Eine Ablehnung des Verstandnisses(4)
 (A refusal before the understanding・4)




「…シュミットの莫迦野郎〜」

 陰鬱な声を聴かなかったことにして、シュミットはさっさと英語のテストの直しを始めた。
 3時間目と4時間目の間の、小休憩中である。
 無視されたことにもめげず、ラルフは、今度はその隣のエーリッヒに話しかけた。

「なぁ〜、エーリッヒぃ」
「はい? どうしたんですか、ラルフ」

 エーリッヒは呼ばれたことに気付いて、前の席に座っている人物との会話を切り上げる。
 反応してくれたのが嬉しかったのか、ラルフは甘えるようにエーリッヒに抱き付いた。

「聴いてくれよぉ、俺、英語のテストがさぁ〜」
「はぁ…??」

 状況についていけなくて、されるがままになりながらエーリッヒは応える。

「俺、外国語は得意なんだぜ〜? なのに、シュミットにまた負けたぁ〜」

 実は、ラルフはかなり頭がいい。と、いうか、要領がいいのだろう。学年で10番以内をキープしている。ただ、
テストをすっぽかしたために一年ダブりという憂き目にもあって居るが…、それは自業自得である。
 ちなみに、シュミットは万年学年主席であったが。
 エーリッヒは、ただ苦笑するしかなかった。「人間だれしも、得手不得手があるものですよ」…とか、この場合には意味の
ない慰めである。

「ラルフってば、まだ諦めてなかったんだ。シュミットに勝とうなんて、君じゃ一生かかっても無理だよ」

 ハワイアンブルーの瞳をラルフに向けて、ミハエルはさらりと言い切った。長い金の髪を、今日は後ろで
一つに纏めている。
 第10学年所属のこの少年も、あの学年では主席以外取ったことがない。こちらは、もっぱらその天武の才に
依るところが大きい。

 ミハエルはこのところ、この教室に遊びに来るのが日課となっている。
 博学で優しく、話していて飽きない相手に会いに来ているのである。

「キッツイなぁ、ミハエル」
「僕は真実を述べたまでだよ。っていうか、さっさとエーリッヒ離してくれない?」

 ミハエルはそう言うと、エーリッヒに抱き付いているラルフをひっぺがす。

「………お前、当初の目的忘れてるだろ…」

 ラルフは、一瞬向けられたミハエルからの視線に命の危険を感じつつ、ぼやいた。


 …シュミットとエーリッヒを、友人にしようとしている同士のハズなのに…。


 しかし、なんだかそれは叶いそうになくなってきた。
 なにしろ、数日前にミハエルに聴いたところによると、「シュミットにエーリッヒは勿体ないよ」…である。
 ラルフは、はふぅ、と絶望の溜め息をついた。

「ところでさ、エーリッヒは英語のテスト、どのくらいの点数取ったの?」

 好奇心から尋ねてみるミハエル。

「おー、そうだよ。エーリッヒ、何点なんだ?」

 彼は、ハンブルクにいたときは第2外国語として日本語と英語を習っていたという。ただ、この学校には日本語と
いう選択肢はなかったので、フランス語と英語を学習している。
 エーリッヒはにっこりと笑って、応えた。

「97点です」


 …一瞬、場の空気が凍ったのが判った。


「僕、言語系は得意なんですよ」

 言った瞬間、エーリッヒは強い視線を感じて首を右へと向けた。
 視線は、すぐに逸らされてしまった。
 だが、隣の少年の瞳に、驚きと悔しさと、…一欠片の興味を、エーリッヒは見た気がした。

 …勝ったかな。

 エーリッヒの口元に、自然に笑みが浮かんだ。

「どーしたの? エーリッヒ」

 エーリッヒの表情に、ミハエルが首を傾げる。
 エーリッヒは、何でもありませんよ、と言った。
 ラルフは、そんなエーリッヒを見て、思う。

 …彼は変わった。一週間ほど前から。何があったかは判らないけれど、よそよそしい態度が、彼から消えたのだ。
今のエーリッヒは感情のままに笑う。以前の彼ならば表面上のみの対応だけで、極力避けていただろうミハエルや
ラルフとの会話にも、今は自然に付き合っている。ミハエルも、エーリッヒが優しくなったことに勘付いていて、だから
彼のことをとても気に入っているのだろう。
 そして、その変化を起こさせたのが、おそらくシュミットであろうことにも、ラルフは気付いていた。
 それは、なんだかとても嬉しいことで。
 ひょっとしたら、どこかでシュミットも変わっているのかもしれない。

 ……っていうか、最近のエーリッヒは非常に…可愛い…。

「なぁなぁ、エーリッヒ」

 ラルフは、シュミットに英語の小テストで負けたという辛い過去を軽く吹っ切った。

「はい?」
「勝負しない?」
「勝負ぅ???」

 怪訝な声を出したのは、ミハエルだった。ラルフの明るい声に、なんだか嫌な予感を感じたのかもしれない。

「そ、勝負。今度の期末テストでさ。得意科目で負けたままで引き下がるなんて、このラルフ様のプライドが許さない」
「もともとあるかないかも分かんないよーなプライドじゃない」

 呆れ声で、ミハエルは言った。
 ラルフは、その声を無視する。

「良いですけれど…」

 エーリッヒは笑いながら承諾する。
 ラルフは嬉しそうに、エーリッヒの手を両手で握った。
 ミハエルがムッとした顔をする。

「あ、あの……ラルフ?」
「それでさ、この勝負で俺が勝ったら、夏休み中、俺とデートしてくれない?」


 ………は?


「はぁぁぁぁっ?! ちょっと、何勝手なこと言ってるのさラルフ!!!!」
「あーもーミハエルは黙ってろって。エーリッヒがOKしてくれたらいいだろ?」
「僕が許さないよそんなの!!」

 ぎゃーぎゃーと目の前で言い合いを始めた二人を見ながら、エーリッヒは困ったように呟いた。

「……僕、男なんですけど」

 それを聞きつけて、ラルフはくるりとエーリッヒに向き直る。

「俺、そーゆーこと気にしないよ? それに、エーリッヒくらい綺麗だったら、きっと誰だってデートしたいって思うし」
「そ、そんなこと無いですよ…」

 ラルフの科白に、エーリッヒは微かに頬を染めた。

(あー! 何か本気でコイツ可愛いなぁ…!)

 ごづ。

 エーリッヒに思いきり抱き付きたい衝動に駆られたラルフの後頭部を、何かが直撃した。

「…っ…」

 ラルフはそのままその場に沈む。

「…シューマッハさん…?」

 右腕で頬杖をつき、黙々と参考書を読んでいるシュミットの左手には、厚さ約2cmの電子辞書が装備されていた。
おそらく、その角でラルフを撲り倒したのだろう。

「攻撃的だねぇ、シュミット」

 すっきりしたvとでも言いたげに、ミハエルがシュミットに声を掛ける。
 シュミットはそれには返事をせず、辞書を机の上に置いた。

「……シュミット…」

 ゆらり、とラルフが立ち上がる。

「何するんだお前!!! 俺に何の恨みがある?!」
「煩い。私の傍で虫酸の走るようなことをほざく貴様が悪い」

 シュミットは、ラルフの方を見ても居ない。

「さてはアレだな、お前?! お前もエーリッヒとデートしたいんだろ!! だから素直な俺に嫉妬してこんな酷いことを
したんだな?!」
「勝手なことを言うな!!!」

 がづっ。

 今度は、頭頂に電子辞書が振り下ろされる。
 ラルフは再びノックダウンした。

「我が民族の恥が」
「シュミット、それの使い方間違ってるよ?」

 けらけら笑いながら、ミハエルはシュミットも当然知っているであろうことを注意した。

 …くすくす。

「え?」

 押し殺したような笑い声に、ミハエルはエーリッヒの方を向いた。
 笑ってはラルフに失礼だし気の毒だと思うのだろう、必死に笑いを抑えようとしているのだが、3人の漫才が面白くて
仕方がない。そういった様子で、エーリッヒは笑っていた。

「す、すみませ…っふふふ…あはは…」

 そんな風に、楽しそうに、心底可笑しそうに笑うエーリッヒを見たことがなかったミハエルは、しばし呆然とその笑顔に見入った。
 そうして、その笑顔に見入っているのはミハエルだけではなかった。
 シュミットもまた、その青い双眸をエーリッヒに向けていた。
 ふと、その視線に気付いたエーリッヒが、顔をあげる。
 シュミットはぎくりとしたが、視線を逸らすタイミングを逸してしまった。
 エーリッヒは、シュミットに向けて--------柔らかく、微笑んだ。
 ほんの一週間前の彼にはけして出来なかったであろう、綺麗な顔で。

 一瞬。
 教室の、休み時間の喧騒が消えて。
 外界の騒音の全てが消えて。
 心臓が、一つ。
 大きく鳴ったのが、ひどく耳に付いた。

 エーリッヒは何事もなかったかのように、視線を、床に伸びているラルフに向けた。

「ラルフ、大丈夫ですか?」
「……だいぢょうぶじゃない…。エーリッヒ、優しく看病してくれ…って、うを!!!?」

 ラルフは、野生の感で、ミハエルのケリをかわした。

「ちぇっ。はずしちゃった☆」
「はずしちゃった☆ じゃねぇ!! 本気で狙っただろ、ミハエル!!」
「まさかぁ」

 ラルフを駆除しようとしているというよりは、ラルフの大袈裟な反応を楽しんでいる節のあるミハエル。
 それに気が付いて、エーリッヒは楽しそうに口を開いた。

「ラルフ。良いですよ。その勝負、受けます」
「マジで!? 約束だぞ、エーリッヒ!」

 がばっ、とエーリッヒを押し倒す勢いで肩を掴むラルフ。

「は、はい」

 その勢いに圧倒されながら、エーリッヒは頷いた。

「ちょっ、まちなよエーリッヒ! 危険だよ!!」

 ミハエルが慌てて口を挟む。もしも二人きりという状況になれば、ラルフはエーリッヒを襲いかねない。ラルフは、
本気でそういう見境はない男だから。

「勝負はやってみなければ判りませんから。勝てるように、頑張ります」

 笑顔で言い切って、エーリッヒはシュミットに声を掛けた。

「…シューマッハさんも、参加しませんか?」
「…なに?」

 眉を寄せて、シュミットは参考書に戻していた視線をエーリッヒに向けた。

「今度の期末テストの点で、勝負するんです」

 ルールを聴いていたであろうシュミットに、エーリッヒは説明を繰り返す。
 それから、エーリッヒはブルーグレイの瞳でシュミットを映した。


「それでもし、僕が勝ったら、僕を貴方の友達にして下さい」


 ミハエルとラルフが、一瞬、動きを止めた。
 それは、ミハエルが、ラルフが、本当に望んでいたことではなかったか。

「私に勝つつもりでいるのか?」

 シュミットは鼻で笑って、視線をエーリッヒから外す。

「勝負は終わるまで判りません」
「私が負けるはずがない」

 きっぱりと、シュミットは言いきった。

「そんなことないです。決定した未来なんて、ないんですから」

 多少ムッとしたのか、エーリッヒはすかさず反論した。

「結果の分かる試合というものはあるだろう。今のがまさにそれだ」
「そんなことないです。実際今………」

 そこで、エーリッヒはふと、何かを思いついたように口を噤んだ。
 その目に、無邪気な子供の、悪戯を思いついたような光が宿る。

「…そんなに言うなら、シューマッハさん。全ての教科で、僕に勝って下さい。数学も化学も、物理もドイツ語も。
 ……英語も、です」
「……っ!」
 
 シュミットはけして、英語が苦手なわけではない。
 だが、さっきの小テストの結果を聞いた限りでは、英語はエーリッヒの方に利があるのは明白だ。勝算がないわけ
ではないが、それは今までやってきたさまざまな賭事的なものの中でも、最も確率が低そうだった。
 シュミットの脳裏を、90という、さっきの小テストの結果を示す数字がよぎった。
 エーリッヒは、楽しそうに笑っている。卑屈ともとれた以前の彼の姿は、そこには欠片もなかった。

「シュミット、どうするの? 受ける? それとも、逃げる?」

 好奇心を引かれたミハエルも、シュミットの顔を覗き込む。
 シュミットは眉間に皺を寄せていた。

「…………」
「へぇ。シュミットでも後込みする時ってあるんだな」

 珍しいものを見た、とでもいうように、ラルフが目を丸くしている。
 冷やかすように、又、ミハエルが口を開いた。

「逃げるんだ? シュミット」
「誰が…!!」
「じゃ、受けるんだね」
「違……!」
「わーい、面白くなってきたv 頑張ってね、エーリッヒ!」

 さくさくっと話をまとめると、ミハエルはぴょんと椅子から立ち上がり、パタパタと駆けていった。もう、小休憩が終わる時間だ。

「…受けるんだ、シュミット」

 ミハエルの足音が喧騒の中に紛れてから、ラルフがぽつりと呟いた。

「………」

 まさか前言を撤回するわけにもいかず、シュミットは気むずかしい顔で参考書の方に視線を戻す。
 始業開始の、ベルが鳴った。
 がたりがたりと生徒達が席に着く。
 その雑音の中で、エーリッヒは前を向いたまま、シュミットに言葉を向けた。

「…シューマッハさん。勝負は、僕とラルフと、貴方との、個人のものです。民族も家柄も関係ない。それぞれの、
一個の人間としての勝負です」
「…ああ」


 ……ああ、判っているさ。点数社会の中の優劣などで、人の価値など計れるものではないことくらい……。



 不規則に歪んだ世界に生きてきた。
 だから、歪んだ世界が正しいのだと思ってた。
 どこかで、疑問を抱きつつも。

                                                     続く。


 エーリッヒFANであることを全面的にアピールしてみました。



モドル