「……逃げようか」
「…え?」

 俺の腕の中で、まだ肩で息をしている仔猫が、首を傾げる。
 汗で額に張りついた銀髪をかき上げてやりながら、もう一度言った。

「逃げよう」

 仔猫は、考えるように黙り込んだ。
 その傷だらけの身体が、小さく震えている。
 昔、すでに一度何かから逃げ出したことのあるエーリッヒには、“逃げる”行為に伴う恐怖も、
逃げた後には、絶対に平穏な暮らしは訪れないことも、知っていた。
 仔猫はその恐怖と、何を天秤にかけているのだろうか。
 俺と暮らすことを?
 俺に好きなようにされながら、暮らしていくことを?


 ……莫迦みたいだな。
 さらって逃げてしまえば、いいのに。
 どうして、仔猫に決定権を委ねたりするんだろう。
 どうして、彼の返事を待とうとするんだろう。

 3年半前の俺なら、しなかった。
 他人の意見なんかに耳を貸さなかった俺だから、きっと一人で決めて、一人で行動していた。



「……ご主人さまと一緒なら、逃げてもいいです…」

 仔猫の出した答えに、俺は彼の顔を見た。
 エーリッヒは微かに頬を染めて、微笑んでいた。

「…もしもお前だけで逃げろって言ったら、ならお前は…?」
「それなら、逃げません。ご主人さまと一緒じゃなきゃ、嫌です」

 真っ直ぐに俺を見つめる青い瞳が、揺れていた。
 本当に、愛しくて、愛しくて。
 壊すと知っていて、壊したくなくて。
 矛盾の中で、存在を確かめるように抱き寄せた。

「…逃げよう、二人で」

「そうはいかない」

 声がして、直後に5、6人の白衣の連中が部屋になだれ込んできた。
 俺達が上半身を起こす間に、ベッドを囲まれる。
 俺は仔猫の裸体を背に庇いながら、男たちを睨み付けた。

「…覗き見していたのか? いい趣味だな」
「その猫は貴重な実験体なのでね。勝手な事をされると困るんだよ」

 さっきは見なかった顔だ。
 口調からすると、こいつがここの責任者のようだが。
 40代も後半にさしかかっていそうなその男は、俺をねめつけた。

「悪いが、お引き取り願えないかな? 君は歓迎されるべきお客様じゃない」
「…人を呼びつけておいて、結構な言いぐさじゃないか」

 負けずに言い返すと、男は深い溜め息をついた。

「…君を招待したのは、部下たちの独断でね。私の決定じゃない。私なら、けして実験動物に
 他人の指など触れさせん」

 …つまり、こいつの所行に部下たちの方が見ていられなくなったということか。
 仔猫の躰に積極的にメスを入れていたのは、おそらくこいつなのだろう。
 研究者として、研究の進歩のことのみを考えている。それは、非難されるべきことではないが。

 …だが、そんな奴にエーリッヒを預けることは出来ない。
 背中のエーリッヒは、はっきりと震えていた。
 この男が、恐いんだろう。
 それだけで、この男がエーリッヒにどういう仕打ちをしてきたのか、察してしかるべきだ。

 大丈夫、と言うように、エーリッヒの手を握った。

 男は静かに、俺に言った。

「逃げて、どうすると言うんだ? ここから連れだしても、その子は老衰で死ぬだけだ。
 生き長らえさせるためには、私達がその子に手術を施すしかないのだから。
 君はみすみす、その子を殺す気か?」

 心臓が凍り付くかと思った。
 エーリッヒがここにいるのは、生かしてもらうため。
 痛みを堪えてでも、生きていたかったからなんだと、思いだした。

 男の目が、俺の陰に隠れているエーリッヒの方を向いた。

「こっちへおいで、エーリッヒ。君は、生きたいから私達に身を預けたんじゃないのか?
 その男と一緒にいても、君にメリットは何もない。今の君では、もって4ヶ月。
 ここから出れば、それだけ生きられればいい方だ。だが、ここにいると言うならば、
 上手く行けば30年でも生きられる。生かしてやれる。この意味が分かるだろう」

 ぎゅ、とエーリッヒは俺の手を強く握り返した。
 眠っていたときよりもずっと、強く、強く。

 二度と、離れないように。
 そう、言ってるみたいに聞こえた。


 エーリッヒは、目の前の白衣の男をに視線を向けた

「…生きていれば、いつか、もう一回ご主人さまに会えるかもしれないと思った。だから、生きていたいと思った。
 もしも、ご主人さまに二度と会えないなら、生きてても死んでても同じことです」

 そこまで言うと、エーリッヒは、俺の腕を抱き締めた。
 何も纏わないその熱い体から、小さな鼓動が伝わってくる気がした。

「ご主人さま。僕を、連れていって下さい」

 言われた瞬間、俺は行動を起こしていた。
 シーツごとエーリッヒを抱え上げて、白いカーテンをかき分けて。
 柔らかな風の吹く外の世界へ、身を躍らせていた。


 後ろから、声が追いかけてくる。
 振り向かない。
 ただ、前へ、前へ。

 腕の中にある重みだけが、俺が護りたいもの。護りたかったもの。




 俺達の行く先は、誰も知らない。


 俺達でさえも、知らないのだから。

                                        【了】


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ハッピーエンドなんだかバッドエンドなんだか。本当はね、これは導入編なんですよ。でも、本編長すぎますからね。私が書いていられなくなったのでした(最低)。