あの男とエーリッヒの間に、何があったかは知らない。
 私には、知りようのないことだ。
 だが、あの二人の関係に何か変化が起きたことは、判る。
 なにしろ私の知る限り、ここ数週間。二人の間に、接触はほとんどなかった。
 レースで顔を合わせたとしても、宿舎の廊下ですれ違ったとしても。
 今までは、そんなことは有り得なかったのに、エーリッヒはまるで、あの男を避けていた。
 そうしてどういう訳かあの男も、エーリッヒと目をあわせようともしない。
 それは、……私の望んでいた事のはずだった。
 だが、このところのエーリッヒは。
 見ていられないほどに、衰弱していた。
 自分を虐めるかのように、仕事を詰め込み、睡眠時間を削って、食事も殆ど採らず。
 それでリーダーに怒られても、あいつは淋しそうに笑いながら、済みません、と。
 口先のみの謝罪を紡ぐ。
 まるで、悪びれなく罪を犯した者のように。恐怖も無く断罪を待つ者のように。

「エーリッヒ」

 自分のノートパソコンに向かって、データ処理をしている背中に声をかけた。
 エーリッヒは振り返りはしなかった。

「なんですか?」
「いい加減にしておけ。体を壊す」
「…こんな、体など」

 自分を嘲笑する声が聞こえた。
 こいつは、…壊すつもりで自分の身体を酷使している。

「あいつと何があったか知らないが、自棄になるな!」

 エーリッヒの肩を掴む。
 振り返った青い瞳は、最後の一欠片の光を失っていた。
 乾いた唇が、私のそれに押しつけられる。
 エーリッヒは、嗤った。
 重ねた唇は、氷のように冷たく感じた。

「…貴方が望むなら、休みましょう。貴方が望むなら、抱いてもいい」

 だから、僕を放っておいて。
 エーリッヒの声が、聞こえたのは幻聴か。
 いきなりパソコンの電源を落として、エーリッヒはベッドに移動した。
 どさりと横になって、天井を見つめたまま、エーリッヒは口元に笑みを浮かべた。

「…何があったか、教えましょうか、シュミット?」
「知っておいて欲しいと思うなら、言えばいい」

 エーリッヒは口を開いた。

「嫌われたんです」

 ………なに?

「あの人に。実質的にフラレたんですよ」

 莫迦な。

「ね、単純でしょう?」

 トランプタワーが崩れるのと同じ。
 エーリッヒはおそらく、そう呟いた。
 私はエーリッヒのベッドに登り、その目の中に映りこんだ。
 青い目が細められ、閉じられる。
 何をされても抗わない。それは諦観からくる服従の仕草。そして脅迫の意図を持った媚態。
 だけれど私には、こんなエーリッヒを抱く気など起こらない。
 あの男を思い続けて、私と肌を重ねながらもあの男の幻想に抱かれていたエーリッヒには、
あんなに背徳的な情欲が沸き起こったというのに。
 この褐色の肌が誰のものでもなくなった途端に、彼に対する興味すら失うなどと。
 …まったく、私も良い趣味をしていたものだ。

「莫迦にするな」

 エーリッヒは目を開いた。
 私は彼を睥睨していた。
 逸らされた視線に混在するのは後悔と悲観と。
 寂寞。

「お前は嘘吐きだ。…お前はこの間、あの男と別れても平気だと私に言った。
 なのに、今のこのザマは何だ。どこが平気だ。ふざけるな」
「ふざけて? …ふざけて言えた事なら、どれだけ楽だったか」

 突然、エーリッヒはくつくつと笑い出した。
 だが、瞳には涙が溢れそうなほど溜まっていた。

「あれは僕の願望でした。そうなれればいいと思っていたんです。…あの人のように、
 あの人の荷物にならないように。あの人の気を、少しでも惹けるように」

 …、何も判っちゃいない。
 こいつは、あの男のことなど何も判っちゃいなかったんだ。
 ああ、それなら全部に納得がいく。
 どうしてこいつが私に抱かれたか。どうしてこいつが壊れたふりをしていたのか。
 パズルのピースが見つかった。握っていた最後の一欠を、エーリッヒが私に差し出したから。

「…私はお前を愛している。なのに、お前は残酷だ。どうして私から言わせようとする?」

 エーリッヒが、歪んだ醜い表情を向けた。
 やっと人間らしいエーリッヒの顔を見ることができた。

「お前はあの男が、どんな眼でお前を見ていたか知らないのか? あいつの目が、私と同じだと
 気づかなかったのか?」

 どうして、私が。
 お前を、ほかの男のものにするような言葉を。

「あいつがお前を捨てられるはずがない。あいつがお前を嫌うはずがない」

 …答えは簡単だ。
 やっぱりエーリッヒは、あの男を想っているときが一番綺麗だから。
 心に混沌を抱いたままのエーリッヒなどに、魅力を感じないから。
 いつか、あの男に向いている視線を私に向けさせる自信があるから。

「あの男の、カルロの視線は、お前だけにしか向いていなかったんだからな!」

 大きく見開かれた目から、涙が一滴零れた。
 私はエーリッヒに、触れるだけの優しいキスを一度だけ、した。

「…行っておいで、エーリッヒ。後はお前が決めることだ」




 …あの時お前を行かせなかったら。
 その手を離さなかったら。
 それでもお前は、あいつを好きになっただろうか。

                                                 →続く


 よっしゃ、繋がった!


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