カーテンを通して差し込む陽光の眩しさで、深い海から泳ぎ出す。
目を細く開けて、そこが自分の部屋であることを確認した。
真隣に横たわる、白い裸体。一枚のシーツを僕と共有して、安眠を貪る。僕の唇が、数度動く。そうしてやはりつぐみ、
自分と親友の愚かさ加減を嘲笑(わら)う。何度僕を抱いたところで、シュミットは僕の何一つだって得ることは出来ず。
何度親友と交わったところで、僕はあの人の何一つだって知ることはできない。ただ、悪戯に胸の傷を深く抉っていくだけ。
それでも僕は、シュミットの要求に従う。痛いのは僕だけではないから。
壊れたふりをして。傷ついてなどいないふりをして。肉欲だけを求めるふりをして。
誰を騙せているというのか。誰を楽にしているというのか。自分の吐いた嘘で、自分自身さえ
救うことなど出来ないというのに。
愚かな。
苦笑。僕はあの人に抱かれてから、だれかの腕の中以外では泣かなくなった。薄く冷たい微笑を、
表面に張りつけることを学んだ。彼が、弱さと妥協を嫌ったから。強いふり、何をされても平気なふりさえ
すれば、性欲処理の道具としてでも、あの人は僕を抱き続ける。あの人が抱くのは僕だけではないと、
知ってはいるけれど。あの人には、僕の代わりなど吐いて捨てるほど居る。それでもあの人に求められたくて、
親友と肌を重ねた。前から欲しいと思っていた、玩具になりたくて。独占できないものになりたくて。唯一
恐かったのは、シュミットが僕らの関係を破壊することだったけれど、そんなこともなかった。
シュミットの腕が動いた。緩慢な動作から、突然、彼の腕が僕の躰を抱き込んだ。
「シュミッ…!?」
叫びそうになって声を殺す。どうやら、寝呆けての所業らしい。相変わらずの穏やかなシュミットの寝顔に、
今の、この状態が都合の好い夢なのではないかと疑う。密着した肌から、彼の鼓動が伝わってくる。
都合の好い夢。
もしも、僕が愛したのがシュミットだったら。誰も傷つかずに済んだのかもしれない。
もしもの嫌いなシュミットが聞いたら、怒りそうだけれど。
柔らかくて優しい、親友の匂いは、あの人とは全然違う。あの人からは、いつでも煙草と女物の香水の
匂いがした。二つの刺激臭は交じりあって彼の匂いになっていた。僕は、その匂いが嫌いではなかった。
あの人が、他の誰かと繋がっているという証明のような、その匂い。
それでも、香水の匂いがいつでも
違っていることに安心できた。誰も、彼を独占出来はしないのだと。
そんなのは、脆くて甘い幻想だと知りながら。
「んっ…、エーリッヒ…?」
微かに身じろぎをして、親友の長い睫毛が揺れた。アメジストの様な、深い紫の瞳が、焦点を結ばずに僕に向けられる。
「おはようございます」
いつもの通りの、朝の挨拶。シュミットは柔らかい笑みを浮かべて、おはよう、と言った。まだ、夢の国に
いるみたいな表情だった。
美しいと形容される他ないような、彼の端正な顔には、赤黒い痣があった。顔だけじゃない。腹部や腕にも。
それは、シュミットがあの人 と喧嘩をしたために付いた疵だった。昨日、シュミットと同じように傷ついて帰って
きたあの人は、僕がひどく憎いような顔をして、力任せに僕を抱いた。そのくせ、僕が痣に唇を寄せたって何も
言わず。何かから逃げるように、僕とは視線を合わせなかった。あるいは、わざと隠さずにおいた、シュミットの
印を見たくなかったのかもしれない。こんなのは、あまりにもお目出たい妄想だって、知っているけれど。そう思
っていれば、少なくとも僕の存在意義が確信できる。
「…エーリッヒ」
甘えるような、眠たげな声。シュミットは僕を抱き寄せて
、唇を重ねた。優しく、触れるだけのキス。慈しむような、暖かい唇。
僕とあの人は、キスをしたことがない。正しく言えば、唇を重ねたことがない。それはわざとなのか、そうではないのか。
そんなことを考えるのさえ馬鹿らしい関係だから、考えはしなかったけれど。
…嘘。何度、唇に触れてほしいと願ったか判らない。壊れるほど乱暴にでいい、愛されていると錯覚させてくれる、
キスが欲しかった。
あの人が僕の唇に触れたのはたった一度。初めての時、強姦された時。あの人の手で口を塞がれた、その一回きり。
彼の頭越しに、時計が見える。充分、眠りすぎな時間。
シュミットの唇が離れてから、僕は身を起こした。裸の胸から、シーツが滑り落ちる。
床に足をつこうとして、腕を掴まれた。
「シュミット?」
離せと言うように睨む。幼なじみは時計を見ようともせず、行くなと、擦れたような声で言った。
…また、その声を出すのか。
それは、あまりにも弱々しい命令であり、高かったはずのプライドを捨てた哀願だった。
昨日、いや、正確には今日。シュミットに抱かれる気などなかった。あの人を傷つけた憎むべき親友に、
この躰を好きにされる 気などなかった。
でも、シュミットに震える声で言われたとき。これからも親友でと言われたとき。
僕は、この人を哀れだと思った。
親友のキスを拒むことが出来なかったのは、あの人がそれを望んだからではなく。
自分から均衡を崩しておきながら、修復を求めるその姿が、余りにも脆弱で可哀相で。不可能と知りながら
手を伸ばす、その姿が余りにも僕に似ていて。
僕が哀れんだのは、誰だった?
「シュミット。起きないと、遅刻しますよ」
関係を持つ前と変わらない、僕の台詞。
シュミットは、僕の腕を引いた。バランスを崩して、
僕はシュミットの上に倒れた。
親友の紫の瞳は、嘲笑と憧憬と、侮蔑と愛欲と、絶望と切望とに彩られていた。
「シュミット」
子供のした悪戯を、咎めるような声。
シュミットはゆっくりと、長い指で僕の躰をなぞった。ぞくりと、背筋を走る嫌悪感と快感。
シュミットを睨む。
「止めてください。学校に遅刻します」
「やめてください?」
急に、シュミットは冷たい笑みを浮かべた。指が、滑る。ベッドの上から逃れようと動く前に、掴まれていた腕が、
捻り上げられる。喉から、小さな悲鳴が上がった。うつぶせにベッドに組み敷かれ
て、躰に人の重みと、体温を感じた。
「相手があの男でも、お前は止めろと言うのか?」
「シュミット…!」
腕が締められて、痛みで僕は呻く。
「あの男になら、なにもかも許すんだろう? それは何故だ? どうして抱かれた? お前は、あの男の何処にひかれたんだ?」
矢継ぎ早の質問。
僕は、まだ暖かいシーツに頬を擦り付けた。
「何故、私では駄目なんだ!」
…哀れな。
可哀相な、人…。
性的な蹂躙という屈辱を受けたとしても。
僕が傍にいたいと思ったのは。
そうして、哀れだと思ったのは。
「…あの人は、僕が居なくてもなんでも出来るんです。一人で何でも出来るんです。誰の存在も、彼は許さない。
僕の存在な ど、取るに足らないモノなんです。そして、僕にとってのあの人も」
さぁ、綺麗に。
「だから、僕達はいつでも別れられる」
華麗に。
「後腐れも何もない。ナマでしても、子供が出来ることもない」
自分を。
「だから、お互いを性欲処理の相手に選んだ。ただ、それだけの関係ですよ」
騙せ。
「嘘だ」
シュミットは、僕の言葉を、一刀の下に切り捨てた。どうして。この言葉は、彼にとっても救いとなるはずなのに。
「エーリッヒ。悲しい嘘を吐くのは止めろ」
相変わらず僕を押さえ付けたまま、シュミットは言った。
いつかのような、僕を押さえつけているくせになにかに押さえつけられているような、苦しげな声だった。
「嘘?嘘を吐いて、どうなるっていうんです?よしんば嘘だったとして、真実を語ることが僕に何をもたらすっていうんです?」
腕の感覚は、もう無くなっていた。僕は、白いシーツの波を見つめながら、喋り続けた。
「貴方にとって、僕の言葉が何になるって言うんですか? 何を聞いたとしても、貴方も僕も何一つ変わらない。
たったひとつ、はっきりしているのは、僕は誰のモノにもならないということだけですよ」
そう、僕は誰のものにもならない。
僕自身でさえ自由に出来ないもので、僕はできている。
「なら、お前は」
背後から、声が降って来る。
「あいつと離れても、大丈夫だと言うのか」
「ええ」
速答。きっと、間違ってはいない。
シュミットが、急に僕の腕を解放した。不審に思う間もなく、躰を反転される。
目の前に、アメジストが濡れ光っていた。
愛してる。
シュミットはそう言って、深く唇を合わせてきた。
貪るような、それでも優しいキスの後、僕はシュミットの首に腕を回した。シュミットは驚いたように、僕を見つめる。
僕は、冷たく笑ってみせた。
「ありがとうございます、シュミット」
なるべく綺麗に、笑いたいと思った。
「でも、僕は貴方じゃ満足できないんです」
僕らは堕落への道を辿ることしか知らないから。
→続く。
他人の気持ちを完全に把握するなんて、カミサマ以外の誰に出来るって言うんだろう。
モドル