理解以前の拒絶(8)


 放課後の図書室には、10人に満たない程度の人が居た。
 暖房で適度に保たれた室温は、何かに集中するには少し不適切と思われる。
 エーリッヒは閲覧用の机に腰を下ろして、民族学の専門書を読みふけっていた。

「よ、エーリッヒ。前、良いか?」
「え?」

 突然声をかけられて、エーリッヒは意識を本から浮上させる。
 見上げた青い瞳は、楽しそうな色をしていた。

「ラルフ。珍しいですね、貴方が図書室に来るなんて」

 エーリッヒの向かいの席に陣取ると、ラルフはにこりと笑う。

「お前が居るかもしれないって思ったから」
「…っ! 変な冗談は、止めて下さい」

 ほんの少しの言葉に、反応して頬を染める。
 困ったような迷惑なような、でも心の底から嫌がってはいないような瞳で睨まれて、ラルフは
冗談なんかじゃないよ、と言った。
 そうして、じっとエーリッヒの瞳を見つめる。
 エーリッヒはそれに耐えられなくて、視線を本に戻した。
 伏せられた長い銀の睫毛、ページを繰る細い指、銀の髪に縁取られた褐色の肌。
 美人だと思う。
 ラルフの視線に気付いて、エーリッヒがほんの少し顔を上げる。

「…なんなんですか」
「ぅん? 綺麗だなって思ってただけだよ?」

 飾りも誤魔化しもせずに言えば、エーリッヒはやっぱり困ったような怒ったような顔をする。
 ラルフは、それが可愛いと思う。見ていたいと思う。その欲望に正直に、ラルフはエーリッヒを
見つめ続けていた。
 13学年に上がって、ラルフとエーリッヒ、それにシュミットはクラスを離れた。休み時間や放課後に、
会いに行くことはしても、顔を合わせられる時間は12学年の時よりずっと減っている。それに物足りなさを
感じているのは事実で、ラルフはエーリッヒに会える時間には、良く彼を見つめるようになっていた。
 エーリッヒは、そのことには気付いていなかった。
 エーリッヒは、注がれ続ける視線をかわすように話題を探した。

「最近、調子はどうですか…?」

 浮かんできたのはあまりにもありきたりな言葉で、ラルフは苦笑を隠し得なかった。
 エーリッヒにとっては、居心地が悪いだろうと判っていて見つめてはいるんだけれど。そんな風に、
逃げられると追いたくなる。それが人情ってモンだろ。

「うん、良いよ。でも、やっぱりクラスが離れると淋しいかな」
「シュミットですか?」

 がくり、とラルフの頭が沈んだ。
 わざとやってるんでは無かろうか。鈍感すぎるエーリッヒにラルフは時々そう思う。

「まぁ、あいつもそうだけど…」

 ぽりぽり、頭を掻いて、もう一度視線をエーリッヒへ。この少年には、遠回しな言葉や態度など、
何一つ伝わらないのだろうか。
 ………ならば。

「うん、何でもない」

 突然言って、ラルフはガタンと立ち上がった。
 目をぱちぱちさせているエーリッヒに軽くウインクをして、

「また今度な、エーリッヒv」

 さっさと図書館を出ていってしまった。
 エーリッヒは暫く、呆然とその背中を見送っていたが、やがて再び本の世界に没入していった。





 シュミットは廊下の窓際に立って、空を眺めていた。
 寒々しい、低い青の空の西に、どんよりとした灰の雲が控えている。
 …雨が振るかも知れない。
 シュミットは教室の方に視線を移動させる。閉じられていたドアを開けて、銀の髪の少年が
飛び出してくる。腕には、次の時間…化学の用意。
 時々同じ教科で同じ教室になる二人は、どちらが言いだしたともなく行動を共にするようになっていた。

「お待たせしました、シュミット」
「…ああ」

 シュミットはそれだけ言って、先に廊下を歩いていく。
 彼の歩速に追い付くように早足で、エーリッヒは彼の隣を歩く。
 ここ数週間の、まるで習慣。
 ほんの半年前までは、隣に人を並ばせることなど、シュミットは絶対に許さなかったというのに。
 会話は無かったが、シュミットはエーリッヒと居て嫌な気分になどならなかった。自分とは全く違う色を持つ、
自分が最も避けていた、人種だというのに。
 余計なことを訊いたり言ったりしない、エーリッヒの性格はシュミットの歯車とよく噛み合った。家族以外を
そんなに近づけた記憶のないシュミットには、エーリッヒは全くといっていいほど異質の存在だった。父や
母に話したら、けしていい顔はして貰えまい。自分達が純粋なゲルマンだということを、何よりも誇りにして
いる連中だ。そして今まで、シュミットもその二人の教育の元に育ってきた。異民や混血を、侮蔑でもって
無視していた。
 だが、この── 銀の髪の少年は。
 シュミットの視線に気付いて、エーリッヒは何ですか、と言った。
 シュミットは何でもない、と言って、歩速を早めた。エーリッヒは遅れずに付いてくる。
 教師が入ってくる少し前に、二人は科学教室に到着した。





「なぁヨハン、今日、部屋変わってくれねぇ?」

 突然そう言われて、13−Eに所属しているヨハン=ミュラーはその垂れ気味の瞳をしばたたかせた。
 相変わらずの調子の良さで、ヨハンに話しかけてきたのはベリーショートの金髪に、青い瞳の少年。
ラルフ=シュピールベルク。

「…別にいいけど。何、スティフと喧嘩でもした?」

 読みかけの小説に臙脂色の紐栞を挟んで、ヨハンはラルフに視線を向ける。
 ラルフは、へへへ、と笑った。

「いや、そうじゃないんだけど」
「ふぅん。まぁ、余計な詮索はしないでおいてあげるけどさ」

 だいたい理由は判るし、と付け足して、ヨハンは大きく伸びをした。

「人の部屋で不埒な真似だけはするなよな」
「あー、解ってる解ってる」

 ひらひら、手を振るラルフに信憑性は0。
 ヨハンは大きく溜め息をついた。





「…あれ? ラルフ?」
「や、エーリッヒ」

 自室のドアを開けて、エーリッヒは首を傾げた。
 普段この部屋にいるのは、赤茶色の髪の少年だ。だが、今部屋の中にいるのは、金髪の友人。
エーリッヒは荷物を自分の机におきながら、その疑問への答えを探す。

「スティフと、喧嘩でもしたんですか?」

 ヨハンと同じ疑問を投げ掛けてきたエーリッヒに、ラルフは苦笑を禁じ得なかった。

「俺って、そんなに喧嘩っ早く見える?」

 きょとんとした瞳をラルフに向けて、エーリッヒはえ? と言った。
 ラルフは、口元には柔らかい笑みを浮かべて、真剣な眼差しでじっとエーリッヒを見つめていた。
 目があう。

「…ラルフ?」

 常にはない雰囲気に気付いて、エーリッヒは眉を寄せた。
 ゆっくりと、ヨハンのベッドに腰掛けたラルフに近づく。

「どうしたんですか、一体。どうしてこの部屋に…?」
「エーリッヒと話がしたくてさ」

 言って、エーリッヒの腕を掴んでベッドに引き倒した。
 何が起こったか分かっていない、エーリッヒを組み敷いて薄い青の瞳を上から覗き込む。

「ら、ラルフ…ッ?!」

 目を大きく見開いて、エーリッヒはラルフの下から逃れようと体を捩った。
 ラルフは、抵抗を封じるようにエーリッヒを押さえつける。

「何の真似ですか?! こんな、悪ふざけは…!」

 体重で抑え込まれているぶん、下にいるエーリッヒには分が悪い。

「話がしたいんだ、エーリッヒ」
「話すなら、こんな格好じゃなくても良いでしょう? どいて下さい…!」

 言われても、ラルフには退くつもりなど無かった。
 逃げられたくなかったから。
 惚けられたくなかったから。


「エーリッヒ、愛してる」


 びくん、とエーリッヒの躰が震えた。抵抗が止まる。
 不安げな色をした瞳が、ラルフの高い空の色を映していた。

「……ラルフ? 何を、言って…?」

 なんとか笑みを浮かべようとするエーリッヒは、見ていて何故だか酷く憎らしかった。

「判ってるんだろ、エーリッヒ。俺はお前が好きだ。ずっと好きだった。ずっと、ずっとそう言ってきたつもり
だけど、お前には伝わってない。だから、ちゃんと、はっきり言うよ。エーリッヒ、好きだ」 

 真剣な眼差しが、射るようにエーリッヒを見つめ続けていた。
 痛くて、エーリッヒは視線を逸らした。
 それを拒絶と取って、ラルフはぎゅっと下唇を噛み締めた。

「…エーリッヒ!」
「ラルフ。僕は、…僕は、貴方を友達として見てきました。何をずっと言われてきたのだか、判りません。
離して下さい、ラルフ」

 突然、ラルフは力を抜いてエーリッヒに覆い被さった。
 エーリッヒが何かを言う前に、その細い体を強く抱き締める。

「……エーリッヒ。拒絶しないでくれ、お願いだから。本気なんだ。本気でお前のことが好きなんだ。
お前だって、…俺のこと、嫌いじゃないだろ?」

 とても卑怯な尋ね方だと、知っていて言う。
 自分の下に感じる体は、ひどく熱くてひどく早く脈打っていた。
 エーリッヒは、惑う瞳をラルフに向けていた。

「嫌いじゃ、…ありません、けど、」
「…なら! なら、付き合ってくれ。絶対、俺を好きにしてみせるから」

 エーリッヒは、何も言わなかった。

「エーリッヒ!」

 畳みかけるように、ラルフは叫んだ。
 エーリッヒは、微かに震えていた。

「エーリッヒ、」
「…待って下さい。時間を、考える時間を下さい。貴方を、…僕は、貴方を恋愛対象として見たことが
ないんです。だから、時間を下さい、ラルフ」

 腕ごと抱き締められているエーリッヒは、肘を曲げてラルフの上着を掴んでいた。
 その手に強く力が込められていることに気が付いて、ラルフはやっとエーリッヒを解放した。
 不安で色を失いかけている顔を見て、ラルフは軽い罪悪感を覚えた。
 …シュミットには、エーリッヒを不幸にするようなことはしないって言っといて…。

「ごめん、エーリッヒ。……待ってるから」

 それだけ言って、ラルフはのろのろと部屋を出ていった。
 エーリッヒには、それを目で確認するだけの余裕すらなかった。

 …何を。何を言われた?
 ラルフと付き合う?
 友達としてではなく、恋人として?
 そんなこと。
 冗談だと思っていたのに。
 冗談ではない瞳と口調で、告白された。

 エーリッヒは大きく溜め息をついて、自分の腕で視界を覆った。





 シュテファンとヨハンが、それぞれ自分の課題をしていると、がちゃりとドアノブが回った。
 …鍵かかってるんだけど。

「…スティフ、開けてあげれば?」

 フランス語の課題から目を逸らすことなく、ヨハンが言った。普段はエーリッヒに教えて貰える
教科なだけに、独学だと辛いものがある。ちなみにスティフは完全な理系で、語学には半端じゃなく
弱いのでアテにはできない。

「何でお前が開けないんだよ」 

 ノンフレームの眼鏡をかけた、薄茶色の髪の少年がヨハンを横目で睨む。手の中には、ドイツ語の辞書がある。

「スティフの同室者だと思うんだけどなぁ」
「じゃあ、荷物まとめてドア開けろよ。一石二鳥じゃないか」
「隣人には優しくしろって、神様は毎日仰ってるんだろ?」
「………判ったよ!」

 がたんと自分の椅子から立ち上がって、プロテスタント・シュテファンはドアを開けた。
 二人の思惑通りの人物が、肩を落として立っていた。

「おかえりー、ラルフ。ちゃんとフラレた?」

 ヨハンが、追い打ちをかけるように言う。
 何も言わずに部屋に入ってきたラルフは、そのまま自分のベッドに倒れ伏した。
 シュテファンとヨハンは、顔を見合わせる。

「…よっぽどこっぴどくフラレたらしいね」
「まぁ、良い薬じゃないか? こいつには、さ」
「………勝手なこと言ってるんじゃねー…」

 二人の会話を聞きとがめて、ラルフが力のない声を出した。
 ヨハンが、何を言ってるんだよ、という目でラルフを見る。

「どうせ、エーリッヒに無理矢理迫って部屋叩き出されたんでしょ?」
「まだ、決まってない。エーリッヒには保留にされただけだよ!」
「嘘だァ。なんでフラレてないんだよ。エーリッヒがラルフなんか、相手にするはずないじゃん!
 ま、まさか、無理矢理既成事実を…!?」
「してません!!」

 思考がぶっ飛んでいるヨハンを現実に引き戻すために、ラルフは叫んだ。

「……でも、押し倒すところまではいったんだろ、お前のことだから」
「………………」

 冷静なシュテファンの言葉に、ラルフは答えることが出来なかった。
 シュテファンは両肩を竦めた。肩まである細い髪が、さらりと流れた。

「お前って本当、考えが足りないなラルフ」

 敬虔な神の僕(しもべ)は、同室者には厳しいらしかった。

                                                     →続く。


 シュミットがほとんど出てこなかった…(泣)。


モドル