どうやら、あの二人の間はなんとかうまく収まったようだ。
前のようなギクシャクも緊張も消えて、代わりに残ったのは、
カルロの私に対する隠そうともしない敵対心だった。
前にもあの男から私に対して牽制的な視線を送られたことは何度となくあるが、
今はハッキリ言って過去の比ではない。
廊下ですれ違う時でも、レースで対戦する時でも。
私に据えられたヤツの視線は、まるっきり獲物を横取りされたハイエナのモノだ。
私の功績を考えれば感謝されこそすれ、このような視線を送られねばならないいわれはないはずだ。
…まぁ、相変わらず私は隙あらばとエーリッヒを狙っているのだから、
あながちカルロの行動もお門違いではないのだが。
エーリッヒの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私はそれについて直接エーリッヒに尋ねてみた。
すると、穏やかで綺麗な、極上の笑顔でエーリッヒは答えた。
「彼が、僕が言った「僕は好きでもない人を誘惑できるほど強くないし、
好きでもない人に抱かれようなんて思わない」という言葉を
よく考えてしまったからだと思います」
…………………。
「…エーリッヒ…」
気づかぬうちに、すっかり強かになっていたものだ。
「あまり私を煽るな。私は今でもお前のことが好きなんだぞ?
またいつお前を襲うとも限らないんだからな」
冗談っぽく聞こえるように、にやりと口元に笑みを浮かべる。
くすくすと笑いながら、エーリッヒは椅子の後ろから私の首に腕を回した。
「…心配なんてしていません。貴方は僕の大切な”親友”ですから」
顔を上向けると、優しい笑顔の彼がいた。
そっと手を伸ばし、彼の頬を両手で挟んで顔を引き寄せる。
抗う様子をひとつも見せず、エーリッヒは目を閉じた。
それを了承の合図と受け取り、そのまま唇を重ねる。
柔らかい感触をゆっくりと味わって、触れ合わせるだけのキスを終える。
顔を離すと、エーリッヒはそっと瞼を持ち上げた。
温度の高い炎のように揺らめく青い瞳に魅入られて、私は自分自身
思いもしなかった言葉を口に上していた。
「…二人の男にシェアされるつもりは?」
その言葉に、エーリッヒは少し、驚いた顔をした。
「それで、貴方は満足するんですか?」
「どういうことだ?」
「貴方もあの人も、とても独占欲が強いと僕は思っていたのですが」
だから、一つのものは完璧に自分だけのものにしなければ
満足いかないのではないか、と?
確かに。
でも。
「お前を手に入れることができるなら、そのくらいいくらでも妥協するさ。
私らしくないと誰かに嘲笑されようが、そんなことすら気にならないくらい、
私はお前を想っているから」
エーリッヒは困ったように笑った。
素直に照れているのか、頬に僅かに朱がさしていた。
私はふ、と息を吐いて笑った。
彼が、本気でもないのに私に抱かれるはずはないことは、
よく知っていた。
「…気が変わったら、いつでも戻ってくるといい」
柔らかい猫っ毛をくしゃりとかき回し、私は言った。
エーリッヒはすみません、と言い、私の額にキスをした。
私に神の祝福を、与えてくれるキスだった。
多分私は、彼の身体を手に入れることはもうできないだろうが、
でも、優しい笑顔と祝福のキスは一生涯の間私に与えられるだろうと思った。
丁度そのとき、ノックもなしに私たちの部屋のドアが開いた。
そんな無教養な人間を私は一人しか知らなかったし、また、
おそらくエーリッヒも一人しか知らなかっただろう。
私たちが戯れにも抱き合っているのを目撃したその無教養な男は、
まるで野犬が噛み付くように私に掴みかかってきた。
「カルロ!!」
椅子に座る私に向けられた拳は、エーリッヒの声によって顔面の寸前で止まった。
私の拳も、彼の腹に当たる直前で動きを止める。
彼の男の憎憎しげな視線は私から外れ、エーリッヒの方を向く。
「早々浮気とはいい度胸じゃねェか、あァ?」
「人の前で堂々と他の女性の匂いをさせていた貴方に、
そんなことを言われる筋合いなんてどこにもありませんよ」
………浮気、していた訳ではないだろうに。
エーリッヒはそこにツッコミを入れるのではなく、
過去の相手の罪を責める言い方を選んだ。
「…っ! 昔のことは忘れろッつっただろ!」
「忘れろ? 貴方のその行為によって、僕がどれだけ傷つけられたと思ってるんです。
それを簡単に忘れろなんて、よく言えたものですね」
「てっめ…!」
つん、とエーリッヒはカルロから顔を背けた。
だがそれはけして本心からでなく、彼をからかってのことだろうとすぐに私は気がついた。
エーリッヒの腰に腕を回し、私は親友を抱き寄せた。
「あんな心の狭い男よりも、私のところへ戻ってきたらどうだ、エーリッヒ?」
すると彼はすべての悪戯を了解した上で私の首に腕を回し、
私に向けた目をからかうように細めた。
「なら貴方は、僕が彼と浮気をしても許してくれるんですか?」
「ふざけンな!!!!」
私の口が動く前に、乱暴なその男は唸り声を上げていた。
「そいつは俺のモンだ、触ンじゃねェ!!!
テメェもテメェだエーリッヒ、俺がちょっと優しくしてやりゃ付け上がりやがって!!!」
「貴方がいつ僕に優しくしてくれたんですか」
シュミットは優しかったですけれど、と嫌味に私の名を呼ぶ。
その言葉に答えて、私は離せと言われた腕でますます強く彼を抱いた。
「………ッ、なら勝手にしやがれ!!」
怒りが彼の薄い大脳新皮質を突き破ってしまったのだろう、カルロは叫んで
私たちの部屋を出て行った。
何の目的でここを訪れたのか、それすら言うこともなく。
乱暴にドアが閉められた後で、私は彼に回していた腕を解いた。
エーリッヒはそっと私から離れ、すみません、と再び謝罪を口にした。
「…貴方を利用するようなことをしてしまって」
私は首を横に振る。
「私から仕掛けたことだ。それに、なかなかあいつの顔は見物だったしな」
思い出し笑いをすると、エーリッヒも一緒にくすくすと笑った。
その笑顔を見て、私はひとつ、思い知った。
「…お前は最高のブリーダーだよ」
エーリッヒはふと顔を上げて私を見た。
あんなに人に懐きもしなかった猛獣を意のままに飼いならそうとし、
またすでに大方服従させてしまっている。
その自覚があるのだろう、エーリッヒはそうですね、と答えた。
犬のしつけなら、私にも覚えがある。
その大原則にも。
「さあ、行っておいでエーリッヒ。
鞭の後には飴を与えてやるものだろう?」
エーリッヒははい、と嬉しそうに返事をして、
カルロの後を追って部屋を出た。
私はその後姿を見守りながら、ふと、思った。
案外、私がカルロに負けたその理由は、
服従のさせ易さにあったのかもしれない。
腕のいいブリーダーほど、なかなか自分に従わない犬を
服従させる事に喜びを覚えるものなのだから。
私は椅子を半回転させて机に向かい、大きく溜め息をついた。
下らない痴話げんかに巻き込まれようと、私はエーリッヒの
傍にいられる限りこのような幸せな気分にさせてもらえるらしい。
だとしたら、私はすでに昔から、彼にすっかり教育されてしまっていたのかもしれない。
それはそれはあまりにも甘い毒によって。
<→続く>
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別にここで終わってもいいと思うのですが、裏小説だしねぇ…(最後の一話をどうするおつもり…?;;;)。