理解以前の拒絶(10)



 ……僕なんかを好きだなんて、どうして。
 自分の部屋の椅子に座り、エーリッヒは大きく息を吐き出した。
「どうしたのー、エーリッヒ。何か悩み事?」
 数学の課題から顔をあげて、ヨハンはエーリッヒに尋ねる。
 エーリッヒは首を振った。
「なんでもないですよ」
 鞄を開けて、自分もフランス語の課題をやろうとノートを探す。だが、教科書と他の教化のノートの間をいくら探しても、
 フランス語のノートは見つからなかった。
 …学校に忘れてきたのかな。
 ヨハンに、ちょっと学校へ戻ります、と言い置いて、エーリッヒは席を立った。
 前にもこんなことがあったな、と思いながら、アスファルトで舗装された道路を渡って学校へと向かう。
 午後も2時間ほどを過ぎた学校の中は静かで、地域のクラブに開放されている運動場からは多人数の
 にぎやかな声が聞こえていた。
 階段を上り、13学年の教室の手前で、エーリッヒはふと脚を止めた。
 エーリッヒの、隣の教室から数人の声が漏れ聞こえてくる。
 …こんな時間まで校舎内に残っているなんて。
 エーリッヒは首を傾げる。だが、関係のないことだとその教室の前を通り過ぎようとした。
 が。

「…しっかし、ラルフの趣味もよく判んねェよな」

 嘲笑と共に聞こえてきた友人の名前に、エーリッヒは再び足を止めた。悪いことだとは判っているが、
 ドアの隙間からそっと中を覗く。
 3人の男子生徒が、めいめい机や椅子、窓際に腰掛けて駄弁っていた。机の上にファーストフード店の
 ジュースカップや紙袋が置かれているところを見ると、テイクアウトでここへ持ってきたようだ。

「ああ、あのウワサか?」

 一人の少年の言葉を受けて、琥珀色の髪の少年が応える。

「え、何」

 金髪の少年が尋ねた。

「うっそ、知らねぇの?」
「だから、何をだよ、ハーゲン」
「ウワサだよ、ウ、ワ、サ! 校内持ちきりだろ?」

 最初に喋った栗色の髪の少年が、金髪の少年に呆れたような視線を向けた。

「噂ってランディ、だからどんな?」
「うっわ、コイツほんとに知らねーよ…」
「ハンス、お前もーちょっと情報網作っといた方がよくね?」

 二人の少年は面白半分に、ハンスと呼ばれた金髪の少年をからかう。
 ハンスはしらねぇもんはしかたねぇだろ! と反撃してから、身を乗り出した。

「…で、噂って何? ラルフ関係なら、やっぱ女性問題?」

 ラルフはこの学校ではかなりの有名人だった。女とのデートのために一年浪人したという武勇伝を皮切りに、
 いいことでも悪いことでも話題のネタとしては事欠かない。
 先ほどルーディと呼ばれた琥珀の髪の少年が、それが違うんだなぁ、と言った。

「男性問題なんだ」
「…はぁ? 何、喧嘩とかしたわけ?」
「そーじゃねェよ。何、お前知らねェの? アイツ両刀だろ?」

 ぶふぅっ!!

「うぁきったねぇ!!!」

 ハンスの噴出したジュースが、教室の机や床を浸した。
 ハーゲンが机の上から飛びのいて、ジュース飛沫から非難する。
 げほげほと咳き込んだハンスは、りょうとうって、と、なんとか言葉を紡いだ。

「マジで知らなかったみてーだな…」

 ランディが呆れたように言った。ハーゲンは苦笑して、肩をすくめる。

「…隣のクラスに去年転校してきた、こいつも知らねぇ? 銀髪と黒い肌の」

 …僕のことだ…。

 盗み聞きをしているエーリッヒの心臓が、どくんとひとつ重苦しい音を立てた。
 自分に関する噂など、知らない。

「ああ、…そいつは知ってる。で、そいつがどうしたの?」

 何とか咳をおさめたハンスが頷いた。

「告ったっていうんだよ、ラルフが」
「そーそー、そんでフラれたってなー」

 さぁっと、エーリッヒの顔から血の気が引いた。
 噂になっているなんて。
 心臓が脳に移動したかのように、鼓動が耳の近くで聞こえる。
 エーリッヒは息をも殺して、三人の会話に聞き入った。これ以上聴きたくは無かったが、足が動かない。
 神経は、完全に聞こえてくる声に集中していた。

「しっかしわかんねーよな」

 窓際に腰掛けていたランディが、頭の後ろで両手を組んで窓の外を見下ろした。



「どうしてわざわざあんな色のを恋人にしたがるんだ?」



 ―――――――ドクン。



「そうだな。…あんな顔して、床上手なのかも知れねぇぜ?」

 くくっ、と笑って、ハーゲンが言った。

「あははは、かもなー」

 後頭部に重い鉛が沈んだような感覚と共に、ひどい吐き気が襲ってきて、エーリッヒは教室のドアから離れた。
 一瞬寄りかかったドアがガタン、と音を立てたが、それを気にする余裕は無い。
 逃げるように走ってトイレへ駆け込み、胃の中の物を吐き出す。白濁した吐瀉物の臭いが、
 さらに吐き気を催させて、黄色い胃液ばかりが口に酸味を残すまで、エーリッヒは吐き続けた。
 涙の滲む視界で、白い便器を認識した。
 手洗い場の水道で口元をゆすいでいると、鏡の中の自分がいやでも目に入ってくる。

 ――――どうして、あんな色の。

 この学校に通うほぼすべての人間と、エーリッヒの肌の色は違う。
 それを忘れていたわけではないが、意識しなくて済んでいたのだ。
 ラルフもミハエルもヨハンも、エーリッヒのもっとも近くにいる人物たちがそれを気にしなかったから。
 転校当初には肌の色や生まれで距離のあったシュミットも、友達になってからはまったくそうしたことを
 気にしていなかった。
 少なくとも、口にしたりはしなかった。
 ……それでも、自分がゲルマン民族の血をごく薄くしか引いていない事実は消えない。
 自分の肌の色も髪の色も、まだこの国には少ない。
 下唇を噛み締めると、エーリッヒはきつく瞼を閉じた。

「エーリッヒ? なにをしている、こんなところで」

 聞き覚えのある声に、びくりとエーリッヒが顔を上げると、小脇に数冊の本を抱えたシュミットが、
 眉間に皺を刻んで立っていた。どうやら今まで、図書館にいたらしい。
 窓から差し込む光が、細い金の髪を煌かせている。
 眩しさから、エーリッヒは視線を逸らした。

「…なんでも、ありません」

 ふらつきそうになる足元に必死に気を張りながら、エーリッヒはシュミットの横を歩きぬけようとした。
 その腕が、シュミットに掴まれる。

「待て」
「……なんですか」

 シュミットの方を振り向かず、エーリッヒは俯いて尋ねる。

「…顔色が悪いぞ」
「済みません、大丈夫です」

 内心の動揺を隠し、エーリッヒは首を左右に振った。
 シュミットはますます、眉間の皺を深くする。

「大丈夫に見えないから、聞いているんだ」
「貴方には、理解できないことですから」

 早く離してほしくて、エーリッヒはわざと突き放す言い方をした。
 それが普段の彼の様子からは程遠くて、シュミットは腹を立てるよりも心配の方が先立つ。
 貴方には理解できない、と言われたことに、心のどこかが苛つきはしたけれど。

「…貴様は私の友達だ。違うのか? 友達を心配して何が悪い」

 ばっ、とエーリッヒは顔を上げた。
 真っ直ぐに見つめてくるサファイア色の瞳。
 エーリッヒの目元が赤いことに、シュミットはどきりとした。

「…なら、……ほんの少し、寄りかからせてください…」

 シュミットの肩に、顔を押し付ける。

「ふっ……っく………」

 細い身体を震わせ、声を押し殺して、エーリッヒは泣いた。
 どうしていいか判らなくて、シュミットは動けなかった。誰かに寄りかかられたことも、
 そうやって泣かれたことも今まで一度も無いのだ。泣きやませたいという希望はあっても、
 それにはどうすればいいか、シュミットには判らない。
 何があったのか、どうして泣いているのか、それすら聞けずに、シュミットはエーリッヒの震える
 背中を見つめながらじっとしていた。
 ふと、シュミットの視界の中に動くものが映った。

「誰だ!」

 おもわず大きな声を出すと、びくっとエーリッヒが震えた。慌てて身体を離すエーリッヒに、シュミットは
 一瞬声を出したことを後悔したが、むざむざ怪しい影を逃がす方が愚かだと思い直す。
 廊下を走って逃げていくのは、明らかにこの学校の生徒だと思われる3人の少年だった。

「…見られ、た…?」

 エーリッヒが呟く。
 その顔が真っ青なことに、シュミットは眉を寄せる。

「どうした、エーリッヒ?」
「…ごめんなさい、貴方まで…」

 エーリッヒは俯いて、そう言った。

「貴様が何を言っているか、理解できないんだが。もう少し解りやすく言ってもらえると助かる」

 シュミットの言葉に、エーリッヒはごく小さな声で、答えた。

「……ラルフと僕のことが、噂になっていると、…彼らが言っているのを聞いたんです。だから…さっき、
 僕が貴方に…触れているのを見られたから…、今度は貴方まで、きっと悪い噂を立てられてしまいます」
「それがどうしたというんだ?」

 不安と心配とに揺れるエーリッヒの瞳を凝視する。
 いつでも強い光に彩られた宝石色の瞳は、エーリッヒには眩しすぎた。

「私はそんな噂に負けるほど弱くはないし、そんな噂程度で貴様を切り離すほど卑しくもない。
 貴様も私の友達を名乗るなら、そのくらいの強さを見に付けてみろ。例え誰が何と言ったとしても、
 私は私で貴様は貴様だ、その真価は変わらないだろうが。それに、私の中の貴様に対する
 評価は他人の風評では揺らがない」

 そこで、ふい、とシュミットはエーリッヒから視線を外した。
 一度目を閉じ、息を吐き出す。

「貴様が泣いているのが他人の噂のせいだとしたら、私は貴様を見損なう。私が友達に選んだやつは、
 そんなに弱くないはずだからな。そうだろう?」

 顔を上げ、シュミットはにこりと笑った。
 とん、とエーリッヒの胸を拳で叩く。
 信頼できる友人にするように。

「…はい」

 強くなろう、とエーリッヒは思った。
 せめて、こうやって信じてくれる友達に心配をかけない程度には。
 肌の色や髪の色に対するコンプレックスがどれほどだったとしても、…それを気にせずに付き合ってくれる
 友達だって自分には多いのだ。乗り越えられるような気が、した。






 コンコンコン。

 丁寧にノックされたドアを開けると、隣のクラスの少年が立っていた。静かに微笑みながら、
 銀髪の少年はラルフは居ますか、と尋ねる。
 シュテファンはちらりと背後を伺った。

「エーリッヒ! どうしたんだ、俺に会いに来てくれたのか?」

 シュテファンごしにエーリッヒの姿を見つけ、机の椅子に座っていたラルフはこの世の春を迎えたような表情をする。

「…俺、お茶でも入れてくるわ…」

 その表情に居た堪れなくなって、シュテファンは部屋を出ようとした。

「気になさらないでください、すぐに帰りますから」

 引き止めてくれるエーリッヒに弱弱しく笑いかけると、シュテファンはドアを閉めた。
 この場からの避難は、自らの良心にとっては正しいことかもしれなかったが。
 逃げたことに対する罪悪感は、今日一日の中でも一番の懺悔に値するだろうと、彼は思った。
 部屋に入ってきたエーリッヒに、ラルフはとりあえず腰掛けるように勧める。エーリッヒはすぐに帰りますから、
 とやはり首を横に振った。

「何の用だ、エーリッヒ。言っとくけど俺、そんなに我慢強くないから、その気がないなら逃げた方がいいと思うぜ?」

 冗談めかした笑顔の中に、ラルフは本音を混じらせる。
 シュテファンが出て行ってしまった今、ラルフを止めてくれる人物は居ない。ラルフには、自分のことでありながら、
 自分の行動を抑制する自信が全くといっていいほどない。特に、エーリッヒに対しては。

「…貴方は、優しい人ですね」
「…はい?」

 エーリッヒの言葉に、ラルフは行動を止める。
 言葉の意味が当然理解できていないラルフを見つめながら、エーリッヒは続けた。

「貴方でしょう? 僕に関する悪い噂が、僕に届く前にシャットアウトしてくれていたのは」

 その言葉でようやく、エーリッヒの言わんとしていることを悟り、ラルフは大げさに肩を竦めて見せた。

「…そんなスゲェ力、俺にあると思う?」
「そんなことが出来るのは、全校生徒の中でも貴方だけだと聞きました」

 …バレてましたか。
 ラルフは決まりが悪そうに視線を逸らし、短い髪をわしわしと掻いた。
 肌の色や髪の色だけでなく、季節外れにこの学校に転校してきたエーリッヒには、
 何かと悪い噂が付き纏った。ラルフはそれをエーリッヒが気にしていることを知っていたから、
 彼を好きになる前から、そういった噂からなるべく彼を遠ざけた。
 独自の情報網とネットワーク、そして人間関係を持っているラルフにしか、そういった情報操作など
 出来るはずもない。

「…それを理由に交際を迫ることも、貴方になら出来たはずです。なのに」

 貴方はそれをしなかった。
 ラルフは当たり前だろ、と言った。

「莫迦にするなよ、エーリッヒ。俺はそんなコスイ真似してお前を手に入れるつもりなんかないんだから。
 俺はあくまで、お前に俺を好きになってもらいたいの」

 親指を自分の胸に突きつけてそう宣言するラルフに、エーリッヒはくすりと笑う。
 …そう、その笑顔まで手に入れたいから。
 心の中で、ラルフは呟く。
 力づくでは駄目なのだ。あの笑顔を曇らせることは、彼を殺すことに等しい。

「…前に貴方は、僕に貴方を好きにさせる自信があると、…言いましたよね」
「ああ。あるぜ、絶対にエーリッヒに俺を好きになってもらう自信」
「なら、してみせてくれませんか?」

 微かに照れたような表情で、エーリッヒは言った。
 ラルフは我が耳を疑う。

「…っ、エーリッヒ。それって……」

 自分に良いように解釈しそうになって、ラルフは口篭る。考えてくれるとは言っていたけれど、
 返事がないことも当然だと諦めかけていた。だから、今更そんな風に期待を持たせることを言わないで欲しい。
 しかし、ラルフの予想に反して、エーリッヒはこくりと頷いた。

「貴方のことを、…友達とは別の意味で好きになれるかもしれません。だから…」

 ラルフは椅子から立ち上がる。
 そっと腕を伸ばして、エーリッヒを抱きしめた。
 躊躇いがちに背中に回される腕に、ラルフは生きていて良かった、と思ったとか。
                                                            →続く


 こんな展開誰が期待したーーーーー???!!!!!
 ああああああごめんなさいごめんなさい…ッ!!!!!
 連載初めてとっくに一周年が経過していることに気づきました。
 いや、実際終わらせる気ないでしょ、SOS?


モドル