どのくらい、眠っていたのか。
 俺は、微かに聞こえるノックの音で、目覚めた。
 怠かったから、居留守を使おうかとも思ったけれど、それすらも怠くて、玄関へ出た。
 ドアを開けると、そこにいたのは、数人の見知らぬ男たちだった。
 スーツ姿の連中は、パッと見、どこかのサラリーマンたちの集団のようにも見えた。

「何か、用か?」

 訝しんで尋ねると、男たちの一人が、

「この屋敷の持ち主の、シュミットさんですか?」

 逆に質問してくる。
 ああ、と短く答えると、男は懐から、一枚の写真を取りだした。


「この猫に、見覚えがありますね?」


 写真に写っていたのは、銀の髪と、青い瞳を持った仔猫だった。


 俺は息を呑み、頷いた。
 男も頷いて、少しお話したいことがあるのでどうぞ、と、俺を表に止めた車へと導いた。
 俺は、車に乗り込んだ。
 罠かもしれないとか、そんなこと、何も思わなかった。
 あいつのことが何か解るかも知れない。
 そう思ったら、それ以外のことは考えられなくて…。




 リーマン風の男たちは、実は自分達は、合成生物研究所の所員だと言った。
 完璧な合成生物を造るために、日夜研究を重ねているのだと。
 どこで、あの仔猫がこの連中と接触したのかは解らない。
 ただ、俺の前から姿を消したあの日、あの仔猫は、死期の迫った体を、この連中に預けた。
 数年しか生きられない生物を造ったこの連中にとって、あの仔猫の体は良い実験道具で。
 それは、あの仔猫の感受性や感情が、他のモノよりもずっと発達していたからだった。
 心の発達が長寿に作用するのだと、この連中はあの仔猫を研究して知った。
 仔猫は何度も実験台に据えられて、必要が有れば切開することすらも厭わなかった。
 彼らの造った『猫』には、不思議な作用がある。それは、彼らの成長がごく幼い頃に止まってしまうことだ。
 愛玩用に造られたために、そういう機能を持って生み出されてきた。
 あの仔猫もその通り。俺にあったあの時の体が、成長できる精一杯。だが、身体の成長が止まった後、
彼らの内部機関は急速に衰え始める。だからこそ、数年しか生きられないのだ。
 あの仔猫の場合、衰えに抵抗するように、新しく発達を始める細胞があったらしい。
 その細胞の働きを助けるためには、衰えた細胞を体内から摘出し、新たな細胞の生育を助けてやらねばならない。
 だから、あの猫は、2週間に1度は老衰細胞の摘出手術を繰り返さねばならなかった。
 そうやって手術を繰り返す内に、だんだん、麻酔が効かなくなってきた。
 多めの麻酔を投薬しても、手術の途中で目を醒ましてしまう。
 あの仔猫は、目が覚めても、痛みを必死に我慢して、声をあげない。強く目を瞑って、ただ、痛みに耐えているらしい。
 その姿を見る度、所員たちは、ひどい罪悪感にさいなまれる。こんな生き物を造ってしまった自分達をすら、呪う。
 それに、あの仔猫が生きたがっているわけではないのだ。自分達の研究に必要だから、生かしているだけで。
 辛く苦しいこの世界から、あの仔猫は早く逃げ出したいかも知れないのに。
 必死に耐えるあいつは、何も言わないで。
 ただ、悲しそうに笑うだけで。

 所員たちは、ある日、あの仔猫に、尋ねてみたそうだ。
 比較的体細胞の衰えが緩慢になり、少しずつ成長を始めた、あの仔猫に。
「何か望みはないのか」と。
 もし、「死にたい」と言えば、必死に説得して止めるつもりだったが、あの仔猫の答えは違って。



「…ご主人さまに会いたい…」



 “ご主人さま”というのが何処の誰だか、彼らは仔猫から聞き出して、ずっと俺を捜していたらしい。
 家を発見しても、俺は留守がちだったから、何日も、家を尋ねてきていたらしい。

 やがて、車は古びた一つの建物の前で止まった。
 鉄筋コンクリート造りの、無愛想な建物だ。
 所員に案内されて、無機質な色の廊下を通り、一つの部屋の前に案内された。
 所員がどこかへ消えてから、そっとそのドアをノックする。
 だけれど、部屋の中からは何の物音もしない。
 だから俺は、震える手でノブを回した。





 ドアをくぐってすぐに感じたのは、柔らかな風。
 白いカーテンが開け放たれた窓からの風に、俺は、雨が止んでいたことに気付いた。
 窓際に、病院においてあるようなベッドが一つ、あった。
 そっとそれに近づくと、綺麗な銀髪が目に留まった。
 目を瞑って、穏やかな表情で、エーリッヒはベッドの上に横たわっていた。
 シーツの下で、微かに上下する胸が、仔猫の生存を物語っている。
 俺は明らかに安堵して、そっと銀の髪に手を伸ばした。
 懐かしい手触り。
 3年も前、たった2ヶ月ほどしか共にいなかったというのに。
 懐かしさと共に、触れたいという欲望が湧いてきて、俺は、薄く開いた仔猫の唇に、そっとキスをした。


「…ん…」
「エーリッヒ…?」

 仔猫の声に顔を上げると、閉じられた瞼の下から、涙が零れていた。
 それを、そっと指で掬う。
 俺のしたことが、この仔猫に辛い過去を思い出させたのかもしれない。

「…ごめん」

 機嫌を取るように額に口付けて、小さな褐色の手を握った。

 嫌われていないと、知っていたから。
 だから、傍から離れることはしなかった。

「……ゅじんさ、ま…」

 ぎゅっと、俺の手を握り返しながら、仔猫は寝言を呟いた。
 辛そうに寄せられた眉間の皺に、どんな夢を見ているのか気になった。
 ……おそらくは、俺がこの子を虐めている、そんな夢だろう。
 虐めて?
 …エーリッヒにとって、抱かれることは虐められることと同意語だったかもしれない。
 繋いだ手がひどく熱かった。

 俺はベッドサイドの椅子に腰掛けて、仔猫の寝顔を飽くことなく見つめていた。
 起こしたくなかった。
 この時間が、続いてくれて良いと思っていた。

 やがて、窓からの風が、仔猫の頬をくすぐった。
 微かに睫毛が揺れて、そっと、ブルーグレイの双眸が現れる。
 天井を映して数度、瞬きされた瞳が俺の方を向いて。
 …動きを止めた。

「…ご主人、さま…?」

 青い目をまん丸に見開いて、エーリッヒは呆然と呟いた。

「ど、して…?」

 逃げるように、エーリッヒは身を引いた。
 その腕を掴み、自分の方へ引き寄せる。
 以前よりも少し大きく、でも細くなった体は、簡単に俺の腕の中に収まった。

「お前が、会いたいって言ったんだろう?」

 強く抱き締めながら、耳元で囁く。
 びく、と肩を揺らして、エーリッヒは俺の胸に顔を埋めた。


「…うん…」

 小さく呟かれたその言葉が愛しくて、銀の髪に口付ける。

「会いたかったです、ご主人さま…」

 俺の背中に腕を回して、ぎゅうと強く抱き付いてくる。
 俺も、強く、強く抱き締めていた。
 もう、離したくなかったから。逃がしたくなかったから。

「俺も…」


 そっと体を離して、どちらからともなく唇を重ねる。
 そうやって何度も角度を変えてキスを繰り返しながら
薄い服の下へと手を入れると、ざらっと奇妙な手触りがした。

「やっ…! いや、ご主人さまっ!」

 俺の手を、必死で押しのける。
 今まで、けしてこんなふうに抵抗はしなかったのに。
 どうして? と聞けば、エーリッヒは呟くように、言った。

「……僕の体、傷だらけなんです。すごく、汚いんです。…ご主人さま、きっと僕のこと、嫌いになります…」

 その言葉に、俺は多少ムッとして、仔猫に乱暴にキスをした。
 逃げる体をベッドに押さえつけて、服を脱がせながら、耳元で囁く。

「…そんなことで、俺がお前を嫌いになれると思ってるのか?」

 そんな気持ちなら、俺は壊れなかった。
 そんな気持ちなら、きっとさっさと忘れてた。

 仔猫はまた、新しい涙を流しながら、俺の首へ縋り付いた。

「………ごめんなさい…」

 掠れた声で呟いて、エーリッヒは俺に全てを預けた。



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 いつまで続くのよ(6話までよ。)