十数日前に、猫を拾った。
 銀の髪に、ブルーグレイの瞳を持った、綺麗な仔猫だった。
 大雨の日。
 小さな体に打ち付けるように降る雨の中、その子は路地裏に倒れていた。
 普段なら、無視したかもしれない。捨て猫なんて、良くあるもの。拾ったって面倒を見きれるものじゃなし、だいたい、
雨ざらしになっているあんな仔猫、弱って数日のうちに死ぬだろうと思った。いや、すでに、死んでいるものかもしれない。
 それでも気になって、その場を動けずにいた。
 …生きていると判ったのは、その仔猫が、ゆっくりと身体を持ち上げたから。
 路地の外、十数メートル離れたところから観ている俺にも判るほどに、荒い息を吐き出しながら。
 右肩を路地の壁にもたせかけて、こっちに向かって、這いずるように歩きだした。
 濡れそぼったシャツの所々に、血が滲んでいた。
 裸足の足からも、血が出ているらしい。
 ほんの数歩歩いたところで、仔猫はまた、雨の中に倒れた。
 再び立ち上がろうと、伸ばした手は、なにものをも掴むことが出来ず。
 力尽きたように水たまりの中に落下していく腕を、掴んだのは何故だったのだろう。





「ご主人さまっ!」

 一人には大きすぎると常々思っていた家に帰ると、銀の髪を振って、尻尾をぴんと立てて、俺を出迎えに来る。
 首についた赤い首輪の大きな鈴が、りんりんと不快でない音を立てて。
 心から嬉しそうに。
 そんなに親切にしてやった覚えも、優しくしてやった覚えもないけれど。

「おかえりなさい」

 玄関まで走ってきて、ぴたりと足を止め、頭を下げる。
 きちんとなされた躾は、俺にとっては都合のいいものだった。何にしたって、手が掛からないからのがいい。

「…ただいま」

 言って、くしゃりと髪を混ぜてやれば、何よりも幸せそうに笑って-----。





 この世界で「猫」といえば、だいたいそれは、ペット用に改良されたヒト型の愛玩動物を指す。
 躾が楽で、言葉を話せるそれらの動物は、少数とはいえ、ちょっと裕福な家庭にならば子供の代わりに置かれて
いたりするほどには普及している。同じように「犬」型もいるが、それは、「猫」ほどは普及しなかった。
 ……そして、その「猫」たちが最も多く使われているのは、売春宿でだ。大人しく従順な動物たちは、
未成年の売春、買春を禁止されているこの国の大人達にとって、うってつけの性欲処理の道具だった。
 痛覚も、恐怖も、悲鳴をあげる言葉もあるのに、政府は、彼らへの救いの手を差し伸べなかった。…所詮、
動物だという理由で。どんなに人に似せて造っても、結局偽造物は偽造物。模倣は模倣でしかないらしい。
 多くの「猫」は、最終的に飽きて、捨てられる運命にある。その、捨てられる「猫」に目を付けたのが、今まで法律を
犯してきた売春宿のオーナー連中だった。はした金で、捨てられる「猫」たちを買い、一晩いくらでそういう趣味の
人間たちに貸す。力無い動物たちは、主人の命令に従うしかなかった。もとより、人間には絶対服従という
コンセプトで作られているのだ、調教は容易かったろう。ほんの4、5年という短い一生を、これらの動物たちは、
人間に弄ばれて壊れるのだ。

 …十数日前家に来た仔猫も、例に漏れず、体を売らされていた身だった。
 雨の中家に連れて帰り、体を洗ってやろうと濡れたシャツを脱がせば、彼の浅黒い肌には、キツイ責めの痕が
はっきりと残っていた。
 どうして、この猫がその場所から逃げ出せたんだか、それは分からない。聞こうとも思わなかったし、聞いたって、
どうなるものでもない。だから、何も聞かずに家に置いた。ほとんど何でも、自分で出来るやつだったから。
ただ、食事さえ出してやれば、それ以外のことは全て自分でやった。
 そうして俺のことを、ご主人さま、ご主人さまと呼んで慕った。

 …最初から、こうだったわけじゃない。
 家に来て最初の日とその次の日は高熱でうなされながら眠り続けたし、意識を取り戻した日には、怯えて
震えてばかりいた。近づけば泣きそうな目で見つめてくるから、ベッドサイドに近づくこともできなかった。

食べやすい流動食をドアの側に置いて、それで部屋を出ていった。どうして、俺がそこまで気を使わねば
ならなかったのか、よくわからない。おそらくはその身の上に、ほんの少し同情したんだろう。
 数日間、そんな日が続いた。あいつはベッドから起きあがろうとせず、俺はほとんど部屋に入ろうとせず。
 言葉さえ交わさない同居生活に、別段俺は何も感じなかった。


 あいつが変わったのは、確か10日が過ぎた頃だった。
 いつも通りに帰宅して、いつも通りに何も言わずに家に入った。
 …そうしたら、玄関にあの仔猫がいて。

『…おかえり、なさい』


 恐々、震える声で。
 そんなに恐いなら、出てこなくても良いのに。
 そっと手を伸ばせば、猫はびくりと肩を竦ませ。
 銀の髪を撫でてやれば、驚いたように俺を見上げた春の空色の瞳と目があった。
 思ったよりもずっと柔らかい髪の感触を楽しみながら、「ただいま」、と言うと、あいつは嬉しそうに笑って。
 その笑顔が、今までに見たどんな笑顔よりも暖かくて。

 ………手放せなくなるかもしれないと、心のどこかで思った。




 そういえば、この仔猫と夕食を共にするようになったのも、ここ数日のことだ。
 一昨日、重役会議がひどく長引いたとき、こいつは、一応の時のために用意してあった夕飯も
食べずに俺を待っていて。
 何故食べなかったかと聞けば、「勝手なことは、しちゃいけないんです」と、小さくなって呟いた。
 名前を尋ねれば、「エーリッヒ…」と、答えてくれたけれど。
 俺から猫に触れることはしても、彼はけして俺に触れようとしなかった。
 それは、あるいは躾けられたこと。…あるいは、まだ、俺を怖がっている証。
 ぼんやりいろんなことを考えながら、ふと、時計を見る。夕食が終わって、あいつが風呂に行って、
……………1時間……?

「エーリッヒ?!」
 あわててバスルームに駆けつけて、ドアを開けると、案の定、仔猫はすっかり茹で上がっていた。
 何をしていたか知らないが、のぼせて真っ赤に色づいた体を、浴槽から引き上げる。

 ……十数日前には、感じなかった。

 細い、しなやかな肢体。
 ぐったりと手足を弛緩させて、全てを俺のまえにさらけ出している。
 無防備な柔らかい肌が、人にもある重みが、妙に生々しい。

「……ぅん…、…ごしゅじん、さま…?」

 バスタオルで体を拭いてやっていると、意識を取り戻したらしい。
 よく働かない頭で、俺を認識した、潤んだ瞳。
 荒い息を吐く、赤い唇とか----。
 いやに艶っぽくて。

 それで、こいつを買っていた連中の気持ちを、少しは知った。

 天然で人を煽る。
 …媚薬みたいな、存在。






 エーリッヒの部屋まで運んで、ベッドに放り出す。それ以上触れていたら、どうかなりそうだったから。
 ぽん、とスプリングのきいたベッドの上で転がって、仔猫はうつ伏せにシーツに沈んだ。
 その際、羽織らせていただけのシャツがするりと落ち、華奢な褐色の肩を露出させた。
 猫用の衣類を買うのが妙に躊躇われたせいで、エーリッヒはずっと、元もと来ていた汚れたシャツか、サイズの
合わない俺の服を纏っていた。
 細い肩が、誘っているように見えて仕方がない。
 立ち上がって、この部屋から逃げようとしたら、彼は気付いたのか、呼び止めた。

「…ご主人さま」

 無視しても良かったけれど、なんとなくそんな気になれず、振り返る。
 白いシーツの海の中から俺を見つめる、一対の宝玉。
 俄に目がそらせなくなる。
 猫は、微かに目を細めた。

「…どうして、僕に、こんなに優しくしてくれるんですか…?」

 質問の意味が掴めず、沈黙が流れた。
 じっと、逸らされない瞳が、俺を映している。

「…どうしてだと思う?」

 逆に質問すると、エーリッヒは静かに首を左右に振った。

「……解らないんです。僕は、何もできないのに。何もできないのに、どうして、貴方が僕を追い出さないのか」
「…何もできない?」
「できません。何も…。だから、…優しくして貰うたびに、苦しくなります…」

 シーツに顔を押しつけたから、言葉の後半はくぐもって、聞き取りにくかった。
 だが、この仔猫が何を気にして、何を考えて風呂の中にいたのかは、解った。
 …ただ、この家にいるのが心苦しいというのなら。
 ……働かせてやることだって、出来る。
 部屋を出ようとしていた足を、ベッドの方に向ける。
 片膝を乗せると、ベッドは、ぎっ、といって軋んだ。
 びく、と肩をふるわせ、エーリッヒが顔を上げる。
 怯えた、揺れる瞳が俺を見ている。
 剥き出しの肩に手を掛けてシーツに押しつければ、あっけないほど簡単に、エーリッヒはうつ伏せにベッドに倒れた。

「ご、主人、さま…?」


 驚いたように、エーリッヒは声を出した。

「何もできないわけじゃないって、教えてやろうか?」


 意地悪にそう囁くと、エーリッヒは震えながら、…頷いた。
 知っているはずなのに。
 なにをされるのか。

 それが、恐くないはずないのに。
 頷いて。

 
目を閉じて、大きく息を吐いた
 全てを諦めて。
 今まで自分をベッドに組伏してきた多くの人間たちと、結局は俺も変わらなかったのだと。
 そんな風に、思って。
 震え続ける仔猫の嘆きが、触れている肩から伝わってくるような気がした。

「…ご主人さま…」

 涙に濡れた顔をそっと上げて、エーリッヒは肩越しに俺を振り返った。

「ご主人さまのお役に、僕は、立ちたいんです。…だから、そんな顔をしないで下さい。…悲しくなる、から」


 …痛々しく笑うこの猫が愛しくてたまらなくなったけれど。
 情欲は、止めようがなくて。

「…ごめん」

 謝りながら、俺の体はエーリッヒの小さな体に覆い被さっていた。



  モドル                ご意見ご感想

 エーリッヒにいろんな呼ばせ方させたくて仕方ないらしいよ、SOSは。