきリーダーだと思います。」
「尊敬すべきリーダー、…か」
皮肉っぽく、ミハエルは唇を歪めた。
リーダー業務以外は人間関係すらも築こうとしない自分を、
咎めようとする人間すらいない。
いかに自分が必要とされているか、そして仲間という認識からは遠い場所にいるか。
完璧な“リーダー”という隠れ蓑だけが、ミハエルをこの場所に居させてくれる。
「君たちにとって必要なのは、リーダーなんだよね」
「…え、?」
くすくす、笑いながら、ミハエルはヘスラーの脇を通り抜けて屋上を後にした。
リビングへと戻ると、シュミットがソファに腰掛けてプリントに目を通していた。
ミハエルが入ってきたことに気付いているのだろうが、あえて無視を決め込んでいる。
シュミットに向かい合う位置に座って初めて、紫の瞳はミハエルを認識した。
「…ヨーロッパグランプリ予選の資料です」
数枚のプリントを、そのままミハエルに差し出す。
ミハエルは受け取らず、じっとシュミットを見つめた。
「…なんです?」
行き場のなくなったプリントを自分の元へと引き戻す。
ミハエルは別に、と短く答えた。
リーダーとしての業務だけはきっちりとこなしていたミハエルが、
プリントを受け取らないとは珍しい。
だがそれも、一時の気紛れだろうと、シュミットは気に止めなかった。
そのうちミハエルは、ふいと立ち上がってリビングを去った。
シュミットは、しょうがない、という風に溜め息を吐く。
そして、自分が柄にもなくあの人の前では緊張していることも認識する。
エーリッヒには努力するとは言ったが、打ち解けることなどまだまだ出来そうもない。
リビングのドアが開く音がした。
シュミットが視線を向けると、そこに立っていたのはヘスラーだった。
「どうかしたのか?」
どこか惑うように視線を落ち着き無くさ迷わせているヘスラーに、
シュミットは眉を寄せながら尋ねた。
「いや…さっき、ミハエルが…」
「ああ、来たぞ。それがどうかしたのか?」
「いや…何というか」
「はっきりしない奴だな。何だ、言ってみろ」
「……、リーダーに何か言ったか?」
意を決したような表情で言われた言葉に、シュミットは一瞬面食らった。
「いや、特には何も言っていないが」
本当に余計な会話をした記憶がないので、シュミットは首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「…多分、怒らないのが問題なんだと…思う」
「…は?」
ヘスラーの言った言葉の意味が分からなくて、シュミットは眉間の皺を深くする。
ヘスラーは、屋上でミハエルと交わした会話を注意深くシュミットに伝えた。
「…なるほどな」
何かにイラついているような表情で話を聞き終えたシュミットは、
プリントを手にしたまま立ち上がった。
ミハエルのことを伝えたことによって、また何かややこしいことになりはしないかと
心配しているヘスラーをその場に残し、シュミットはリビングを出た。
真っすぐにミハエルの部屋へと辿り着き、ノックをする。
だが、中からは何の反応も返ってこなかった。
部屋に戻ったのではなかったのか。
その場に立ち尽くしたまま、ミハエルの行きそうなところを考える。
だが、練習場、リビング、自室の他には、シュミットはミハエルのいそうな場所の
見当がつかなかった。
リーダーとしてのこと以外、自分はミハエルのことを何も知らないのだと思い知らされる。
それはミハエルをシャットアウトしていたことの端的な証明に他ならない。
シュミットは微かに舌打ちした。
自分自身に腹が立つ。これであの人と上手くやっていこうなんて、良く言ったものだ。
仕方がないのでしらみつぶしに探してみようと、練習場に足を運んでいる最中に、
エーリッヒと出会った。
何枚かのプリントを持っている所から見ると、次の会議の準備だろうか。
「エーリッヒ。リーダーを見なかったか?」
「さあ…? 自室にはいらっしゃらないのですか?」
「だから探しているんだ」
「僕もお手伝いしましょう」
「…助かる」
よほど手掛かりがないのか、シュミットは素直にエーリッヒに助けを求めた。
エーリッヒはプリントを持ち直して、取り敢えず大ホールに向かいましょうと言った。
ミハエルとアドルフをその場所で何度か目撃した事がある。
大ホールの扉を開けると、穏やかなピアノの調べが聞こえてきた。
少なくともアドルフはいるらしい。
ホールに入ると、舞台上のピアノにアドルフと、目的の人物を見付けることができた。
そして、おそらく責任を感じてミハエルを探したのであろうヘスラーも、舞台の下にいた。
ホールに響いた足音に、ミハエルの視線が動く。
アドルフも、手は動かしたままに二人の来訪者を見ていた。
舞台の下まで歩いていって、シュミットはミハエルを見上げた。
「…我儘もいい加減にして頂きましょうか」
突然の言葉に、ミハエルは目を見開いた。
今まで、シュミットがミハエルの行動に対して抑制をかけたのは、
アイゼンヴォルフのメンバーに初めて顔合わせをしたときに一度、
レースを止められたときだけだったからだ。
「…いつ、僕が我儘なんて言ったのさ」
ミハエルはシュミットを睨み下ろした。
今まで服従の態度に撤していたシュミットの行動に、
驚いた顔をしているのはミハエルばかりではなかった。
「確かに貴方はリーダーとしては立派ですが」
手に持っていたプリントをひらひらさせる。
ミハエルが、リーダーとして受け取らなかった重要書類だ。
「日常生活では我儘の塊でしょう。その愛想の悪さも態度も、我儘以外の何だというのですか」
「シュミット、言い過ぎです」
エーリッヒがシュミットを嗜めるように言葉を挟んだ。
「言っておかなければならないこともあるんだ、エーリッヒ」
シュミットとミハエルは剣呑な調子で睨み合っている。
心配そうな表情のエーリッヒ、アドルフ、ヘスラーを尻目に、シュミットは再び口を開いた。
「…私は貴方が苦手です。貴方がこのチームに来てから、私は一つも本調子になれない」
「…僕に抜けろって言うの? 君が僕を呼んだくせに」
いいえ、とシュミットは首を左右に振った。
「抜けられては困ります。貴方は間違いなく、このチームのリーダーだ。
ただ、知っておいて欲しいだけです」
「何を」
「仮面の下の、私の本音を。
貴方の追随者というだけでなく、私は貴方のライバルでもあるということを。そして、」
ふ、とシュミットは表情を緩めた。
それは、シュミットの努力の第一歩。
「私たちはいつでも、貴方を受け入れたいと思っていることを。
だから、もしも受け入れて欲しいと思うならば、貴方が態度で示してください」
「………」
ミハエルは冷静に、シュミットの表情を見ていた。
「…僕にも言わせてもらえる?」
舞台から飛び降りて、ミハエルはシュミットのすぐ傍まで歩み寄った。
敵対の視線を向けたままのミハエルに、シュミットは身を固くする。
「僕も君の事苦手なんだよね。いつもかたっくるしくて、怖い顔してて、
必要最低限しか僕に関わろうとしてない。
エーリッヒのこともアドルフのこともヘスラーのことも、僕好きだけど、君だけは苦手だった。
だって、君が僕のことを嫌ってたから」
シュミットは苦笑いを浮かべた。
故意に避けていたことも、必要最低限しか関わろうとしなかったことも見破られていた。
「だから、君が必要なのはただ完璧な“リーダー”なんだと思ってた」
「…リーダーが完璧である事に不満を持つ気はありませんが?
ただ、無理をしてまで完璧を装う必要などはないと進言しているまでです」
ああ言えばこう言うね。
呟いて、ミハエルはシュミットに抱きついた。
「…ごめんなさい。君の言うとおりだ。僕は、完璧じゃなきゃ君たちの傍に
いられないんだと思った。
リーダーとして完璧だったら、それで満足なんだろうと思ってた。
必要なのは“僕”じゃないんだって思ってた」
「…我々にとって必要なのは、貴方でありリーダーです。
業務上完璧なだけでは、私たちはチームとは言えない。仲間とは言えない」
自分よりも小さな少年の頭をそっと撫でて、
シュミットは暴言を吐いてすみません、と謝った。
ミハエルは、いいよ、という意味で首を振った。
「…良かったな」
いつの間にかピアノから離れ、舞台を下りていたアドルフがエーリッヒに言う。
エーリッヒは二人の方を見ながら、頷いた。
「はい。これでシュミットも少しは本調子を取り戻してくれるでしょう」
メンバー入れ替えを終えたアイゼンヴォルフが、
やっと一つのチームとして動き出すことが出来る。
それを感じて、エーリッヒは心の中で胸を撫で下ろした。
どれだけマシンが早くなったとしても、所詮レーサーのメンタル面で問題があれば、
レースで勝つことなどできなくなるのだから。
「リーダーも、俺たちに馴染んでくれるかな」
「大丈夫ですよ、きっと」
親友と良く似たタイプであるミハエルは、きっと心を許せば打ち解けるのは早い。
「ああ」
「…そうだ、みんな」
シュミットから離れ、ミハエルは今までは見せなかった無邪気な笑顔を浮かべた。
「レース以外のときは、僕のことミハエルって呼んで欲しい。
皆が名前で呼び合ってるみたいに!」
「「「「Ja、ミハエル」」」」
四種四様の声。
改めてよろしく、とミハエルが差し出した手を、4人は握った。
そうして笑い合い、お互いを確認しあう。
アイゼンヴォルフ、無敵の狼たちの姿を。
「では、僕は会議の資料をコピーしに行ってきますね」
「ああ、俺も手伝おう」
ヘスラーの声に、俺も、とアドルフが同調する。
「皆仕事があるんだね」
つまらない、といった風情のミハエルの肩を捕まえて、
シュミットはその眼前にプリントを突きつけた。
「貴方は私とヨーロッパグランプリの資料の検討ですよ」
「ぅえ〜? 厳しさは変わらないの?!」
「それとこれとは、話が別です」
明るい笑い声が起こった。
それは、彼らを結びつけた絆のように、大ホールを満たして、強く深く響いた。
9「1996年8月11日(日) ドイツ・ベルリン(晴) 05:42」
ミハエルがリーダーになって、シュミットがbQに落ち着いて、3週間が経過した。
早い朝の訪れに、久しぶりに6時前に目が覚めたヘスラーは、
目を覚ますために宿舎内を散歩していた。
涼しく、気持ちの良い朝だった。
室内コースのある部屋の前をゆっくりと歩いていた彼の耳に、
聞き慣れたモーター音が飛び込んできた。
自然、足はそちらを向く。
練習用のホームコース内は、朝の光を高い場所にある窓から取り込んで輝いていた。
コースを走るマシンは1台。見慣れたベルクマッセ。
走っているのは────エーリッヒ。
淡い青の瞳は、前方を睥睨していた。顔は苦々しく歪んでいる。
まるで、目に見えぬ仇を見ているような。
練習場の扉を開けてヘスラーが入っても、エーリッヒは気付きもしなかった。
追いつめられている。
ヘスラーは一つ、咳払いをした。
気付かない。
一瞬の逡巡の後、ヘスラーは声をかけた。
「エーリッヒ」
背が高いわりに細い、脆そうな背中がびくりと反応を返した。
「…ヘスラー? 早いんですね」
振り返ったエーリッヒは朝に相応しい、柔らかい笑顔を湛えていた。
「お前こそ。まだ6時だぞ?」
エーリッヒは曖昧に笑った。それ以上を追求されたくない顔だった。
エーリッヒが止まったことで、ひとりでコースを走り続けていたマシンを、
ヘスラーは屈んで止めた。スイッチを切って、エーリッヒに渡す。
「ありがとうございます」
自分のマシンを、エーリッヒは受け取った。
良くメンテナンスされたマシンは、ヘスラーから見ても充分に速かった。
だが。
「…良く仕上がっているじゃないか」
その言葉にエーリッヒは笑って、まだまだですよ、と言った。
謙遜でも何でもない。マシンを見る目が、それを物語っていた。
まだ遅い、もっともっと早くしなければ──。
「何故、…そんなに速くする?」
そんなに速くして、どうしようと言うんだ?
落ち着いた声は、エーリッヒに安心感を与えてくれる。
「…僕は、」
他の人間になら、けして言わなかっただろう。
だが、ヘスラーなら。
寡黙な彼は、けして誰にも話したりしない。
「追いつきたいんです」
誰に。そんなことは訊かずとも判った。
彼の前を走られる者はそうそういない。
ヘスラーは、分かり切ったことを尋ねるほど愚物ではなかった。
マシンを握るエーリッヒの手に、知らず力が込められる。
それを見て、ヘスラーはここのところのエーリッヒの走りに対して、
言いたかった一の意見が首をもたげるのを感じた。
おそらくそれは、本人は気付いていない事。
「…エーリッヒ」
俯き加減だった新しいbRに、ヘスラーは声をかけた。
エーリッヒは顔をあげた。
「何です?」
「…こんなこと、…言うべきじゃないと思うんだが」
エーリッヒは笑った。何でも言ってくれと表情で示すように。
ヘスラーは真っ直ぐに、エーリッヒの目を見た。
「…真面目に走れよ」
数秒、エーリッヒは動かなかった。
そして、言葉の意味を理解した途端にその目は大きく見開かれた。
言葉を紡ぐタイミングを逃した口は、開かれたままいくつか形を変えるのみだった。
ヘスラーは、目を逸らさなかった。
「最近のお前は、何処を見て走っているんだ。何を見て。
自分が、一番見なくてはならないものを見ずに…」
ヘスラーの視線が、そこでやっとエーリッヒから外れた。
下がった視線を追って、エーリッヒは自分の手の中にあるものを見つけた。
濃い灰色のボディ。それは、ちょうど一年ほど前に渡されたマシンだった。
いくつものレースを共にこなしてきた戦友。
何処を見て走っている?
ヘスラーの声がした。
エーリッヒは視線をコースに戻した。
今さっきまで走っていた。あそこを。自分のマシンも見ずに。
彼らの、彼の背中を追いかけて。
追い付きたくて。
モーター音。耳に蘇る。
コース上を走るマシンの。ギヤの音。タイヤの摩擦音。
コーナーでコースと接するローラーの。マシンのぶつかる音。
声。誰の。
マシンの。
そして、このマシンより長く一緒に走ってきた親友の──。
はっとして、エーリッヒは目を開いた。
ずっと開いていたはずだったが、一瞬、夢を見ていた気がした。
すぐ傍に、ヘスラーの顔。
落ち着いた、彼の顔。
「…そう、ですね」
エーリッヒの口元が弛んだ。今度は無理なものではない。安心したような、自然な笑み。
今まで、幻を相手に走ってきた。
追いつけないも追いつくも、すべてはエーリッヒの中でだけのこと。
「白黒、はっきりつけたいと思います」
現実の世界で。
そうしなければ、きっと進めない。
そうしなければ、きっと追いつけない。
追い越せない。
「ありがとうございます、ヘスラー」
「ああ。…頑張れ」
寡黙な友は、そう言ってエーリッヒを元気づけた。
最早、それ以外に彼をサポートする方法を見つけることができなかった。
「06:13」
部屋へ帰り、エーリッヒは机の引き出しを開けた。
一番上の引き出しの中、小さな箱に収まっているのは薄青のマシン。
ベルクマッセより以前に使っていた、エーリッヒの、マシン。
まだシュミットと対等に渡り合えていた頃の、あの頃のマシン。
「…走れますか、ローデルン」
ベルクマッセよりもポテンシャルにおいて数段劣る、そのマシン。
それでも大切に仕舞っておいたのは、思い出もあるけれど、いつかこのマシンで
もう一度シュミットと戦いたかったというのもあるのかもしれない。
そっと、エーリッヒはマシンを取り出した。
昔の自分が、ベストセッティングだと思ったときの、そのままの姿。
レーサーズボックスを取り出して、エーリッヒは椅子に座った。
その顔には、ここ数週間見られなかったような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「14:08」
「つっかれたァー!」
ミハエルはそう言って、一軍用リビングのソファに沈み込むように座った。
アイゼンヴォルフの上層の、大人達との話し合いは2週間に一度くらいの
頻度で行われる。
リーダーとbQに欠席を許さないその会議が、2回目の参加でミハエルは
大嫌いになったようだった。
初めの一回は、エーリッヒも含めた3人で行った。
不慣れなミハエルを二人で支えるために。
だが、二人での参加では雰囲気はずっと重苦しく、ミハエルは胸焼けがした。
威圧するような空気を、敏感に感じ取ったのだろう。
「ご苦労様でした」
アドルフが言った。
今、リビングにはアイゼンヴォルフ一軍の5人が揃っている。
ミハエルは、ぷぅ、と可愛らしく頬を膨らませてみせた。
「ほんっと、ゴクローだよ。なにアレ。シュミットもエーリッヒも、
よくあんなのに耐えられてたよね」
あーいやだいやだ、と言うようにひらひらと右手を振り、
ミハエルはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「お茶、淹れましょうか」
自然なエーリッヒの申し出に、シュミットはああ、と言った。
その会話に、ミハエルの耳がピクリと反応する。
「え、何? エーリッヒが淹れるの?」
意外、と言うように、翡翠色の瞳がエーリッヒを見た。
確かに、bRがお茶汲みをするケースは珍しいかもしれなかった。
「エーリッヒが淹れる紅茶が一番美味しいんですよ。一度、飲んでみられると良い」
どこか誇らしげに言うシュミットに、エーリッヒはとびきりの笑顔を見せた。
「姉と、どこかの我が儘なおさななじみサマに鍛えられましたから」
「感謝しろ」
皮肉に気付いていながら、シュミットは勝ち気に笑う。
エーリッヒは溜め息を吐いた。
「…文句を言うくらいなら自分で淹れればいいのに、僕に淹れさせるんですから。
自分好みの紅茶を、一番上手に淹れられるのは自分だったくせに」
「淹れるのが面倒くさい。だから、お前がちゃんと私好みの紅茶を
淹れられるように教育してやったんだ」
「殴りますよ」
自信満々で胸を張るシュミットの頬を、エーリッヒはゆるくつねった。
なにをするんだ、と言いながら、シュミットもエーリッヒに手を伸ばす。
「…僕さ、あんまり紅茶って飲んだことないんだよね」
「ふぇ? ほうなんれふか?」
見物に徹しているミハエルとアドルフに変わって、
ヘスラーがムキになりかけているシュミットとエーリッヒを引き離した。
ミハエルはうん、と頷いた。
「紅茶より、コーヒーの方がよく飲んでたよ。あまーいの、だけどね」
紅茶は、南よりも北の方がよく飲まれる。紅茶ブームで良い紅茶が入ってくるように
なったとはいえ、まだコーヒーの方がこの国ではメジャーだ。
「エーリッヒ。ダージリンの新葉があっただろう、あれを淹れてくれないか?」
少し赤くなった頬をさすりながら、シュミットはエーリッヒに言う。
この間の週末、練習が終わった後の自由時間に二人で買い物に行ったとき、
紅茶の専門店で購入したものだ。わざわざ遠い専門店まで出向いたのは、
そうでなければ上質の茶葉が手に入らないからだった。
Darjeeling OP−1と記されたその缶を、迷わず手に取った親友に呆れたことを、
エーリッヒは思いだした。
この7月に収穫されたばかりのセカンドフラッシュ。しかも最上級品。
値段はとても安いとは言えないそれを平気で買える、
その財力には毎度の事ながら驚かされる。
そうして彼は、エーリッヒにその缶を渡して当然のように「淹れろ」と言うのだ。
いつもいつも──。
エーリッヒは、口元に笑みを浮かべた。
「…僕の紅茶が美味しいのは、茶葉と水が良いからですよ」
最上級の紅茶葉と上質の軟水。
これでどうやって不味い紅茶を淹れるのだといわんばかりのエーリッヒに、
シュミットは顔をしかめた。
「なら、今度アドルフの淹れたのと飲み比べてみるか?」
「おいおいどういう意味だよ!」
アドルフの憤慨の声に、シュミットは聞いたとおりの意味だ、とさらりと答えた。
「お前じゃ、何をやってもエーリッヒとは勝負にならない。決まっているだろう?」
何を当然のことを、と言わんばかりのシュミットに、アドルフはプチショックを受けた。
確かに、ミニ四駆の腕でも学校の成績でも、アドルフはエーリッヒには敵わなかったが。
今現在、アドルフがエーリッヒに勝っているとはっきり言えるのは、
楽器を使った音楽のテストと、身長、体重くらいだった。
「何をやっても、ということはないでしょう?
僕は、アドルフに負けることがいっぱいありますよ」
苦笑しながら、エーリッヒが言った。
シュミットが眉を寄せる。
「どこに?」
「アドルフはピアノが凄く上手ですし、人を思いやるのも上手いですし、
…それに、彼の方が僕よりずっと格好良いですよ」
そんなわけがあるか、と呟いたシュミットを後目に、
アドルフが感涙に潤んだ瞳でエーリッヒの方を見ている。
ヘスラーは、取り敢えず様子を見ることにしていた。寡黙な性格と、
その年の割には異常な落ち着き(プラス老けヅラ)が、
裏で「アイゼンヴォルフのお父さん」と呼ばれていることには気付いていなかった。
ミハエルは、ただそんなみんなを眺めていた。
「では、お茶を淹れてきますので」
部屋を出ていくエーリッヒを見送って、ミハエルはまだ納得がいかないという風に
顔をしかめているシュミットに視線を戻した。
…彼が、一体誰を信じて自分と戦ったか、判った。
アイゼンヴォルフの一軍メンバーは仲が良かった。
それ故に、…ミハエルがその空間の中にいて、疎外感を感じるのもまた、事実だった。
「14:32」
湯をカップにそそぎ入れると、白い湯気が辺りに漂った。
ポットにも同じように熱湯を入れて、容器を暖める。
木製の棚からシュミットに指定された通りの、ダージリンの瓶を取る。
コルクの蓋を外していると、ひょこりと一人の少年が給湯室に姿を現した。
「あ、エーリッヒさん!」
「オットー?」
覚えていて貰えたことに感激しているような、その顔には見覚えがあった。
選抜レースで二軍に入ってきた子だ。
エーリッヒより一年ほど後にアイゼンヴォルフに入ってきていたので、
今年で三年目になるだろうか。
「お茶ですか?」
「え、あ、は、ハイ!」
二軍と一軍の間には、大きな実力の差がある。
オットーが緊張するのも無理からぬ事だろう。
だが、実力主義のアイゼンヴォルフの中では、下位の者が上位の者に
勝負を挑むのはさして珍しくない。
いや──なかった、と言った方が正しいのか。
シュミットがエーリッヒと共に先代のリーダー達…マックス達をうち負かしてから、
下克上は起こっていない。
…あの頃。シュミットと共にアイゼンヴォルフの一軍に上がった頃は、
二人の実力は間違いなく同じだった。その中で、自分がbQに引き下がったのは。
あの時の自分は。
「──淹れましょうか?」
「え?」
オットーは一瞬、何を言われたか判らないような表情を浮かべた。
だが、それが何を意味しているか理解した瞬間、慌てて大きく両手と首を振った。
「けっ、結構です!! エーリッヒさんに、そんな…!」
「別に構いませんよ、どうせついでですから。
二軍の、皆さんのぶんで良いんですよね」
そう言って、エーリッヒは戸棚の中からもう一つのポットと
5つのカップを取り出した。そうして、カップとポットの中に、お湯をそそぐ。
「でっ、でも! そのお茶葉、高価いんでしょう?!」
びっ、と指されたエーリッヒの手の中には、シュミットが買ったダージリンがあった。
エーリッヒは、悪戯っぽく笑った。
「ああ、良いんですよ。ちょっとくらい多めに減ってたってバレやしませんから」
それでも、と後込みするオットーに、エーリッヒは今度は苦笑した。
「どうせ、僕以外は淹れませんしね」
大きめの皿を取り出して、白いクッキングペーパーを敷いてから、
その上に買い置きのクッキーを盛る。
…そういえば、オットーは。
「貴方は、2軍の中ではbRでしたよね」
「は、ハイ」
だから、アイゼンヴォルフの中では実質bWになるの、だが。
その彼も、お茶を。
淹れに。
「上手いんですか?」
「え、」
「お茶です。淹れるの、上手いんですか?」
「あ、はぁ。…まぁ二軍の中では一番上手だって言われて…。
でも、多分押しつけられてるだけですよ」
照れ笑いをするオットーに、エーリッヒは静かに笑った。
穏やかで、何もかもを包み込むような笑顔だった。
「今度、飲ませて下さいね」
「そ、そんな! エーリッヒさんに飲ませられるようなものじゃありません!!」
オットーの、一々の大袈裟な反応に、
エーリッヒは悪いと思いつつもくすくす笑ってしまった。
「本当は誰が一番上手なのか、やはり今度確かめてみる必要がありそうですね」
カップの湯を捨てて、二つのポットにぱっぱと茶葉を入れる。
一軍用のそれは、フィッツェンロイター製の、
揃いのポットとカップは、水色のよく映える、品の良い一品だった。
沸かしたての湯を入れたガラス製のポットを両手で持ち、
なるべく高いところから器用にそのポットに湯を注ぐ。
蓋をしてティーコジィをかぶせてから、エーリッヒは5分用の砂時計をひっくり返した。
さらさらと、黒い砂が過去へと蓄積していく。
「──…、オットーなら」
「はい、?」
エーリッヒは目を細めた。
視線の先では、静かに、確かに、時間が流れていた。
「勝てない相手に、勝負を挑んだりしますか?」
相手との力量の差も認められないような、下らないレーサーだと思われるだろうか?
それなら、それでもいい。
オットーは少し、考えるように沈黙した。
「……、僕は、恐らくしないと思います。でも、マックスなら…、やるかもしれません」
「マックス…?」
「はい。今年の入団レースで入ってきたヤツです。
今の二軍のbQで、あいつ、あれで結構無茶なヤツなんです。
実力は、僕から見てもイマイチなのに、やらなきゃ気が済まない面があるみたいで。
詰めが甘くていつもコースアウトとかしてるんですけどね」
でも、だからbQなんですよ、と言って、オットーは笑った。
マックス。名前も顔も覚えている。無茶をする彼の走りは、最近このチームを去った
黒髪の少年に似ていた。そう言えば、名前も似ている。
彼は。
諦めなかった。
シュミットだって、そうやってミハエルと戦った。
だれも。
誰も、負ける恐怖など省みなかった。
オットーが、真面目な顔をしてエーリッヒの方を見た。
「エーリッヒさん。…ミハエルさんに、…勝負を挑むおつもりですか?」
──ああ、この人も、僕と彼との実力は同等だと思っている。
「違いますよ」
エーリッヒは、あと1分弱になっている砂時計を見て、
お茶のセットが一式載ったトレイを持ち上げた。
僕が勝負を挑むのは。
「14:49」
「あ、おいしー」
エーリッヒの淹れた温かい紅茶を飲んで、ミハエルは柔らかい笑顔を浮かべた。
「でしょう」
シュミットも一口口を付け、満足そうに言う。
「だから、何でお前が自慢げなんだよシュミット」
呆れるように言ったアドルフの横で、ヘスラーが笑っている。
シュミットは当然のように自分のとなりに座ったエーリッヒに視線を巡らせ、
それからアドルフに向き直った。
「エーリッヒの誇りは私の誇りだからな」
何でもないことのように、シュミットは言う。
それは、シュミットにとっては本当に何でもないことだった。
誰だって、親友が褒められるのは嬉しい。
しかし、シュミットの言い方は。
「ふぅーん。…それって、何か、夫婦みたいだよね」
市松模様のクッキーを頬張りながら、ミハエルは緑の瞳をくりくりと動かす。
「何を言ってるんですか」
顔をしかめたシュミットを、あながち間違いじゃないだろ、とアドルフが茶化した。
「エーリッヒはいっつもシュミットの面倒見てるし、
シュミットはエーリッヒには我が儘ばっか言ってるし」
「…それは、夫婦と言うより親子だと思うんだが」
ぼそりとヘスラーが突っ込む。
それを聞いて、アドルフが大笑いしだした。
「あははははははっ、言えてるなっ! エーリッヒって母親タイプだしっ!」
「何ですか、それぇ…」
莫迦にされたような表情を浮かべたエーリッヒの頭を、
ヘスラーは腕を伸ばしてぽんぽん、と叩いた。彼なりの慰め方だろうと思った。
アドルフは、未だ笑い続けている。
腹を抱えて、クルシィ〜とのたうち回っているところから見て、
どうやらツボにハマッたらしい。
「僕のどこが母親なんですか…」
呟いたエーリッヒに、ヘスラーは自覚がないのか、とちょっと引いた。
「自分の行動を思い起こしてみろ」
早朝の自己練習は無視したとして。
部屋に戻ってから、ローデルンとマッセのメンテをした。
いつもの時間になったので、シュミットを起こしに行って。
シュミットが早起きしたのはミハエルが来た日だけだったから、
今日もシュミットはエーリッヒに起こされた。
寝惚け眼のシュミットの身仕度を整える手伝いをしてから、
ミハエルを起こしてきたアドルフ、ヘスラーと合流して5人で一緒に食事を採った。
ニンジンを残そうとするミハエルに注意をしたり、グリンピースを残そうとする
シュミットの口に無理矢理それを放り込んだりして。
9時からの練習のあと、ゆっくり昼食を採り。
13時からの会議に二人を送り出した。
そして14時頃に二人を迎えて、現在に至る。
どこかおかしい点があったろうかと首を傾げると、
アドルフは目尻に溜まった涙を拭いながら、
「起こしに行くところからまず親子なんだよ」
と、腹を押さえたまま言った。
「そうですか…?」
「基本的に、お前は他人の世話を焼きすぎるんだ」
「それは、貴方がちゃんと起きないことに原因があるんでしょう!?」
シュミットの言葉に、エーリッヒが憤慨の相を呈す。
シュミットはムッと眉間に皺を寄せて、ソファに身を深く沈めた。
「お前が起こしに来るからだ。…誰も起こしてくれなければ、自分で起きるさ」
「本当ですね? じゃあ、もう起こしに行きませんよ!?」
「まァ無理だろうな」
頭の後ろで両手を組み、アドルフは言った。
「何がだ、アドルフ」
「聞いたままの意味じゃないか?」
じろりと紫の瞳がアドルフを睨み付ける。
慣れたもので、アドルフはぴくりとも動じない。
「シュミットがエーリッヒなしで起きるのも無理だし、
エーリッヒがシュミットを起こしに行かないこともないって言ってるんだよ」
なぁ? とアドルフが同意を求めたヘスラーは、穏やかに笑いながら頷いた。
長く二人を見てきたチームメイトの言うことには、信憑性がある。
「…やっぱり夫婦じゃない」
今まで黙って皆のやり取りを聴いていたミハエルが、
面白い玩具を見つけたような顔で言った。
「夫婦だとしたら、熟年だよな」
絶対、と言いきられて、エーリッヒもシュミットも表情を歪ませた。
ミハエルやアドルフ、ヘスラーまでがおかしそうにしているのが悔しい。
ふぅ、とエーリッヒが一息ついた。
「…まぁ、人生の半分近くを共有してきましたから、
そう言えなくもないかもしれませんけど」
「エーリッヒ」
横目で睨んでくる親友に、エーリッヒは肩を竦めた。
「冗談ですよ」
「…だろうな」
言われた言葉に、胸のどこかがチクリと痛んだ。
気が、した。
「18:27」
エーリッヒは、エレベーターの中にいた。
密閉感のある四角い小さな部屋は、
不自然な圧力によって歪んでいるように見えた。
重い溜め息が、知らずエーリッヒの口から零れる。
アイゼンヴォルフの宿舎は、2〜4階までをレーサーが、5〜7階までを
スポンサーや監督、コーチなどの大人が使うことになっていた。
1階は事務室や練習場と言った公共の施設が整っている。
突然、一人だけ呼び出されたときは何事かと思ったが、
良い予感など一欠片もしなかった。
蛍光灯の灯った明るい廊下を踏みしめて、会議室のドアをノックする。
最上階にあるその部屋の中には、アイゼンヴォルフが出るレースやを決める、
上層の連中が揃い踏みしていた。
失礼します、と言ってドアをくぐった瞬間に感じた、息苦しいほどのプレッシャー。
ミハエルが嫌がるのも無理はない。それは、小鳥の羽根を束縛する。
彼らの前に立ったエーリッヒに、言葉は厳かに告げられた。
「WGPの前半戦、二軍の4人を連れて、アメリカへ行け」
それは、反抗を許さない命令だった。
「待って下さい! 僕では、僕などでは役不足です!
二軍のメンバーと僕では、とても…!」
「前半のみを持ちこたえてもらえばいいのだ。
多少の遅れは一軍によって取り戻せる」
甘い。エーリッヒは心中で一人ごちた。世界はそんなに甘くない。
WGPに出場してくる選手が、そんなに簡単な連中なわけない。
目の前にいる、オーナー…最高責任者は嗤った。
「君には、無理かね? 君は、このチームに在籍しながら、
戦わずして他のチームに負けを認めるというのかね」
エーリッヒは下唇を噛み締めた。
「…そんなことは、けして…」
「けしてない。そうだろうね、アイゼンヴォルフは最強最速だ」
エーリッヒは俯いた。
勿論、どのチームに負けるつもりもない。
だが、エーリッヒは自分の実力ではアメリカチームには敵わないことをわきまえていた。
「…どうして僕なんです。僕よりも、ミハエルやシュミットの方が速いのに…」
「あの二人が、二軍を率いて走ると思うかね?」
ミハエルもシュミットも、二軍を統率するには不向きだ。
一軍に比べて格段にスピードの劣る彼らを、
ミハエルやシュミットは“仲間”に見ないだろう。
かといってアドルフやヘスラーでは、力量的に不安が残る。
それに、彼らはリーダー職には慣れていない。
結果、エーリッヒしかいないのだ。
リーダーをずっと支えながら、二軍とも綺麗に付き合ってきたエーリッヒしか。
「…………」
「君達先行組の監督は彼だ」
そう言ってオーナーが紹介したのは、どこか狡猾な印象を受ける、細身の男だった。
「クラウスだ、宜しく」
クラウスと名乗った彼の手を、エーリッヒは取った。
「練習は明日から別メニューになる」
「待って下さい」
エーリッヒは言った。
「少し、時間を下さい。本当にあなた達のオーダーが正しかったかどうか、
…あなた達の目で、確かめて下さい」
「どういうことだ?」
オーナーはエーリッヒの目を見た。
熱く、青い炎が燃えていた。
ああああ…おかしなところを2箇所くらい発見。
でももうどうせなのでそのまま載せる(ヲイ)。
モドル