正しい答えなんて、どこにもない。
誰も、教えてくれない。
でも、君を思うと。
この胸は、痛みを、抱きしめる。
…それだけは、真実。
Life is…
「うっわー遅刻だ遅刻〜〜!!!」
「待ってくださいゴー、お弁当を!」
どたどたどた、と階段を駆け下りる足音に、玄関で追いすがる。
「おう、わりぃなエーリッヒ、じゃあ行って来るぜ!!」
小学生の頃と変わりない笑顔を見せて、
豪はドアを蹴破る勢いで走り出していった。
エーリッヒは微苦笑を漏らす。
「まったくいくつになっても騒々しい子だねぇ」
奥から出てきた星馬良江が眉を八の字にして呟く。
エプロンの前で、濡れた手を拭くその仕草がいかにも母親っぽくて、
エーリッヒは柔らかな笑みを漏らした。
「でも、ゴーはいつも元気で楽しそうで…、あんな弟がいたらな、と思いますよ」
「やめときなよ、エーリッヒ君」
朝食を食べ終えた烈が、鞄を小脇に抱えて奥の部屋から姿を現す。
「あんなのがいたって、うるさいだけなんだから」
豪の兄、という立場になってからこっち掛けられてきた
苦労を思い出しながら、烈は短い溜め息をつく。
エーリッヒは笑顔のまま、目を細めた。
弟を見る兄のような視線だと、烈は思った。
「でも、ゴーがいなくなったら、きっとレツは寂しくて仕方なくなりますよ」
「…かもね」
そっけなく答え、烈はエーリッヒに、そろそろ僕らも行こう、と言った。
エーリッヒは来日してすぐに、
日本にいる間世話になるホスト・ファミリーの家へと足を運んだ。
挨拶もしておきたかったし、
これから一年少し世話になる人々の顔を見ておきたかったからだ。
出発の直前に突如変更になった家の住所へ行ってみると、
表札には「星馬」の文字。
見覚えのある、しかもそうめったにはない苗字に、
微かな期待を覚えながら呼び鈴を鳴らした。
最初に出迎えてくれたのはこの家の母親、星馬良江で、
テレビやレース会場で何度か見たことのあるエーリッヒのことを、
どこで見たのか思い出すのに暫くかかっていた。
少しすると、玄関先で悩んでいるらしい母をいぶかしんだのか、
烈が二階の自室から降りてきて、エーリッヒの姿を認めた。
随分と身長が伸びて大人びてはいるが、
全体的な可愛らしい少年の面影は変わっておらず、
エーリッヒは嬉しくて笑ってしまった。
驚かされたのは豪の方の姿だった。
すっかり逞しく成長していて、今では烈よりも身長が高いと言う。
エーリッヒとも肩を並べるくらいなので、ここ数年の成長振りが伺えるというものだ。
意外と早かったね、という烈の言葉に、
自分が来ると解っていたのかと尋ねてみると、
つい最近懐かしい人から電話があったのだという。
エーリッヒが日本で通うはずの老人介護施設の近くに、
偶然星馬家があると突き止め、わざわざ烈に「エーリッヒのことよろしくね☆」
などと電話をかけてくる人物に、エーリッヒは一人しか心当たりが無かった。
金の髪を優雅になびかせながらこっちに向かって微笑み、
手を振っているミハエルの姿が簡単に想像できて、
エーリッヒは苦笑した。
星馬家では、エーリッヒは烈や豪のお弁当作りを担当していた。
早めに帰れる日は夕食も作るが、ドイツにいた頃の早起きの習慣が抜けないのだ。
ドイツに比べて始業が遅く終業も遅い日本の生活習慣に、
エーリッヒは半年経った今も完全には馴染めていなかった。
昔はどうやって生活していたんだろうと12歳の頃の自分を振り返ってみるが、
子供は環境適応能力が強いのだ、というほどにしか原因を見つけることは出来なかった。
烈の隣を歩きながら、エーリッヒはふ、と溜め息を吐いた。
煩雑な日本の中で暮らしながら、
シュミットのことを考える時間をなるべく作らないようにしてきた。
だが、家族への手紙を書いているときや祖国を思い出すとき、
彼は必ず、未だにエーリッヒの中に大きく存在していることを教えてきた。
町に買い物に出たとき、商店街を歩くとき、
無意識に目がシュミット好みの店に留まる。
それはエーリッヒがシュミットを引きずっている証拠で、
自分から切り出した別れのクセに、とその度に自嘲した。
「ときどき、昔の夢を見るんだ」
突然、烈が口を開いた。
エーリッヒは視線を烈の方に向ける。
「昔、ですか?」
「そう、昔の。ソニックと走ってた頃の夢を見るんだ。
豪とかリョウ君とか、藤吉君とかブレット君、
ミハエル君とかカルロ君たちと走ってた頃の夢。
みんな早くて、でもソニックも早くて。
どきどきしながらマシンを追い駆けてるんだ」
「…はぁ」
嬉しそうに話す烈の真意が図りかねて、エーリッヒは曖昧な相槌を打つ。
エーリッヒの反応にはあまり構わず、烈は言葉を続けた。
「そういう夢を見て起きたら必ず…ね、
ソニックのメンテしちゃうんだ」
大人には下らなく見えていたかもしれない。
でも、両親は烈たちが夢中になれることに対してけして否定的になることはなかった。
ミニ四駆にばかり囚われて勉強をしていなかった豪にさえ、
ミニ四駆をやめろと言った姿を見たことがない。
むしろ、ミニ四駆を止めようとしたときに、
続けろと背中を押してくれたのは親だった。
その結果、どれだけ自由にのびのびと育って来ただろう。
今は違う高校へ行っている弟の、
自由奔放な成長振りを思い出し、烈はますます口元を綻ばせた。
「だから、今でも速いよ、僕のソニック」
今でも机の中に大切にしまってある。
あの頃の宝物。一番の親友。
「あの頃はただ思うままにミニ四駆を走らせて、
なんにも悩みなんてなくてさ。
びっくりするくらい楽しくて、一日一日が本当に短かった」
覚えてる? と尋ねられて、エーリッヒはただ頷いた。
忘れられるはずがなかった。
ミニ四駆を始めたこと、アイゼンヴォルフに入ったこと、
ドイツトーナメントで優勝したこと、WGPでひさしぶりに
敗北の味を思い出したこと。色あせることのない思い出が次々に
胸に去来する。そうしてその思い出の中には、
切り離せないあの人が笑っていて、微かにエーリッヒは顔を顰めた。
じっとエーリッヒの顔を見ていた烈は、ふいと視線を前方に向けた。
「今のエーリッヒ君、初めて会った時みたいな顔してるね」
「…え?」
「何かにぴりぴりしてて。…何か大切なものを、忘れてきたみたいな顔」
初めて会った時。
最も信頼を寄せる人たちから離れて、
精神的に独りでこの国の大地を踏んだあの頃。
本国にいる仲間たちへの期待に応えなければならないという
プレッシャーと、早く彼らに会いたいという気持ち。
半年間を二軍と一緒に乗り越えることが出来れば、
自分はレーサーとして成長できると思った。
だから、期待もあったのだ。
だが、実際に経験した5ヶ月は辛くて寂しくて、
気丈に振舞ってはいたがいつも不安に押しつぶされそうで
泣きそうだったのを覚えている。
自分は、そんな顔を、今もしているというのだろうか?
「…誰を待ってるの? 今度は、誰が来てくれるの?」
「誰も、」
口を開いて、エーリッヒはその言葉の続きを打ち消すように首を振った。
ふと脚を止め、空を仰ぐ。
何処までも晴れ渡った空の下で、今も殺し合いは行われているのだ。
兵役に行かなかったはずの彼は、戦争の張本国のひとつにいる。
「…この国は、平和ですね」
「…そうだね」
烈は相槌を打ってそのまま足を進めた。
それは普段の烈らしかぬ行動で、
エーリッヒは少し早足になって烈に追いつき、
機嫌を伺うように彼の顔を覗き込む。
烈は無表情だった。
「平和だよ。平和すぎて、僕らは、他人の痛みに鈍くなった。
テレビで貧しい国の子供とかを見て、可哀想だって涙を流してもね、
チャンネルを変えたら次の瞬間には笑ってるんだよ。
それが、この国。日本という国の、現在の姿。
勿論そうじゃない人もいる。でも、大多数の人の心は、
チャンネル一つで切り替わっちゃうんだよ。
日めくりカレンダーを千切ったら、日付と一緒に変わっちゃうんだよ」
「この国だけじゃないですよ」
エーリッヒの言葉に、今度は烈が首を振った。
「朝、ニュースを見るよね。毎日嫌なニュースばかりだ。
この国の人は、ほとんどがもう人間じゃなくなってる。簡単に隣人を殺せるし、
簡単にそれを忘れることができる。戦争をしないことを誓ったのに、
海外にまで人を殺しに行こうとしてる。この国の頭は、もう狂っちゃってるんだ」
烈は瞳を閉じたまま、顔を上向けた。
「…僕も、同じ。間違いなくこの国の国民だよ。
どんなに同情できても、本当にその人の気持ちが解るわけじゃない。
実感するよ。所詮人は、自分に起こったことしか現実として見られないんだって」
「レツ。それは、貴方だけではありません。僕だって…」
それでもね。
エーリッヒの言葉を再び遮って、烈は言った。
今までとは打って変わった笑顔は、
良い意味で「諦めた」者の表情だったのかもしれない。
朝日の中の笑顔がまぶしくて、エーリッヒは目をそむけた。
「僕は、それを悪いことだとは思えないんだ。
確かに、共鳴することは大切だし、国際協力だって必要なのは知ってる。
でも、…でも、エーリッヒ君はそれが少し過ぎると思う。
君は自分の力を、きっと過信してる。
ちっぽけな一人の人間が出来ることを、もっと思い知るべきだ。
…だけどきっと、このことに、気づいてるよね。違う?」
地面を見つめていたエーリッヒは、ふ、と息を漏らすように唇を歪めた。
「…貴方は、本当にミハエルに似ていますね」
皮肉ではなく、本心からそう思った。
最初からそうであった訳ではないが、自分たちと付き合っていくうち、
ミハエルは人の心を見抜く事が得意になった。
鋭く心中を察し、柔らかい部分をざくりと串刺しにする鋭い言葉と、
帝王のごとき燦然とした笑顔。
それらのものは、烈にもそのまま当てはまる。
どこにでも、いるのだ。
人が「カリスマ」と呼ぶ強いリーダー的性質を兼ね備えた人物が。
自分が誇るべき、従うべきリーダーだと、
また弟のようにも思っていた金髪の少年を思い出しながら、
エーリッヒは顔を上げた。
「それでも誰かが諦めなければ、世界は上手に回りません。
僕は僕以外の“誰か”に諦めてほしくなかったから、
自分でこの選択肢を選んだんです。
これが最善の方法だと、…自分のエゴで」
狂い始めた地球のスピードを、正常に戻せるのは。
日本からドイツへと飛び立った飛行機は、
途中で巻き込まれた乱気流の影響で、
4時間遅れでテーゲル国際空港へと到着した。
溜め息を吐いて時計を見ると、
午前1時を指していた。ここから飛行機を乗り換え、
ハンブルク空港へと帰るつもりだったのだが、
この時間ではもう最終便は出発してしまっている。
適当なところに泊まるしかないか、
と思いながら大きなトランクと手荷物を下げ、
空港の廊下を早足に歩く。
エントランスに靴音を響かせたとき、
エーリッヒはそのベンチに、よく見知った顔を発見して息を止めた。
ゆっくりと自分の方を向いた紫の視線。
「…遅かったな」
ぎくりとして大荷物を抱えたまま固まってしまったエーリッヒに、
シュミットは立ち上がってつかつかと歩み寄った。
いつの間にか同じくらいの目線になった彼の瞳を正面から睨み付ける。
そして、エーリッヒが視線を逸らそうとしたその瞬間に抱きしめた。
荷物が、重い音を立てて空港のロビーに落ちた。
「……!」
「…離れている間、いろいろ考えた。
お前のこと、将来のこと、自分のこと。
でも、何を考えても帰着するのはお前のことだ」
時間帯がら数は少ないが、人々は友人同士の挨拶にしては
多少親密が過ぎる二人に少しだけ好奇の目を向けながら、
通り過ぎていく。その視線を意識することすら
今のエーリッヒには出来なくて、黙ってシュミットに抱かれていた。
予想もしていなかった状況に、頭が全くと言っていいほど働かない。
エーリッヒのそんな状態を知ってか知らずか、シュミットは言葉を続けた。
「私たちがもう子供じゃないのは解っている。
離れなければならないのかもしれない。
お前の選択が正しかったのかもしれない。
でも…」
エーリッヒの背に回した腕に、力を込める。
今はまだ、離したくない。
今は、まだ。
「…私は今も変わらずお前が好きだ。
だから、もう少しだけ…私と付き合え」
「…シュ、ミット…、」
ようやく我を取り戻し、それだけ口にすると、
エーリッヒはシュミットから離れようと身を捩った。
逃すまいと、シュミットは腕の力を緩めない。
エーリッヒは必死になって抵抗した。
すでに自分の居場所ではなくなったはずの居心地のいいそこから、
なんとか抜け出したくて。
未だにパニック状態の頭の中で、
尽きることのない疑問符がエーリッヒの口を開かせる。
「どうして、…どうしてここにいるんですか。
どうして、そんなことが言えるんですか。
僕は貴方から逃げたのに。
貴方の命令に、2度までも逆らったのに」
「…ああ、」
自分の問いに答えてくれるのかと、エーリッヒは身構えたが、
シュミットから聞こえた言葉は期待していたものとは大分と違っていた。
「近くのホテルに、部屋を取ってある。
明日の朝一番の便で出発するんだから、
早めに帰って眠った方が懸命だな」
言うが早いか、エーリッヒの腕を掴み、
荷物を拾い上げて早足に空港を出る。
ひやりと冷たい夜の空気が頬の辺りで渦巻いた。
アイゼンヴォルフ宿舎の廊下を不機嫌に歩いていた時と同じように、
シュミットの歩速はエーリッヒにとって少し早い。
躓かないように足を動かしながら、
どういうつもりですか、と尋ねた。
隙あらば腕を取り返して逃げようと、
力を込めているエーリッヒの様子に、
シュミットは口元に薄く笑みを浮かべた。
「誘拐するのさ、お前を、この国から」
「……は、っ?」
エーリッヒは息を詰める。
帰国早々立て続けに自分を襲う出来事の一つ一つが、
エーリッヒの埒外だった。
シュミットは歩といっしょに、話を進める。
「私はあと3年はあの国から動けないからな。
心配するな、お前の家族には話をつけてあるし、
向こうの大学への編入手続きもすべて済ませてある」
「ちょ…っと、待ってください!」
後はお前の体一つ、あっちに持っていくだけだ、
と一方的に続けるシュミットを、
エーリッヒは声を多少荒げることで何とか遮った。
「何を考えているんですか?
こんな、僕のことを勝手に決めて…」
「離さないと言ったはずだ」
シュミットは、突然立ち止まって振り向いた。
射抜くように見つめてくる紫の瞳はぞくりとするほどに真剣で、
エーリッヒは口を噤む。
「お前のあるべき場所は、私の傍らのはずだ。
それ以外の居場所など、私が奪い去ってやる」
掴んだ腕に、シュミットは力を込める。
痛みに、エーリッヒは微かに顔を顰めた。
「…私はお前のように嘘つきにはなれない。
自分の言ったことを嘘にする気もなければ、
自分の気持ちに嘘を吐くのもごめんだ」
だから、すべてを本当にする。
離れたくないから離さない。
「お前の望む世界をつくることなど、私にも、
世界のどんな人間にも不可能だ。私たちの世界は
自分を中心にしか回らないのだから」
戦いを世界からなくすことなど、この世界を国、言語、
宗教、政治的・生活的・思想、精神、身分、文化等すべてにおいて
統一しない限りは不可能だ。差異は分化を
進めて上下を作り、上下は嫉みから不満を生む。
小さな戦争はどこでも、いつでも起こっている。
エゴイスティックな人間たちのために作られた
社会と言う名の箱庭の中で、
なにかを殺さないで生きていくことなどできない。
「だからあえてお前に、問う、エーリッヒ。
人に、人を不幸にする権利などあるのか?」
お前に、私を不幸にする権利などあるのか?
世界を盾にして、シュミットは逃げられないようにエーリッヒを囲う。
シュミットはエーリッヒを引き寄せようとする。
彼の足がその場を動かないのを悟ると、自分から、近づく。
ゆっくりと、距離を埋めていく。
自分の世界を支配しうるものは、自分しかいない。
…たった一人、離れることを許されないこの人以外には。
「…貴方はどこまで、神を冒涜すれば気が済むのですか」
唇が触れ合う瞬間に零れた溜息は、
誰かを凍てつかせるには余りにも温かくて。
<了>
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