どうすればいいのか、解らない。
 あたりは闇。一歩先も見えない闇だ。
 ここから抜け出す術も、何も、俺は知らない。
 ただこの闇に閉じこもって、過去を抱いて、生きていく術しか知らない。
 抜け出したい闇の中。
 抜け出せない。
 抜け出したくない。
 忘れたくない。
 前へ進む方法を、忘れても構わないから。





 その日もまた、大雨だった。
 俺は、大雨を見る度に、ふさぎ込むようになっていた。
 あいつと出会ったあの日を思い出すから。
 そうなれば、いちいちあの仔猫の全てを、思い出さずにいられないから。
 怠惰で退廃的な、最低の生活を初めてから、3年目に入る。
 たとえあの時生きていたとしても、今はもう、きっとあいつは生きていない。
 あの愛玩動物たちは、無理矢理なDNAの接合の結果、ほんの短い間しか生きられない体にされている。
 もって5年。短ければ、4年に足りないこともある。
 あの仔猫は、拾ったとき、どう見ても出来てから1年半か2年は過ぎていたから。
 純粋な生物ならば、人工的に作られたモノであっても、80年ほどは持つのに。…俺達のように。
 俺は、母の顔も、父の顔も知らない。優秀な配偶子を掛け合わせ、試験管の中で生まれた生命体。
 今、この国のトップに立っている連中は、皆、そんな風にして造られた生き物だ。
 自分達が偽造品であるというコンプレックスを克服するためにも、『猫』たちは造られたんだと、俺は思っている。
 自分達以下の生き物を造ることに依ってしか、アイデンティティを確立できなかった。
 ある意味、哀れな連中だと思う。

 …そして、俺もそんな中の一人。





 評議会はどこまで行っても平行線のままだった。
 あいつが生きている内にやりとげたかった改革も、俺がこんな醜態を晒しだしてから、ぷつりと途切れた。
 俺に期待を寄せていた、動物愛護連盟やらなんやらの連中は、俺を嘘吐きだの、裏切り者だのと罵ったが、それも気にならない。
 俺が行動していたのは、たった一匹、たった一人のためだったのだから。
 百万の関係ない人間の命が失われようと、俺はあの一つの命を救いたかっただけなのに。
 あいつの笑顔を見たかっただけなのに。




 俺が腐敗したように、この国も腐敗している。
 崩れる。
 もう、持たない。






 情婦のベッドで、ぼんやり天井を眺めながら、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えている。
 雨音と、女のキツイ香水の匂いが俺を苛立たせた。
 頭が痛い。
 もう、何日家に帰っていないのだろう。
 出来ることならばあの家を売り飛ばしたい。
 あの仔猫の匂いの染みついた、あんな屋敷。
 でも、売り飛ばすことすら出来ない。
 あの仔猫の匂いの染みついた、俺の屋敷。

 一度心を蝕んだ麻薬は、その中から抜けることをなかなか許してくれなくて。
 夢見心地になれるその快楽を探し求める人間に、現の世界を捨てさせる。









 ふと、窓の外を見た。
 ひどい雨が降る街。
 雨はマルクト広場に続く石畳の道に、小さな流れを作っていた。
 流れる。
 流れていく。
 俺の中のこの感情も、流されればいい。
 流れてくれれば。
 そんな、一縷の望みのようなモノを抱いて、俺は雨の中に飛び出した。
 人の通らない道を、足を流れに浸しながら歩いていく。
 市庁舎前のマルクト広場にも、誰も人はいなかった。
 今日に限って、いやに静寂が広がっている。



 静か、だったんだ。


 だから、聞こえた。



 ………ちりん、って。








 「-----エーリッヒ!!!!!」








 走って走って、音がしたと思った方へ。


 もう生きてないって知っているのに。



 気が付けば俺は、家に帰り着いていた。
 濡れた服からぽたぽたと雫が落ちるのも気にせず、中へ駆け込んで、あいつの部屋だった場所のドアを、開けた。
 埃っぽい室内には、やっぱり誰もいなくて。
 持ち主を失った首輪だけ、机の上で鈍く光ってて。

 …思いだした。
 大きな鈴の付いた首輪は、あいつがここに置いていったんだって。
 居なくなった日の朝、部屋にはこれだけ残されてて。
 開け放された窓から吹き込む風に揺れて、微かに音を立てていた。





 恐いんだって言ってた。
 死ぬのが恐かったんだって、今なら解る。
 最後に抱かれたあいつの気持ちも、きっと解る。
 解ったってもう遅い。
 あいつはもう居ない。






 俺の部屋へ帰って、埃の積もったベッドに倒れ込んだ。
 最後にあの仔猫を抱いた場所。
 微かに、あいつの匂いが残っているような気がした。


 …ふいのことだったから。
 しばらく気が付かなかった。




 自分が、泣いてるんだって。




 うまれてから…、造られてからこっち、一度も零したことのなかった涙が、まるで今まで溜めてきたぶん全てを押し流すように、
とめどなく溢れて、止まらなかった。


 …きっと、初めてだったんだ。
 心から誰かを愛したのも、愛されたのも。
 俺も、あいつもそうだった。
 だから、あんなに充実してた。
 だから、あんなに満たされた。


 俺達は、無い物ねだりが激しくて。



 だから、お互いを求めてた。




 似たもの同士だったから、相手の枯渇をすぐ知った。






 だけれど、別れが早すぎて。
 それに気付かなかっただけ。
 気付かないふりをしてただけ。










 俺達は水鏡に恋をした、ナルキッソスだった。



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 救いが欲しい。