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君に笑って欲しかったんだ。 Narcissus jonquilla 通りかかった花屋の前で、 じっと店頭の花を睨みつけている 少年に出会った。 眉間に皺を寄せているその表情は 花を愛でるという表現からは程遠く、 声すら掛けづらい。 真っ直ぐの視線は真剣そのもので、 誰かがその集中を乱してもいいような 雰囲気じゃなかった。 やがて、彼はふぅ、と短い溜め息をついて 視線を花から外した。 一瞬地面に投じた後、前に向けられた視線は、 きっちりと俺を捕らえた。 「…ワルデガルドさん?」 「やあ」 驚きと警戒と、知人に対する安心とが いっしょになったように、 エーリッヒは目を丸くして、 それから笑った。 「いつからそこにおられたんですか?」 「ついさっき通りかかったんだ」 「話しかけてくれればよかったのに、 人が悪いですね」 「あんまり真剣そうだから、 話しかけちゃ悪いかなと思ったんだ」 エーリッヒははにかみ、 気づかなかったことを短く詫びた。 「いいよ、気にしなくて。 ところで、何の花を見ていたんだ?」 「何の、ということはないんです。 部屋に、花を飾ろうかと思って」 エーリッヒは顔を花たちのほうに戻した。 今度は、柔らかい表情だった。 「花を? でも、君たちなら ファンの子から花束をたくさん貰うだろう?」 ドイツチームはいつも上位で目立っているし、 特にミハエル、シュミット、エーリッヒには 個人的なファンも多いだろう (アドルフやヘスラーには悪いが)。 悲しい事にあまり目立った成績でもない 俺たちのチームにさえ、 ファンで居てくれる子がいるのだから、 ドイツチームならばわざわざ買わなくとも、 年中花で溢れていそうなものだ。 エーリッヒは苦笑した。 「リビングに飾るのなら、それでもいいのですが」 僕らの部屋に飾る、静かな花が欲しいんです。 エーリッヒは言った。 「僕はどんな花でも構わないのですが、 シュミットが、少し」 「どうかしたのか?」 エーリッヒとシュミットが同室であることには、 何の不思議もない。 レースであれだけのチームワークを見せている 二人だし、幼馴染なのだと エーリッヒに聞いたこともある。 「ファンの方々もこの国も煩いと、 少々ヒステリックになってるんです。 元々、僕らの国はそんなに煩くはないから」 少しは知っている。 夜に騒ぐと逮捕されるような国だ、 確かに、この国は煩雑かもしれなかった。 「だから、彼がやつらから貰った花など 部屋にまで飾るなというものですから。 …でも、やっぱり殺風景でしょう?」 「苦労してるな」 「少しはね」 だけどそれすらも楽しいのだと 言わんばかりに、 エーリッヒは嬉しそうだった。 いい顔だ、と思った。 第一回WGP前半、二軍のリーダーとして 精一杯の虚勢をはっていた頃の彼よりも、 ずっとずっと綺麗な顔だった。 「でもどうしても、選べなくて」 「いっしょに選ばせてくれないか?」 唐突な言葉に驚いたのは彼だけではなかった。 俺も、自分の口から出たその言葉の意味を 理解するのに、数秒かかった。 すぐに、エーリッヒは笑顔になった。 「そうしていただけると、助かります」 あ、うん、と間抜けな返事をして、 俺たちは連れ立って花屋に入った。 所狭しと並べられ飾られたさまざまな花の色と 香気に、一瞬めまいがしそうになった。 「随分いろんな花があるものなんだな」 「そうですね」 当たり前といえば当たり前の俺の言葉に くすりと笑みを漏らし、エーリッヒは店内の花に 視線をめぐらせた。 俺も、同じようにエーリッヒに似合う花を 探そうとたくさんの花の一つ一つを眺めた。 ふと、俺の視界に鮮やかな黄色が飛び込んできた。 それは六芒星の星のように見える、 綺麗だけど静かな花だった。 「エーリッヒ」 彼を呼び、その花を指差した。 エーリッヒは「Jonquille?」と 彼の母国語で呟いた。 きょとんとしている俺に気づいたのか、 すぐに俺にも分かる英語に戻す。 「ナルキッソスですよ。 聞いたことがありませんか? 水鏡に映った自分に恋をしてしまった、 美少年の花」 俺は首を横に振った。 エーリッヒは、ギリシャ神話だというその逸話を 俺に語ってくれた。 どんな美少女にも心を動かされなかった 美少年がある日、水を飲もうとして 泉に映った自分に恋をしてしまった。 呼べど叫べど答えない水の中の 少年を諦められなかった彼は、 やがて泉のほとりに咲く一輪の花に なってしまった。 彼の名を受け継いだ、その花の名前はナルキッソス。 有名なナルシシズム…ナルシストの語源に なったという神話だ。 「あまりいい印象の花じゃないな」 笑いながら言うと、 エーリッヒはそうでもありませんよ、とこたえた。 「僕は好きですよ。この花の匂い」 エーリッヒに薦められるままに、 黄色い花に顔を近づけた。 俺の鼻腔をくすぐったのは、 優しくて柔らかい、おだやかな香りだった。 「…、やっぱり俺はこの花がいいと思う」 「そうですね。これなら、シュミットも納得するでしょうし」 店員を呼んで、エーリッヒはその花を数本、 包んでもらった。 俺は、財布を取り出そうとした彼を留めた。 「俺に払わせてくれないか?」 エーリッヒはそんな、と驚いたように言った。 いいから、と彼を説き伏せる。 「プレゼントさせて欲しいんだ」 エーリッヒは困ったような苦笑を浮かべた。 「やっぱり貴方は、僕を女性か何かと 勘違いなさっているんですね」 どきりとしたが、エーリッヒはそれ以上何も言わず、 俺に花の代金を支払わせてくれた。 店を出たところで、エーリッヒは俺に対して 礼を言った。 「いいよ、俺がしたくてしたことだから」 目立つ色合いなのにどこか一歩引いていて、 他の花に主役を譲るようなその花は、 ひどくエーリッヒに似合うと思った。 水鏡に恋した少年の印象は、 どこかでエーリッヒに重なった。 彼は自分に恋するような性格ではないけれど、 誰かを想ったら、きっと花になるまで その傍にいつづけようとするのだろうと思った。 「エーリッヒには、好きな人っていないのか?」 ふいの質問に、エーリッヒは俺を見た。 悪戯っ子のように目を細め、秘密です、と言った。 「そう言うワルデガルドさんは?」 「さぁ。分からない」 この気持ちが憧れなのか恋なのか、 俺には区別が付けられない。 だって相手は空だから。 「その気持ち、…僕にも分かる気がします。 ところで、この後何かご予定はおありですか?」 明るく、エーリッヒは話題を切り替えた。 チームメイトには、夕方まで帰って来るなと言われている。 それをエーリッヒに告げると、彼はそれなら、と言った。 「美味しいケーキ屋さんを知っているんです。 花のお礼に、今度は僕に奢らせていただけませんか?」 宿舎に帰ればケーキが待っているのは知っていた。 だけれど、こんなことはめったにあることじゃないし。 俺に、その誘いを断る理由はなかった。 ケーキを食べながら雑談をして、 宿舎への帰路に着いたのは日も落ちた頃だった。 エーリッヒと一緒に戻った宿舎の前では、 ジャネットとマルガレータが待っていた。 「あら珍しい組み合わせ」 「あら本当。…じゃなくて、遅いじゃないの!」 彼女たちの目の前に行ったとたん、 ジャネットが厳しく言った。 「ごめん。でもまだ6時半過ぎだろ? 夕方まで戻るなと言ったのはそっちじゃないか」 「ワルデガルドのくせに言い訳しないのよ! せっかく作った料理が冷めちゃうじゃないの!」 まあまあ、とマルガレータがジャネットを たしなめる中、一人蚊帳の外だったエーリッヒが もしかして、と呟いた。 「今日は、…ワルデガルドさんの?」 マルガレータがにこりとした。 「ええ、そうよ。 うちのリーダーの誕生日」 聞いたとたん、エーリッヒは俺を横目で睨んだ。 「…貴方は本当に人が悪いですね」 自分の誕生日に、人に花を贈るなんて。 そう言われた気がした。 すぐに行くから、先に部屋に戻っていてくれ、と 二人を戻し、俺はケーキを奢ってもらったし、 と言った。 「あれにはそんなつもりはありませんでした。 知っていたら、プレゼントを探しにも行けたのに」 「いいんだ。ケーキ、美味しかったし」 まだ不服そうな、どこか申し訳無さそうなエーリッヒに、 今日は楽しかった、と別れを告げて、 俺をダシにしてバカ騒ぎをしようと企んでいる チームメイトたちの待つ部屋に、 俺は足を向けた。 空がいつまでも晴れていますように。 俺の好きな青い色を、留めてくれますように。 スケッチブックの一枚に、黄色い花を描き足した。 <ENDE> 小さな波紋(シュミエリダヨ!) |
1月12日の誕生花
にわなずな(スイートアリッサム)「美しさに優る値打ち」「優美」
はこべ「逢引」
ラケナリア「継続する」「移り気」「好奇心」
黄水仙「私の愛にこたえて欲しい」
キンセンカ「悲歌」「繊細な美」「別れの悲しみ」「悲嘆」
スイートピー(桃)「繊細、優美」
シクラメン「内気、遠慮がち」
サフラン「陽気、喜び」
ツバキ「女らしい可愛らしさ」
デージー「あなたと同じ気持ち」
ミモザ「感じやすい」
…別に「世界に一つだけの花」を
意識したつもりは。
そして別に、ワルデガルドを
ホストにするつもりは。
モドル