14 「1996年9月10日(火) ドイツ・ベルリン(晴) 17:08」
マシン開発部の手を通り、シュミットとエーリッヒの設計したマシンが出来上がってきた。
そのマシンのテスト走行をするということで、一軍の五人は練習走行用のコースの前に揃った。
エーリッヒは計測用のパソコンの前に座っていて、マシンを持っているのはシュミットだ。
マシンは快調なモーター音を響かせながら、スタートの合図が下されるのを待っていた。
黒光りする車体にはカラーリングこそ施されていなかったが、
角張った頑丈そうなデザインにはこの国の人間としての美が垣間見える。
「格好いいじゃない」
ミハエルは興味津々といった様子でマシンを見つめていた。
早く、走る姿が見たくてたまらない、そんな瞳をして。
「レッドシグナル、点灯します」
エーリッヒの声にシュミットが頷く。
スターティンググリッドについたシュミットは、シグナルが青くなると同時に手を離した。
「うおっ速…!」
アドルフが思わず感嘆の声を洩らした。
コーナリング、立ち上がり加速、わけても直線でのスピードは驚異的だ。
コースの各所に設置されたタイマーでスピードの計測を行なっていたエーリッヒも、
コース上を走る新マシンに視線を走らせた。
約250mのコースを3周して、マシンは再びシュミットの手の中に納まった。
「凄いじゃないか!」
率直な感想を述べたのはアドルフだ。
「ノーマルセッティングでこれだけのスピードなら、ちゃんと調整したら最速じゃないか!」
「…エーリッヒ。スタート直後のもたつき、なんとかならない?」
興奮した調子でまくしたてるアドルフの言葉を遮るように、ミハエルがコースを見つめたまま言った。
シュミットとエーリッヒが、同時にぴくりと反応する。
真剣な緑の瞳に、エーリッヒはさすがだと言う風に唇を歪めた。
怪訝な顔をしているアドルフとヘスラーに、エーリッヒは素早くプリントアウトした計測結果を示した。
「…0.5秒ほどのことなのですが、スタート直後にロスタイムがあるんです」
「車体が安定するのに、僅かだが時間がかかるということだ」
シュミットが悔しそうに補足する。
設計とコンピュータでのシミュレート上は何の問題も無かったが、やはり実物として現実に走るのとは違う。
「それに、何か物足りないんだけど」
今度はシュミットが、冷汗と共に笑う番だった。
エーリッヒとの設計中、喧嘩にまで発展した一点。
それは、マシン強度やタイヤの磨耗から、極端なスピード設計を抑えざるを得なかったことだ。
このスピードに不満足なのは、どうやらシュミットだけではなかったらしい。
「…問題は山積みだな、エーリッヒ」
「…ええ」
すでにEGPへの出場権を獲得しているチームは、マシンの最終調整に入っていても
おかしくない時期だ。だが、アイゼンヴォルフはマシンが完成してもいない。
エーリッヒはパソコン画面を睨み付けた。開発当初から覚悟はしていた事だが、
WGPの前半戦はどうやらベルクマッセで乗り切らねばならないらしい。
アメリカやイタリアと渡り合う為には明らかに実力不足の二軍と、旧マシン。
果たして自分は、上位チームに食い込んだままでミハエルたちを迎えることができるだろうか?
…否、迎えねばならない。誇り高きアイゼンヴォルフの名に掛けて。
EGPも半分はベルクマッセでの出場になるが、
ミハエルを加えたこのメンバーが負けることなどありえない。
WGPに出場しているエーリッヒたちには、2月の中盤には新マシンを送れるだろう。
だが、それまでの間。
シュミットは首を左右に振った。
どう考えても、エーリッヒを加えたところで二軍と世界のトップたちの間には溝がある。
だが、だからこそ、日本に着いたときに遅れを取り戻せるだけのマシンが必要なのだ。
一刻も、無駄にする訳にはいかない。
「設計を煮詰め直します」
シュミットは試作品を持ったまま、練習場に背を向けた。
「僕も行きます」
シュミットを追いかけて立ち去ろうとしたエーリッヒは、ふと振り向いてミハエルに笑顔を向けた。
「貴方が納得してくださるようなマシンを、絶対に作り上げて見せます」
「…ふぅん?」
自信満々だね。…期待してもいいってことかな。
エーリッヒの背中を見送りながら、ミハエルは上機嫌の笑顔を浮かべた。
15「1996年9月20日 ドイツ・ベルリン(晴) 21:58」
形になった新型マシンを、ミハエル達に見せてさらに改良を加え、設計は最終段階に入っていた。
この調子で調整などを行っていけば、ヨーロッパGPには間に合わないが、WGP後半には十分間に合う。
その間は、GPチップを搭載できるようにしたベルクマッセで頑張ればいい。
そのための練習はちゃんと積んできた。
いい感じかな、とエーリッヒはひとりごちた。
大人の手を借りずに作り上げてきたマシンが完成に近づくのは、とても嬉しい。
…しかし。
そう、しかしだった。
あれ以上スピードを追求した形にするとカウルが持たないと、シュミットに言ったのは自分だったが、
やはりエーリッヒもスピードに物足りなさを感じていた。
アメリカも速くなっているだろう。風の噂で、アストロレンジャーズは新しい必殺技を開発したと聞いた。
ミハエルを加え、こっちもスピードアップしたとはいえ、本当に勝てるだろうか?
そこまで考えて、エーリッヒは、ふ、と笑みを浮かべた。
…もう、関係ないのに。
新しいアイゼンヴォルフのマシンを、エーリッヒが手にすることはない。
あれは、ミハエルたちのものだ。
──私はお前を手放す気などないからな。
シュミットの声が、頭の中で響いた。
何を、とエーリッヒは呟いた。
──私はお前をどこにも行かせる気はない。
莫迦なことを。僕の人生は僕のものでしょう?
──黙れ。お前は私のものだ。私だけのものだ。
はっ、とエーリッヒは笑った。
どうして? 恋人でもあるまいし。
夫婦だと、そういえばミハエルに言われたことがあったとエーリッヒは思いだした。
あながち間違いじゃないと、言ったのは自分だった。
冗談にしたのも自分だった。
シュミットに「だろうな」と言われたとき、それでは胸のどこかが痛んだ気がしたのは何故だ?
エーリッヒは、机の上の写真立てに目をやった。
今年のアイゼンヴォルフ入団テストが終わったとき、全員で撮ったものだった。
自信たっぷりに笑っているシュミット。
それでも、どこか無理をしているように見えるのは。
どこか苦々しげに見えるのは。
自分だけだろうか。
彼をよく知る自分だけだろうか?
そうであればいいと、願う自分にエーリッヒは気付いた。
…何故?
それは、彼を知るのは自分だけでいいという──独占欲。
ゾクリと背筋に何かが走った。
莫迦な。そんなはずはない。
エーリッヒは自分の気持ちを否定した。
中空で、十字を切る。その場に跪いて、エーリッヒは祈った。
違う。
僕がシュミットを、愛しているはずがない。
恋愛対象として、愛しているはずがない。
「21:58」
ふ、とシュミットは目を覚ました。
普段は、一度寝たらエーリッヒが起こしに来るまで絶対に起きないのに。
何故だろうと思う以前に、理由は思い浮かんだ。
マシンが完成に近づいているからだ。
それはつまり、エーリッヒが脱退する日が近づいていることを示していた。
行くなと言った事はあったが、あの喧嘩以来、シュミットはそれを持ち出さなかった。
エーリッヒもまた、移籍への気持ちが揺らいだようには見えなかった。
「エーリッヒ…」
寝惚けた、掠れた声が暗い部屋に響いた。
傍にいては、くれないのか?
『神』を信じるエーリッヒに、それ以上を望もうなどとは思わないから。
だけどせめて、傍にいてほしいのに。
「アイゼンヴォルフに、居てくれエーリッヒ…」
闇の中で真っ直ぐ天井に伸ばした手が、何を掴むこともないのは知っていたけれど。
16 「1996年9月23日(月) ドイツ・ベルリン(曇) 6:03」
思い切り腕を伸ばして、エーリッヒは体を起こそうと勤めた。
ふぁ、と大きな欠伸をする。
昨日、新マシンの新しい設計図をマシン開発部に提出した。
形だけなら、ヨーロッパグランプリまでには出来上がるだろう。
…結局、スピードの面に不満を残したままだ。
しかし、それはレーサーの腕でカバーしていくしかないだろう。
自分たちの設計したマシンは最高だ。それだけは、胸を張って言えるのだから。
クローゼットから服を取り出して着替え、鏡に向かう。
髪を撫で付けながら、エーリッヒはふと、自分の容姿が気になった。
ドイツでは未だ珍しい、浅黒い肌と銀の髪。色素の薄い青い目。
…シュミットとは、まるで正反対だな。
失笑してから、エーリッヒははっと鏡の中を凝視した。
まるで正反対?
「…ッこれだ!!」
叫んで、エーリッヒは引き出しから親友の部屋の鍵をつかみ出し、部屋を飛び出した。
鍵を開けるのももどかしく、エーリッヒはシュミットの部屋に入った。
「シュミット! 思いついたんです、聞いてください!」
もぞもぞと、シーツの中の塊が動いた。
それがまた動かなくなるのを知っていたので、エーリッヒは多少乱暴にシーツを引っぺがした。
「起きてください、シュミット! すごくいい案なんです!」
興奮気味のエーリッヒの声に、やっとシュミットは薄く目を開けた。
「…なんだエーリッヒ…、朝から煩い…」
のろのろと伸びた腕は、窓枠においてある目覚まし時計を掴んだ。
「…まだ15分じゃないか…許してくれよ」
「シュミット、マシンを左右非対称にしましょう!」
シュミットの覚醒を待ちきれなくなって、エーリッヒは叫んだ。
「…ひたいしょう…??」
「マシンの形イコール対称という、常識に縛られていたから思いつかなかったんです」
興奮できらきら輝いている青い目が、綺麗だとシュミットは思った。
「二つでひとつのカウルになるようにするんです。そうすれば、空力の問題も解決します!」
ぼんやりしていたシュミットの頭が、急激に覚醒に向かう。
「二つでひとつの…?」
ぱち、とシュミットの目がはっきり開いた。
「…エーリッヒ、まさか、マシンのフォルムを…?」
まだ髪を整えきっていない、エーリッヒを驚いたように見つめる。
エーリッヒはこくん、と頷いた。
しかし、と考え込むように黙ったシュミットに、エーリッヒは明るい声を出してみせた。
「ルールや常識しか見ていないと、新しい流れを見失うぞ!」
吃驚して顔を上げたシュミットに、エーリッヒは微笑んだ。
「昔、貴方が僕に言った言葉ですよ」
「よく覚えているな…」
半分感心、半分呆れでシュミットは苦笑した。
…それは、私が言ったからか?
もしかしたら、そうなのかもしれません。
「それだけ、衝撃的だったんですよ」
ふ、とシュミットは柔らかく笑った。
それから、急に真面目な顔を作る。
「笑っている場合ではないな。…しかしエーリッヒ、非対称のカウルでは、一台ずつの走行はどうなる?
チームは5人だ、一台一台のバランスが崩れるとチーム走行すら危うい」
「そのあたりは、また考え直さなければいけません。
そう簡単なことじゃないことも、承知してますよ。でも、…僕らなら、大丈夫でしょう?」
いつか見たような、自信たっぷりな笑みを見せるエーリッヒに、シュミットはそうだな、と言った。
二人なら、大丈夫だ。
…二人なら。
「ああ、そういえば、僕はまだ朝の支度の途中でした。
部屋に戻りますけれど、…貴方も身支度を整えておいてください」
二度寝はするな、と暗に忠告して、エーリッヒは背を向けた。
「…エーリッヒ」
引き止めたのは、縋るような思いから。
エーリッヒは振り返った。
「なんですか?」
「…行くな」
言われた言葉に、エーリッヒはピクリと反応した。
眉間に寄った皺が、その不機嫌さを現していた。
「…シュミット。今日も学校があるんですよ。準備をしなければいけないでしょう」
「違う。エーリッヒ」
伸ばされた手に請われるままに、エーリッヒはシュミットに再び近づいた。
シュミットは、確かにエーリッヒの腕を掴んだ。
「アイゼンヴォルフに。いてくれ、エーリッヒ…!」
身を引こうとしたエーリッヒは、強い力でシュミットに引き止められた。
エーリッヒは、首を左右に振った。
「…決めたことです」
それでも、シュミットはエーリッヒを手放さなかった。
エーリッヒは、腕を引いた。取り戻すことができなかった。
「どうしたんですか、シュミット。…貴方らしくないですよ。
貴方は、…こんなに他人の決定に口出しする人じゃないはずです」
そうだったかもしれない。
シュミットは自嘲した。
「…相手が、お前だからな」
どきりとして、エーリッヒは目を見開いた。
シュミットは俯いて、笑っていた。
時計の針は、静かだが確実に、進んでいた。
「シュミット。離してください、朝食に遅れてしまいます」
「嫌だ。だって、…離したらお前はいなくなってしまうだろう?」
エーリッヒは眉間の皺を深くした。
シュミットは、夢を見ているのだろうか?
「手を離しても離さずとも、…僕はそんなにすぐにいなくなったりしませんよ?
マシンを形にするまでは、ここにいます」
なら、マシンなど完成しなくてもいい。
言おうとして、シュミットは顔を上げた。
そうして、…エーリッヒから手を離した。
自分の中の優先順位は?
「済まない。すぐに着替える、朝食に行こう、エーリッヒ」
「え、あ…、はい」
ほっとして、エーリッヒは笑った。
神様、ほかには何も望まないから。
お願いだから、この関係を壊さないで。
「7:16」
「面白いね!」
一軍のメンバーで固まっての朝食は、このところの習慣だった。
その場で、エーリッヒは自分の思いついた案を皆に話した。
すぐに提案に乗ったのは、翡翠の目の王子だった。
アドルフとへスラーは、難しい顔をしている。
「GPチップの投入によって、マシンは自己判断能力を持ちますから、
フォーメーション走行として覚えこませることは可能です」
「…簡単に言うけどな、エーリッヒ」
アドルフが、ため息とともに言った
「知ってますよ、難しいことだとは。非対称のカウルで走行時のバランスを取るには
緻密な計算の元に作らなければなりませんし、シュミットにも言われましたが
チーム走行ができるかどうかもわからない。
それに、学習させるのにかかる時間だって不明です。でも、」
「チャレンジする価値はありそうじゃない」
ミハエルは、目をきらきらさせていた。
へスラーは肩を竦めた。
「…WGPに間に合うのか?」
「前半に間に合わなくても、後半戦には間に合わせますよ」
エーリッヒは言った。
このマシンは、あくまで、自分たちの力で完成させるつもりだった。
ここまでやったのだ、最後まで大人の手を借りるのだけはごめんだ。
「できるのかよ…」
確かに、難しいだろう。
でも。
「僕とシュミットがいます。大丈夫ですよ」
シュミットと自分がいて、不可能な気など微塵もしなかった。
にこりと笑うと、シュミットもまた、不遜で自信満々の笑顔を。
彼らしい笑顔に、…どうしてこんなに泣きそうになるのだろう。
17「1996年10月3日(木・ドイツ統一記念日) ドイツ・ベルリン 1:35」
あと3日で、ヨーロッパグランプリの予選が始まる。
カウルの設計は、まだ完成していなかった。
ふ、と息を吐いて、シュミットはパソコンの画面から目を離した。
「お疲れ様です、シュミット」
すっとコーヒーを差し出し、エーリッヒはシュミットを労わった。
ここしばらく、シュミットはあまり眠っていない。
新型マシンをWGP後半戦に間に合わせるためには、多少の無理は仕方がなかった。
エーリッヒは、それを知っていた。
「ああ。だが、…お前も、似たようなものだろう?」
コーヒーを受け取って、シュミットは眉を寄せた。寝不足なのは、エーリッヒも同じだ。
アイゼンヴォルフ宿舎内の、共同スペースにあるパソコンは午後9時までしか使えない。
それ以上の作業が主になるだろうと、二人はあえてシュミットの部屋のものを使っていた。
だが、時間制限がないというのは、つまり無理をしてしまう可能性が高いということだった。
「ちゃんと寝てますし、大丈夫ですよ」
「…私のベッドでの仮眠を十分な睡眠というつもりなら、殴るぞ」
言うと、エーリッヒはさっと自分の頭を庇った。
「自覚あるんじゃないか」
笑いながら、シュミットはエーリッヒのおでこを指ではじいた。
「痛ッ…!」
ははは、とシュミットは笑った。
そうして、コーヒーを一口啜る。
「…コーヒーか?」
「判ってなかったんですか」
よほど疲れているのかと、エーリッヒは心配に顔を曇らせた。
「いや…、最近、ずっと紅茶だったから。今日もそうかと思ったんだが」
「…それは、紅茶が好きな人のほうが多いからです。多数決制ですよ」
でも、とエーリッヒは続けた。
「貴方は紅茶より、コーヒーのほうが好きでしょう?」
どきんと、心臓が跳ねる。
エーリッヒが自分のことを、判ってくれているのは知っているはずなのに。
そうしてこうやって、小さなことで自分を喜ばせてくれるのもいつものことなのに。
「僕も、嫌いじゃないですしね。あ、少しください」
大き目のマグカップにたっぷりと入れられたコーヒーは、確かに一人分としては多かった。
エーリッヒにマグカップを返すと、シュミットはパソコンに向き直った。
暖かいコーヒーを飲みながら、エーリッヒは溜め息を吐いた。
「…シュミット、」
「なんだ?」
「すこし、寝ませんか? 明日は休みですし、…このまま頑張っても、作業効率が上がるとは思えません」
紫の瞳が、エーリッヒを睨みつけた。
弱音を吐くなと、その瞳は言っていた。
「でも、…体を壊してはどうしようもありませんし、貴方にはヨーロッパGPがあるんですよ?」
真っ直ぐにシュミットの目を見て、エーリッヒは言った。
シュミットは、長い溜め息をひとつ、吐いた。
「……判ったよ」
シュミットは、内容を保存してから、パソコンを終了させた。
ほっとした顔をした、エーリッヒをシュミットはぐいっとベッドに押し倒した。
「え…?! 何するんですか?!」
驚いてじたばたするエーリッヒを、シュミットは煩そうにベッドに押し込んだ。
「寝るんだろうが」
「ちょっと待ってくださいよ、僕、自分の部屋に戻りますよ!」
「起きたらすぐに作業だろう…? 非経済的なことをするな」
非経済って、とエーリッヒは呟いたが、ベッドに入ってすぐに目を閉じたシュミットに、口を噤む。
…これじゃ狭いし、…ゆっくり寝られないんじゃ。
しかし、それはエーリッヒの杞憂だった。
隣のシュミットからは、すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。
…お坊ちゃん育ちの癖に、意外と逞しいんだよなぁ…。
壁際に寝かされたエーリッヒは、シュミットの寝顔を見ていた。
通った鼻梁や綺麗な弧を描く柳眉。さらさらの栗毛に縁取られた白い肌。
意識するつもりなどないが、…心臓は意思とは関係なくいつもの倍の血量を送り出しているようだった。
こんなので、…眠れるわけがない!
泣きそうになったが、それでも疲れは溜まっていて、
15分後には、エーリッヒもぐっすりと寝込んでいた。
「4:22」
誰かが何かを呟く声で、エーリッヒの意識は覚醒に向かった。
薄く目を開けて、真隣の親友の寝顔に叫びそうになった。
慌てて自分の口を手で塞ぎ、疲れているはずのシュミットまで起こすことを避ける。
自分が何故シュミットの隣で寝ていたか、理解して一人で頷いた。
眠れないと思っていたけど、…眠れたな。
改めて、親友の寝顔を瞳に映す。
そうして、薄く開いた唇に…触れたいと、思った。
そうしてそう思ったという事実に、エーリッヒは驚き、また焦った。
僕は、…シュミットが、欲しいのだろうか?
莫迦な。
それでも、エーリッヒには、シュミットに触れたいと思った気持ちを否定することができなかった。
「………な、」
「え?」
シュミットの口が微かに動いた。
エーリッヒはその言葉を聞き取ろうと、耳を近づける。
眉を寄せてうなされているようなシュミットは、呟き続けていた。
「…どこにも、行くな…」
固有名詞が出てこずとも、それがいったい誰を呼んでいるのか、エーリッヒには判った。
どうしてそんなに、…僕に執着するんですか、シュミット。
溜め息を吐いた。
「…判りましたよ」
シュミットの手を握った。
暖かかった。
二人の体温の混在するベッドは、心地よくて、出て行きたくなくなる。
「僕はどこにも行きませんよ、シュミット」
貴方の傍に、いさせてもらいますから。
やさしく微笑んで、エーリッヒはもう一度、目を閉じた。
その後シュミットが、寝言を呟くことはなかった。
繋がれた手が、その言葉を無意味なものにしたから。
18「1996年11月2日(土・祝[万霊節]) ドイツ・ベルリン(曇) 15:11」
ヨーロッパグランプリの予選が始まって、1ヶ月ほどが経過した。
エーリッヒをメンバーに入れないままに、アイゼンヴォルフはデンマーク、スイスの2チームを
破って本戦出場をほぼ確実にしている。
エーリッヒは、二軍とのフォーメーション練習に余念がない状態だった。
飛び抜けているエーリッヒのマシンスピードを抑えて、他の4人に合わせることは、
協調性に優れたエーリッヒとそのマシンには難しいことではなかったが、
それよりはチーム全体をスピードアップさせることを考えるべきだ。
二軍のレーサーたちへの特訓と、新マシン開発。ふたつの重大な仕事が、
エーリッヒに多大なストレスを与えているのは確実だった。
そしてそれは、いくら笑っていても、チームメンバーたちには隠しきれるものではなかった。
シュミットもアドルフもヘスラーも、無理はするなとエーリッヒに言っている。
だが、それで無理をしなくなるような人物なら、だれもここまで心配しないのだ。
「ねぇねぇ、ところでさ」
全体的に暗くなりつつあった雰囲気を、明るい声が吹き飛ばした。
紅茶のカップを傾けながら、若葉色の瞳は上目遣いにシュミットの方を見ている。
「新マシンの名前、なんていうの?」
「…は?」
間抜けた声を出したシュミットに、ミハエルはもう一度、名前だよ、と言った。
ソファに隣り合わせて座っていたシュミットとエーリッヒが申し合わせたように
顔を見合わせたことに、ミハエルは呆れた声をかけた。
「もしかして考えてないの?」
「名前の事など、すっかり失念していました」
「マシンが完成してからでも、十分な事ですからね」
エーリッヒの言葉に、シュミットが続ける。そして、思いついたようにミハエルに視線を向けた。
「…ミハエル、貴方が決めてはいかがです」
「駄目だよ、二人で作ったマシンなんだから、二人で名前を決めなくちゃ」
…子供の命名みたいだな。
ヘスラーは密かに思っていたとか。
「しかしこのマシンは貴方と共に走るために作られたんです、
リーダーにも命名する権利はあると思いますが?」
「僕と共に…?」
シュミットの手のなかにあるマシンを見つめて、ミハエルは呟いた。
実際、新マシンの開発には、シュミットやエーリッヒがベルクマッセのスピードに
物足りなくなったという理由の他に、ミハエルというドイツ最速のレーサーに相応しい
マシンが欲しいと思ったことがある。
ベルクマッセも遅いマシンではないが、ポテンシャルの知れたマシンでいつまでも
このリーダーに走らせるなど、侮辱だとシュミットは思っていた。
「そうですね、それがいいかもしれません」
エーリッヒは笑顔で頷いた。
「ミハエル。僕たちの作ったマシンの、名付け親になっていただけませんか?」
エーリッヒにまで言われて、ミハエルは頷いた。
僕らの新型マシン。左右非対称のボディが生む空力とそのスピードが、
今までのミニ四駆を驚愕させ、震撼させるだろう。
目を閉じた。設計段階のものを見せてもらっただけだが、
そこに秘められたパワーを思うとそれだけでぞくぞくした。
きっと、あのマシンは最高のものになる。
ミハエルの瞼の裏で、完成した黒いマシンが、5台揃って走っていく。
世界の、頂点へと。
「…ベルクカイザー。うん、ベルクカイザーがいい」
「…ベルクカイザー?」
「そう。僕らはこのマシンで、オリンポスの山の頂からこの世界を見下ろすんだ」
自信に満ち溢れた瞳。
シュミットは満足そうに笑った。
「そのくらいの名でなければ、我々のマシンには相応しくありませんね」
BERG KAISER。
それは、後にミハエルに走る楽しさを思い出させてくれるマシンの名前。
最高の相棒となる、マシンの名前だった。
19「1996年12月3日(火) ドイツ・ベルリン(雪) 14:10」
「ふざけるなよ」
いきなり口を開いたシュミットに、エーリッヒは苦笑した。
気持ちは分かるけれど。
「まぁまぁ、落ち着いて下さい。仕方ないですよ…」
「落ちつけだと? お前はおかしいぞ、こんな理不尽で憤慨しなくていつ…!」
「はいはい。そうですね、大人は勝手です」
WGP開催まであと一月を切ったところでの、いきなりの開催地の変更。
今日、緊急で呼び出された二人に聞かされたのはそういう内容のことだった。
お座なりにその暴挙を非難するエーリッヒに、シュミットはじろりと鋭い瞳を向けた。
「日本へだと? 向こうの言語も喋れない我々に、無茶を言ってくれる!」
紅茶の葉をポットに入れていたエーリッヒは、シュミットを振り返ってにこりと笑った。
「大丈夫ですよ。僕が先行して、日本へ行きます」
「エーリッヒ!」
その言葉に、シュミットはいち早く反応した。
エーリッヒは砂時計をひっくり返した。
「僕は、すでに一度貴方に運命を変えられています。今度は、文句は言わせませんよ」
ぐっ、と言葉に詰まったシュミットに、エーリッヒは微笑んだ。
「心配しなくても、半年後には会えますから。…チームが変わるわけではないのですから」
まるで駄々っ子を手懐けるように、エーリッヒはシュミットの頭を撫でた。
そうして、少し真面目な顔を作った。
「それに、…いつか、僕は言いましたよね。何が起こっても、大丈夫だと」
上の連中の言葉が聞こえる。
オーナーの、WGPに対する構えは間違っているが、二軍に対する構えは間違ってはいなかった。
「心配しないでください。我がチームに泥を塗るような真似はしませんから」
「しかしエーリッヒ!」
「僕を信用してはくれないんですか?」
たたみかけるように何かを言おうとしたシュミットに、エーリッヒは尋ねた。
そんな訳はないと知りながら、言ったのだ。
これ以上、無駄な問答で時間を浪費したくはない。
貴重な二人の時間を。
すでにシュミットはリーダーではなく、エーリッヒはbQではないのだから。
「貴方は、…完成したベルクカイザーを持ってきてくれないと。それまでは、僕が頑張りますから」
「ああ、…任せておけ」
エーリッヒはトレイを持ち上げた。
二人分のカップの載ったトレイは、リビングではなく、自室へ行くための用意だった。
20 「12月30日(月) ドイツ・ベルリン(曇) 10:24」
ドアを4回ノックして、シュミットはドアを開けた。
親友は、予想通り机の上で参考書を広げている。
シュミットは苦笑した。
「よくやるな」
「僕はあなたやミハエルのように、天才ではないので」
エーリッヒは顔を上げもしなかった。
シュミットは肩を竦める。年明け早々に日本へ飛ばなくてはならないエーリッヒは、
日本語の学習に必死になっていた。
ギムナジウムで学んでいるのは英語とフランス語だ、日本語は一からの修得になる。
流石に今回は罰ゲーム付きの外国語練習は行われなかった。
主催者自体が話せない言語なのではどうしようもない。
「英語なら、だいたいマスターしてたんですけどね…」
独日辞典を開きながら、エーリッヒはぼやいた。
「日本語って、そんなに難しいのか?」
「ええ」
ぱらぱらぱら、と辞書を捲っていく。母国語で「やさしい日本語」と書かれた参考書の見出しは、
どうやら大嘘らしい。
エーリッヒは文系で、しかも言語の学習能力についてはシュミットやミハエルよりも上だ。
そのエーリッヒが苦戦している様を見て、シュミットは眉を寄せた。
半年後までに、自分もアレを修得しなければならない。
エーリッヒは苦笑して、手元のノートに走らせていたペンを再び動かす。
「半年間の猶予って、羨ましいですね」
まるでシュミットの心を読んだように言ったエーリッヒに、シュミットは肩を竦めた。
「そう言うな」
「…あなた方ならマスターするのに半年もかからないんでしょうけど。
僕にはそういう意味においての才能はないですからね。努力するしかないんですよ」
才能のない人間は、努力するしかない。シュミットは、そんな人間を蔑んできた。
ずっと、才能のない人間など歯牙にもかけなかった。
なのに。
「別に…いいじゃないか。お前の努力している姿は、私にはとても輝いて見える」
エーリッヒだけは。
特別なのかもしれない。
エーリッヒは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
「お前は、半年先に日本に発つんだったな?」
多少唐突に、まるで試すように、シュミットは尋ねた。
大西洋を挟んだアメリカと、太平洋を挟んだ日本と。
その差は、シュミットにはあまりに大きかった。
アメリカに行くと、聞いたときでさえ心臓が張り裂けそうだったのに。
「僕以外に適任がいないのなら、行くしかないでしょう。
それに、それだけ期待されているということでしょう? 期待には応えないと」
エーリッヒが志す以前に、オーナー連中のオーダーは変わらなかった。
シュミットとエーリッヒの、あのレースの結果を見ても。
エーリッヒは、どこか楽しそうに言った。
無理してでも笑って、陽気に振る舞わないと、不安や寂しさに心が引き裂かれそうだった。
…決めたはずなのに。
シュミットに追い付こうと。
速くなろうと。
そして、このどうしようもない莫迦な思いも、日本にいる間に消し去ろうと。
なのに、なんだろうこの嫌な感じ。
シュミットは皮肉げに口辺を弛めた。
「…苦労を背負い込むのが好きな奴だな」
「そうですね」
エーリッヒは苦笑した。
おそらく、今の自分ではWGPで上位にくい込むのがやっとだろう。
それでも、アイゼンヴォルフの名で出場するからには、5位以内で踏ん張ってみせる。
少し、間をおいて、また口を開いたのはシュミットだった。
「…日本、か。遠いな」
「異国の文化に触れられるんです。楽しみですよ」
嬉々として言うエーリッヒに、シュミットは苛立ちを感じた。
そっと後ろから近づいて、椅子ごしにエーリッヒの首に腕を回す。
そして優しく抱きしめて、耳元で囁いた。
「それ以上言うと、シメるぞ?」
「……だんだん言葉遣いが庶民化してきていますよ、シュミット」
「五月蠅い」
腕に、少し力を込めた。
エーリッヒはペンを放して、シュミットの腕に触れた。
「安心して下さい、最高の状態であなた達にチームを引き継いでみせますから…」
「日本になど行かせない、と言ったら?」
エーリッヒは、目を見開いた。
シュミットからは、見えない。
エーリッヒは顔を苦しげに歪めながら、それでもくすくすと笑いだした。
泣きそうな表情は、シュミットから解放されて彼に向き合うまでに消した。
その代わりに、優しい微笑みを浮かべた。
「やっぱり言わなければ伝わらないものですね」
そっと手を伸ばし、エーリッヒはシュミットの頬に触れた。
「…本当はね、とても寂しくて、不安なんです。本当は嫌なんですよ?
一人で日本になんて行きたくない。でも、そんな我が儘言えないじゃないですか」
嘘だ。
嘘だ。
エーリッヒは心の中で自嘲した。
日本行きを望んだのは、自分だ。
シュミットと距離を置くために。
再会したとき、また隣を走れるように。
シュミットは、エーリッヒにからかわれていたのだと思って脱力した。
彼は、エーリッヒの発言が、約一ヶ月前のそれと矛盾することに気づかなかった。
倒れ込むように彼のベッドに腰掛けたシュミットに、エーリッヒはまたくすくすと笑った。
「あなたらしくないですよ、シュミット。言葉一つでそんなに表情を変えるなんて」
確かに、シュミットはどちらかというと見て知るタイプであり、
言葉によって動揺させられるケースは珍しい。
だが。
こと、エーリッヒに関してはそんな常識は通用しない。
どころか、思いきり覆されてしまう。
それだけの力を有していることにすら気付かない無邪気な親友に、
シュミットは盛大に溜め息をついてみた。
「私はね、エーリッヒ」
まっすぐにシュミットを見つめるブルーグレイの瞳。とても落ち着いていて、穏やかで。
見ているこっちまで穏やかにしてくれる。
どんな至高の宝石よりも美しいと感じることが出来る自分が、シュミットは誇りだった。
「お前が思っている以上に、お前に依存しているんだよ」
エーリッヒは一瞬目を大きく見開き、それから細める。
「僕も、あなたが思っている以上にあなたに依存していますよ」
もちろん、相手がいないとなんにも出来ないような弱い我々ではないけれど。
それでも、傍にいるといないでは能力に大きな影響が出るだろう。
互いに影響しあい、高めあってきた仲なのだから。
どれだけその存在に心を許してきたかわからない。とても快い、大切な場所。
「…期待を裏切るような事は、しませんから」
エーリッヒは言った。
自惚れなのか? そうさせるのは自分がいるからだと思ってしまうのは…。
微笑むその顔が、その動作が、その言葉が。
自分だけに向けられるものだと思うだけで幸せになれる。
思っている以上に単純な自分がいる。
シュミットはそれでも、そんな自分を嗤えなかった。
「頑張ってこい、エーリッヒ」
「ええ、あなたも。頑張って下さいね」
シュミットは、エーリッヒを手招きした。
素直に椅子から立って近づいた彼の腰に腕を回して、抱き寄せる。
少しの身じろぎ。だが、それ以上抵抗する様子はなかった。
最近は、エーリッヒはシュミットに触れられることを避けてきたのに。
その行動が、彼の心情を最もよく物語っていた。
つまり、半年間という時間を埋めるだけの安心が欲しいのだと。
幼い頃から、エーリッヒは不安になるとよく、シュミットに縋って抱きしめられていた。
そして、同じだけシュミットも、彼を抱きしめることで安心していたのだから。
無言の請いに応えるように、シュミットは『親友』を抱く腕に力を込めた。
…彼の匂いは、とても柔らかく、暖かく。それだけで安心させられてしまう。
「…優勝、して下さいね?」
頭の上から静かな声がする。
「…ああ」
ぎゅう、ともう一度力を入れる。
すると、エーリッヒは慌てたようにシュミットの身体を引き剥がした。
それは、必要以上に高鳴った心音を、シュミットに聞かれたくないが為だった。
「もう、いいでしょう? ……ありがとうございます」
体を離して多少早口で言った言葉の内容に、シュミットは微笑んだ。
そうして、頑張れと言った。
21「1997年1月3日(金) ドイツ・ベルリン(快晴) 18:18」
「行って参ります」
そう言って、エーリッヒは見送りに来た4人に頭を下げた。
2軍の、他のメンバーはすでに荷物を持って搭乗している。
エーリッヒだけが、別れを惜しむために残っていた。
皆の別れの言葉をひととおり聞いて、エーリッヒはミハエルに向き直った。
旅立つ前に、どうしても言っておこうと思っていたことがある。
「無礼を承知で、言わせて下さいリーダー」
エーリッヒは、気を落ち着けるために一度息を吸った。
「今は無理でも、いつか貴方を抜いてみせます。僕も、ミニ四レーサーですから。
貴方は、僕らのリーダーですが、…ライバルです」
「楽しみにしてるよ」
ミハエルはにこりと笑った。
皆が惹かれるカリスマを持つ、笑顔だった。
搭乗を警告するアナウンスが流れた。
頑張ってこい、とシュミットは言って、エーリッヒに手を差し伸べた。
貴方も、と言って、エーリッヒはその手を取った。
固く握手をして、その手をほどいた。
エーリッヒの背が見えなくなるまで、4人はその場を動かなかった。
「18:57」
…無理だね、君達が僕に勝つなんて。
心の中で呟いて、ミハエルは空港のガラス越しの空を仰いだ。
真っ暗な空に、驚くほどに鮮やかに、星星が煌めいていた。
だって、僕は君達と勝負をしているわけじゃないもの。
君達の考え方じゃ…、たとえ100年経っても、僕を追い越せない。
そうして他の誰も、僕に追いつけはしない。
冷たい風が吹いた。
エーリッヒを日本に送り出す、追い立てるような風が。
「VERANLESSUNG」+「VERANLAGUNG」これで終了。
一箇所、最低な間違いを発見したのでそれだけ訂正。
…「18」で、ミハエルがマシンをパソコン画面でしか見ていない事になっていた…;;;
私が日付を間違ったのか、それとも内容を間違ったのか。ほんま最低。
構想が甘いことがモロバレです。ごめんなさい;;m(_ _;)m
原題の「VERANRASSUNG」は「Veranderung(変化)」と
「Veranlassung(きっかけ)」の合成語、SOSの造語です。
モドル