理解以前の拒絶(6)
『そんでさー、特に変わったとこ行ったわけでもなく、ただ買い物したり飯食ったりしただけなんだけどさ。
すっげェ楽しかったんだよね』
受話器から、ラルフの弾む声が、昼間の興奮そのままといった感じで流れてくる。
その惚気を聞いていた少年は、軽く溜め息をついて、重い口を開く。
「…それで、どうしてそれを私に報告してくる?」
すでに夏期休暇に入ってかなりの時が経っている。
ミュンヘンのギムナジウムから、シュミットはフランクフルトへと帰省していた。
ラルフは今、自分の家へと帰る電車の中から通話しているという。
エーリッヒはハンブルクからミュンヘンに家族ぐるみ越しているから、一旦帰省していたラルフは、
わざわざ電車を乗り継いでエーリッヒとデートしに行っていたのだ。…レーゲンスブルクから。
そんなに離れているわけでもないが、直線距離にしておよそ110km。ご苦労なことだと思いながら、
シュミットは自室で電話の相手をしていた。
『いや、教えといた方が良いかなーと思って』
嘘を吐け。どうせ、誰かに自慢したくて仕方なかったんだろうが。
その標的にされたシュミットとしては、たまったものではない。
…だが、エーリッヒが元気そうだという、その報告を聞いてどこかで安心したのもまた事実。
シュミットは勘付いていた。自分が、どこか普通ではないところでエーリッヒを意識していることに。しかし、
それを素直に認めるわけにはいかない。それに、認めようとも思わなかった。
彼は、…友達。
初めて作った、異民族の友達だというだけだ。
だから、対応に戸惑う。ただそれだけのことだ。
『ってか、ミハエルはいいよなー。あいつ、ミュンヘンに残ってるだろ?』
「…は?」
ミハエルの家はニュルンベルクの方だと聞き及んでいたシュミットが、間抜けな声をあげる。
『あれ? シュミット知らなかったっけ。家帰っても誰もいないからって理由で、エーリッヒんとこに世話に
なってるんだってさ。上手くやったよな、あいつ…』
「…………ふぅん」
こめかみが引きつるのを感じながら、シュミットは相づちを打った。
そういえば、エーリッヒにはミハエルと同じ学年の妹がいる。同じミュンヘンの、違うギムナジウムに
通っているというが、エーリッヒの妹ならさぞかし可愛いだろう。…自分の妹とは違って。家にいると
いろいろと煩い妹のことを考えて、シュミットは知らず溜息を零した。
…っていうか、家に戻らなくて、ミハエルの家族は何も言わないのだろうか。家に誰もいないとはいえ、
大家の大事な跡取り息子だ、社交的な場に出ないわけには行かないだろう。事実、シュミットが
そうなのだから。朝から晩までいろんなところに引っ張り回されて、シュミットはかなり参っていた。
そこへ来ての、またストレスの溜まる相手との電話だ。それを、黙って聞く気になったのは何故だったか。
油断をすると結論を導きそうになる思考回路に、シュミットは無意識にストップを掛ける。
「言いたいことはそれだけか? 切るぞ」
『あー。待った待った。こっからが本題』
…副題を20分も掛けて喋っていたのか。
「簡潔に言え。私はもうそろそろ寝る」
就寝にはやや早い時間だったが、身体は正直に睡眠を求めている。
『おう、じゃあ簡潔に言う。俺、エーリッヒのこと好きだ』
…………………………は?
電話口で沈黙した相手に、ラルフは何を思ったか。
『…本気だからな』
普段の調子とは違った、落ち着き払った声。ラルフが恋愛関係のことで騒いでいるのは年中のことだが、
こんな声のトーンは聞いたことがなかった。至極真面目な、…まるで、真剣勝負を挑んでいる、ような。
『また、ミハエルが何か言うかも知れない。あいつ、すっげェエーリッヒのこと好きだから。だけど、あいつの
好きと、俺の好きは違う。正直に、俺はエーリッヒを俺のモノにしたい。今日、はっきりそれ感じた。俺は、
エーリッヒのこと、愛してるんだって』
冷水を頭から浴びせかけられたような、そんな心持ちで、シュミットはラルフの声を遠く聞いていた。
ミハエルの、エーリッヒに対する“好き”は、友達という意識よりほんの少し高くて、恋愛感情と言うには
少し低い。年頃の少年少女が、一度は自分より年上の大人の異性に憧れるような、そんな感情なのだろう。
だから、どれだけミハエルがエーリッヒに懐こうとも、良い心持ちとは言い難かったが、目を瞑ることが出来た。
…だが、ラルフが言っているのは?
シュミットの頬を、冷たい汗が滑り落ちる。
彼は多くの人と付き合ってきた。一人一人の期間にしてみれば短いかもしれないが、恋愛と憧憬を取り違えたりはしない。
場数を踏んでいるぶん、ラルフは自分の心の動きに慣れている。行動は、迅速だった。
窓の外の闇に目を移しながら、漸くシュミットは言葉を思いだしていた。
「…それで、何故私にそんなことを言う?」
『別に。ただ、協力してくれないかなーとか思っただけ』
「…協力? 何故、私が」
電話を持つ手が、微かに震えていた。
『お前の言葉だったら、結構エーリッヒ動きそうだから』
エーリッヒがシュミットに興味を持っていることは知っている。友達になったその日から、よくシュミットに懐いていることも。
だけれど、彼らは“友達”だ。
今なら未だ、エーリッヒを浚うことも可能。
思いながら、ラルフは自嘲した。
……シュミットの気持ちに気付いてるクセに、俺ってばいぢわる。
シュミットに対してやましいとは思わない。元もとラルフの目的はエーリッヒをシュミットの友達にすることにあって、
それ以上の関係にすることにはない。
エーリッヒのことは、一目見たときから気に入ってたんだ。友達になってみたら、尚更俺の好みにピッタリだし。
…これは、宣戦布告。シュミットに、エーリッヒはやらない。
「断る。どうして私がお前のお膳立てなどしてやらねばならないんだ」
シュミットの答えに、ラルフは微かに笑った。
『…お前ならそう言うと思った。まぁ良いさ。今日はまだ手ェ付けてないけど、エーリッヒ今度俺ん家行きたいとか
言ってたし。口説けなかったら実力行使かな』
「おい貴様…!」
『安心しろよ。あいつを、不幸にするような真似だけはしないから』
あいつを傷付けるようなことだけはしない。
それは、シュミットには出来ないかもしれないこと。
他人の心を察したり、思いやったりすることの苦手なシュミットは、図らずも人を傷付けてしまうことがよくあるから。
そして、それに気付かないことが多いから。相手が何故、その言葉で怒ったり傷ついたりするのか、理解が出来ないから。
…いつだったか。
そういえば、エーリッヒを怒らせたことがあった。
腐った木の梯子から落ちて気を失ったらしいエーリッヒを、医務室へと運んだとき。
怒らせたことがあった。
「思い上がるな」と。
彼は、そう言った。
『じゃーな、シュミット。また学校で会おうぜ。…13(最高)学年でさ』
ぷつ、と電話が切れる。
ツー、ツーという無機質な音を聞きながら、シュミットは遠くを見つめて彷徨っていた。
「ほんっっっっとうに、何もされなかったんだね? エーリッヒ!」
心配げに、でも疑わしげに若葉色の瞳を向けてくるミハエルに、エーリッヒは苦笑をした。
ミハエルはエーリッヒの部屋を訪れて、さっきから何度も同じ質問をしているのだ。
ベッドにちょこんと腰掛ける金髪の少年に、机の椅子に座っているエーリッヒは椅子を回して向かい合っている。
「だから、何をされるって言うんですか?」
「あんなコトとかこんなコトでしょ?」
ぴょこり、と突然ドアから顔を覗かせた少女が口を挟む。
細い銀の髪と、灰色みの強い青の瞳。
「マリー。…あんなコトとかこんなコトって、何なんだ…?」
「お兄ちゃん、それセクハラ。乙女にそんなコト言わせるものじゃないわ」
「………マリー…」
疲れを感じてぐったりと項垂れたエーリッヒに、マリー…、マーレイナはがばっと抱き付く。
お兄ちゃんっ子のマーレイナは、エーリッヒに非常に懐いていた。小さい頃から、忙しい両親と勝手気ままな
姉に変わってエーリッヒに面倒を見られていたためかも知れない。
「お兄ちゃんは、私が認めた人じゃないと渡さないんだから」
首にしがみつくように腕を回して、マーレイナは言う。
「じゃあ、僕は?」
マーレイナと同い年のミハエルが、大きな目をくりくりさせて尋ねる。わくわくとか、ドキドキとか、そういう擬音語が
そのまま当てはまりそうな表情をしていた。
「…うーん。家柄も容姿も申し分ないんだけど、ダメー」
「ええー?! なんで??」
「だって、お兄ちゃんがすっごく苦労しそうなんだもん!!」
…当たってる。
エーリッヒは微かに苦笑いを浮かべた。
弟のように懐いてくるミハエルは可愛かったが、時々ものすごい我が儘を言って、エーリッヒを戸惑わせることがあった。
女姉妹ばかりで、男の兄弟が欲しかったエーリッヒにとって見れば、そんなことも可愛いものだったかも知れないが。
……っていうか、ミハエルも男で僕も男なんだけど。
しかし、ラルフと友人関係になってから、そんなことはエーリッヒにとってもそろそろどうでもよくなってきていた。
人間の本質に、性別など関係ない。
人が人に惹かれる、そこに性別の垣根などない。
ふいに、エーリッヒの脳裏にサファイアのように澄んだ青の瞳が浮かんだ。
人を惹き付ける魅力のある、強い意志の宿った瞳。
「マリー、」
ミハエルと喧々囂々言い合っていたマーレイナは、兄に呼ばれて顔をあげた。
「なぁに、お兄ちゃん」
「マリーの認める人って言うのは、どんな人のことだい?」
「えーっとね、容姿端麗で、運動神経が良くて、優しくて、できればお金持ちで、性格がよくて、誰よりもお兄ちゃんを
大切にしてくれる人!」
エーリッヒはにこりと笑って、妹の頭を撫でた。
撫でられる理由がよく判らなくて、でもそうして貰うのが嬉しくて、マーレイナは黙って兄に頭を預けていた。
もうすぐ、新学年が始まる。
→続く。
ミハエルの城がカイザープファルツのイメージです。御免なさい私設定です。
モドル